第六章 謎の肖像画 1
エドガーの地所であるスタンレー荘園はターブからはそれほど遠くないのだという。
「五日の猶予があるなら、私は一度荘園へ戻ることにしよう。ミス・ディグビー、もしよければ君も来ないか?」
鉱泉館のパーラーでヴァニラ風味のアイスクリームと赤いゼリーを挟んだスポンジケーキと鹿肉のパイとホットチョコレートという最新流行の軽食を楽しみながら、エドガーは本気とも揶揄いともつかない声音で言った。
エレンは、ええぜひ喜んで――と、答えたくなる衝動を必死で堪えた。
スタンレー卿は聞いていたよりはるかにまともな人物のようだが、爵位貴族の嫡男の田舎の邸にミドルクラスの未婚の娘が同じ身分の付添夫人なしで赴くなど、人に知られたらそれだけでも大スキャンダルだ。
「残念ですけど連泊で宿をとってありますの。復活祭の正午にまた落ち合いましょう」
「分かった。君がそう言うなら」
エドガーは本気で残念そうに言った。
エドガーと別れて宿へと戻ったエレンは、着替えもそこそこにまた火蜥蜴を呼び出して訊ねた。
「ねえサラ、あなたタメシスまでは往復でどのくらいかかる?」
「昼間も飛んでいいなら丸一日じゃな」
「昼間はまずいわね。いくらなんでも目立ち過ぎちゃう。市街地を飛ぶのは朝焼けと夕焼けの時間だけにして」
「むう。すると二日、三日かのう。あの若造に伝令か?」
「ミスター・ニーダムのこと? いい勘しているわね!」
薄綿織ドレスを脱いで、宿備え付けのパリッとした肌触りのリネンのローブに着替えながら、エレンは声を立てて笑った。「大正解。クリストファー・ニーダム警部補に、ディグビー諮問魔術師からの秘密の依頼よ。コーダー伯爵家の次男のアーノルド・キャルスメインについて、出来る限りのことを調べて欲しいと」
そこまで口にしたところで、エレンは慌てて部屋の一隅の小さな書き物机を見やった。
マディソンが三脚椅子に座って黙々と帳簿付けをしている。
「--ねえミセス・マディソン、今の話を聞いて気を悪くしないでね?」
定位置である右肩に火蜥蜴をとまらせたままエレンは恐る恐る告げた。
「あなたの調査に問題があるわけじゃないの。ただ、世間からの評判以外のことをもう少し詳しく知りたくなったの」
「ミス・ディグビー、お気になさらず」と、マディソンはいつもの平坦な声で応えた。「あなたは雇い主で私は雇用人です。どんな仕事を割り振るかということまで気になさることはありません」
「心がけるわ」と、エレンは所在なく答えた。
見た目が若いのに内面が成熟しているマディソンと話していると、自分が全く世間知らずの小娘に戻ってしまったような気後れを感じてしまう。
「それではエレン、行ってくるぞ。儂を呼び出したままにしているのだから、あまり無理をするなよ?」
「サー、どうかご心配なさらず」と、マディソンが丁重に口を挟む。「雇い主の健康については私も気にかけますから」
「うむ。頼んだぞご婦人」
火蜥蜴は重々しく応じると、赤い入日の射しこむ窓の外へと飛び立つなり、放たれた砲弾のような速度で新運河の上を東へと遠ざかっていった。
「夜に見たら深紅の流星のようでしょうね」と、マディソンが珍しくほれぼれとした口調で呟いた。
翌日の午前中、エレンは前の日と同じ多少は落ち着きのある服装で、再び画家組合の会館へと赴いた。デールが無事であることは確かめられたものの、万が一にも鏡に現れた何かが未来予知であってはまずい。念のため、ターブの魔術師が書き残した記録があれば目を通しておこうと思ったのだ。
――何しろこの町は偉大なるエスター女王時代に偉大なる祭典魔術師を輩出しているのですものね。わたくしの知らない古い技が伝わっていたっておかしくはないわ。
マディソンが手配した鉄人駕籠は相変わらずガタピシ揺れた。喋るだけの機械鳥を気にせず、ドアベルを鳴らして中へ入ると、右手の部屋から若い書記のソープが顔を出した。
ソープはエレンを目にするなり血色の良い丸顔を嬉しそうに綻ばせた。
「あれ、おはようございますミス・ディグビー! 風見鶏荘には無事お着きになりましたか?」
「ええ幸い」
「ミスター・デールはこの頃タメシスで人気高騰中なのですか? 一昨日あなたがいらっしゃったすぐ後にも、彼が今どこに住んでいるか尋ねにいらした方があったのですよ。それが何と貴族で! スタンレー卿ってご存じですか?」
「ええまあ。知らないこともないわね」
答えながらエレンはあきれ果てた。
母の昔の恋人の在所を訊ねるにあたって、あのお気楽な貴公子は堂々と自分の身分を明かしていたらしい。
――レディ・アメリアがあんなにも秘密厳守と念をおしていたのは、もしかしたらご嫡男の出生に疑いをもたれないためにという母心だったのかもしれないけれど……当のご本人がここまで目立っちゃっているなら、私も多少は素性を明かしたっていいような気がしてきたわ。