第九章 五月祭 1
エドガーはその日のうちにタメシスへ向かった。
レディ・アメリアを伴って一足先にスタンレー荘園へ発っているという。
エレンはエドガーにコーダー伯爵家内部に関わるいくつかの調べ物を頼み、ついでにタメシス警視庁あての手紙も預けた。
「警視庁のクリストファー・ニーダム警部補にこの手紙を届けてください。あちらから預かる資料があったらどうかお受け取りを」
「この私を伝書鳩の代わりに使う女性は地上で君だけだろうよ!」
「伝書鳩じゃありません。サラの代わりですよ」
「そいつは光栄だ」
エレンはそのままターブに残って追加の調査を済ませてから、五月一日の朝、マディソンを連れて雇の駅伝馬車でスタンレー荘園へと向かった。
昼になる前に到着した荘園には、そこにもここにも雪のような林檎の花が咲いていた。
領主館の果樹園が開放されて戸外でのダンスパーティーがあるらしく、白やピンクやクリーム色の明るい薄綿織のプリントドレスで装った娘たちが、パラソルをひらひらさせながら邸へ向かう並木道を歩いている。
エレンは車寄せで丁重にハウスキーパーらしき堂々たる婦人に迎えられた。
「レディ・アメリアの新しい付添女性でございますね? 旦那さまから遅れて起こしと伺っております。長旅でさぞお疲れでしょう。どうぞお入りください」
石造りの古風な荘園邸の玄関広間へ入ると、相変わらず象牙色の〈帝政様式〉のドレス姿のアメリアが大型の肘掛椅子のなかにぐったりと坐っていた。傍に貴婦人付添女性のミス・ベアトリスもいる。
「お待たせいたしましたレディ」と、エレンは慌ててお辞儀をした。
「ああ、来たのね」
アメリアが大儀そうに顔をあげ、とろんとした目つきでエレンを見上げてきた。
「ひどく頭が痛いのよ。――あの人のことで、わたくしに話があるんですって?」
「ええ。ターブでの調査のご報告を」
ターブ、という地名を口にしたとき、アメリアの痩せた体がびくりとするのが分かった。
怯えているのだとエレンは思った。
同時にデールという男への怒りが湧きあがってくる。
――間違いない。あいつは自分の目的のためにこの方の頭のなかをずっと引っ掻き回していたんだ。
「あの人は――」と、アメリアが縋りつくように訊ねてくる。
ちょうどそのとき、正面の大階段からエドガーが降りてきた。
「やあ来たかミス・ディグビー! ――母上、どうかもうしばらくご辛抱を。謎解きの時間の始まりですよ」
労わるような口調でいい、震え慄く母親の肩に軽く手を添えてやってから、エドガーは改めてエレンへと顔を向けた。
「ミス・ディグビー、君に頼まれたことはすべて調べておいた。謎解きを楽しみにしているよ。その前に何か飲み物でもどうだい? わが自慢のスタンレー荘園はターブに比べりゃ片田舎だからね、ヴァニラ風味のアイスクリームなんて言ってくれるなよ?」
エドガーの声音はあまりにも明るく、あまりにも饒舌過ぎた。
無理やりにいつもの朗らかさを取り繕っているようだ。
「そうですわね――」
エレンはしばらく考えてから、笑顔を作って頼んだ。「では名高いスタンレーの林檎酒を」
「そりゃいい。すぐに持ってこさせるよ」
エドガーがほんの少し明るい顔で笑った。
見るからに執事らしい執事が切子細工の美しいゴブレットに充たした林檎酒を運んでくる。全員に飲み物がいきわたったところで、エレンは口を切った。
「レディ・アメリア、例の鏡をお持ちですか?」
「ええ勿論。――ミス・ベアトリス。渡してやって頂戴」
「はいマイ・レディ」
付添女性が恭しく応え、小型の鞄から黒い天鵞絨の包みを取り出した。
エレンは包みを受け取ると、大理石張りのローテーブルの上で開いた。
中身はもちろんあの銀の鏡だ。
絡み合う二匹の蛇を象った取手の真ん中に、白濁した燦水晶が嵌めこまれている。
「この鏡をあれからご覧になりました?」
「いいえ、一度も」と、アメリアが怖ろしそうに応える。「あの人の死に顔が映っていたのよ? 見られるわけないでしょう!?」
「そうですね。申し訳ありません」
エレンは慌てて宥めてから、指先に魔力を集めて微光の珠を作ると、白濁した凝石に指を触れて一気に注ぎこんだ。
途端、カッと赤っぽい魔力が弾け、エレン自身の魔力である淡い金色の微光があふれ出す。
その光が消えたあとで、エレンはまた同じ手順を繰り返した。
テーブルを囲む一同が興味深そうに見守っている。
魔力を一気に使うのは体に負荷がかかる。
三度目に指先に光を燈そうとすると、頭の芯がずきずきと痛み、ブーンと微かな耳鳴りまで生じてきた。エレンは奥歯を食いしばって堪え、自らの魔力の塊を三度目に凝石へと注いだ。
すると今度は赤い魔力による阻害が生じなかった。
エレンはほっとした。
ようやくアルフレッド・デールの魔力をすべて追い出せたようだ。
「戻りなさい光の精粋よ。初めに造られた姿に」
追い出しに使った自分自身の魔力を吸収しながら命じると、燦水晶の濁りが少しずつ晴れて、青みを帯びた透明の色合いに変じていった。
「まあ――」
アメリアがため息のように呟く。「綺麗ねえ――」
「ええレディ、これがこの凝石の本来の色調です。この石はもともとターブの祭典魔術師たるサー・チャールズ・スキナーが作り上げた〈記憶の鳥たち〉という自動機械人形の眸に用いられていました」
「スキナー?」と、アメリアが問い返した。とろんとしていた眸に光が戻りかけている。「その名前は聞いたことがあるわ。――ミス・ベアトリス、あなた知っている? 誰でしたっけスキナーというのは」
「マイ・レディ、残念ながらわたくしは何も」
「母上がターブのスキナー一族の名を知っているのは全く不思議ではないよ」と、エドガーが口を挟む。「ミス・ディグビーのご指示で母方の伯父に問い合わせたんだが、わがコーダー伯爵家に嫁ぐ前、体の弱いミス・アメリア・サックヴィルは、医者の勧めで毎年冬はいつもターブで過ごしていたそうだから。そのときには大抵地元の有力者であるスキナー家が所有する別邸を借りていたらしい」
「え、違うわ」と、アメリアは眉間に皴をよせる。「何を言っているのエディ。わたくしがターブにいったのは十八のときが初めてで、そのとき初めてあの人に――」
そこまで口にしたところで、アメリアが額を抑えてうめいた。
ベアトリスが慌てて手を差し伸べる。
「マイ・レディ、しっかりなさってください!」
「大丈夫、大丈夫よ。頭が痛いだけ」
アメリアが意外な気丈さで言い、きっと眉を吊り上げてエレンを見上げてきた。
「ミス・ディグビー、早く教えなさい。あなたは何を調べてきたの? わたくしは――わたくしは何を見たの!?」
アメリアの口調は悪夢に怯える子供のようだった。
エレンは腹を決めて告げた。
「それを今からお見せします。―-いいえ、思い出していただきます」