第五章 二輪馬車の中で 2
「――じかに訪ねてはいけないとなったら、君の見解としては、私はどうしたら穏便に彼に会えると思う?」
ストラトフォード川に架かる橋を渡りながら、エドガーが真面目な声で訊ねてくる。
年下の女を揶揄いながらおだてるあの大仰な口ぶりではなく、オールラウンダーの紳士が専門職に助言を求める口調だ。
エレンはしばらく考えてから答えた。
「ミスター・デールをターブ市街にお呼びするのはどうです? 夕方になったらわたくしの契約魔を伝令に出しますから」
「君の契約魔は夕方にしか活動しないのか?」
「活動はいつだってできますけれど、色彩の問題なのです。――ご覧になれば分かりますわ」と、エレンはさっと左右を見回してから、人目が無いのを確かめたうえで、右の掌を広げて呼んだ。
「サラ、出てきて頂戴。新しい知り合いを紹介するから」
途端、掌から淡い金色の微光が立ち上り、小さく赤く輝かしい火蜥蜴が現れ出た。
エドガーが目を瞠る。
「彼女がサラ?」
「彼じゃ無礼者」と、火蜥蜴自身が渋い男声で応える。
「喋るのか!」
「喋っちゃ悪いかい。昨今の若いのはどいつもこいつも――で、エレンよ、なんじゃこの賭け事と乗馬とアナグマ狩りにしか能のなさそうな軽薄そうな貴族は」
「や、僕は鴨も狩るよ? とても巧いよ?」
「彼はスタンレー卿。コーダー伯爵家のご嫡男で、今回の依頼人のレディ・アメリアの御子息です。仕事関係のお付き合いよ」
「そうか仕事関係か」と、火蜥蜴はポッと安堵の焔を吐いた。
「どうやらそうらしい」と、エドガーが残念そうに応じる。「ご紹介に預かったエドガー・キャルスメイン・ジュニアだ。君は火蜥蜴だからサラと名乗っているのか?」
「儂は名乗っちゃおらん。エレンの命名だ」と、火蜥蜴がはーッと淡い炎を吐く。「鴨も狩る貴族よ、率直に答えよ。エレンのネーミングセンスをどう思う?」
「あ――」と、エドガーは応えに詰まった。「ごく最上とは言えない、かな?」
「率直に凡庸と言え」
「では卿、あなたなら何とつけますの?」
「そうだな――」と、エドガーが考え込んでから、得意そうに眼を輝かせて答えた。「ザ・ブリリアント・サラマンダー・オヴ・アルビオニ・フラグマトゥス! なんてどうだい?」
「おお、悪くないのう。叫ぶと様になりそうじゃ。エレン、ここはひとつ――」
「却下。長すぎます」
火蜥蜴と貴公子はセンスが似ているようだった。
エレンがきっぱり否んだとき、火蜥蜴が小さな皮翼を広げてパタパタと上へと飛んでいった。
「サラ、どうしたの?」
「伝令のようじゃ。大きな蝶が来よる」
火蜥蜴のエメラルド色の眸が仰ぐ先を見やると、なるほど、後方から、ずいぶんと大きな真っ白い蝶が、川風に嬲られながらもひらひらとこちらへ飛んでくるのが見えた。近づくにつれて蜂蜜のような甘い薫りが漂ってくる。
エレンははっとした。
この薫りは知っている。
レディ・アメリアから託された〈合わせ鏡〉に、光と音と匂い、それぞれの形で魔力を注ぎこんで阻害反応を確かめたときに嗅いだ。
エレンは自分の両目に魔力を宿して蝶の正体を見た。
二つ折りにした白い紙のカードだ。
ついさっきデールに託してきた住所カード。
デールはそのカードに自分自身の魔力を籠めて、持ち主であるエレンの元へ戻るようにと命じたのだろう。
――つまり、あの鏡の魔力もやっぱりミスター・デールが籠めたってわけね。
「ミス・ディグビー、一度車を停めるか?」
「いえ大丈夫。少しだけ速度を落としてください。あの子追いつけなそう」
エレンは馬車の縁から上半身を乗り出し、右腕を伸ばして蝶へと呼ばわった。
「おいで、こっちよ!」
途端に蝶がまっすぐにエレンの掌へ向かって飛んできた。
エレンの膚に触れた瞬間、蝶は本来の姿である二つ折りのカードに戻ってしまった。
エレンは慌ててもう一方の腕を伸ばして両手のあいだに挟んだ。
「――ご苦労様」
「それは?」
「ミスター・デールからの伝言のようです」
エレンはカードを広げながら答えた。「復活祭の正午、鉱泉館で。――待ち合わせの日時ですね」
「その日になったら彼自ら来てくれるのか。今年の復活祭は――あと五日後か!」と、エドガーが困ったように眉をよせる。「参ったな、夏の社交季が始まる前に一度スタンレー荘に戻りたかったのに」
「四月の田舎で山査子でもご覧になるんですの?」
「山査子も重要だが、五月祭に邸の果樹園を開放してやっているんだよ。その支度の最終確認をしなけりゃ」
「あらそんなことを?」エレンは意外の念に駆られた。「わたくしの父の邸でも同じことをやっていますわ。小作人たちにお菓子とエールを振舞うんです」
「私のところではもっぱら林檎酒だ。大陸の戦争の影響でこのごろ輸入ワインの値段が上がっているだろう? 村の居酒屋向けの林檎酒が売れ筋なんだよ」
熱を込めて話すエドガーの表情は愉しげだった。
エレンは目の前の貴族を見直す思いだった。
少なくとも、日がな一日アナグマ狩ばかりしているわけではないらしい。
そうなると、不思議なのはやはりあの悪評だ。
聞くからに真面目かつ熱心に荘園経営にあたっているらしいコーダー伯爵家の嫡男の評判は――本人曰く数年間の「若気の至り」があったにせよ――タメシス周辺ではなぜあれほど壊滅的に悪いのだろうか?
もしかしたら、誰かがわざと悪評を流している――のかもしれない。
――その場合目的は明白よね。スタンレー卿を廃嫡して、次代のコーダー伯爵を弟のアーノルド・キャルスメインにすること。
誰かがそう目論んでいるとしたら、レディ・アメリアとミスター・デールの過去の恋愛は、結婚一年後に生まれた嫡男の血統を疑わせるには最適の醜聞になる。
問題は、誰がそれを画策しているかってこと。
一番疑わしいのはやはり次男のアーノルドだろうか?
あるいは、初めから長男の血筋に不安を抱いていたコーダー伯爵当人という場合もあるかもしれない。
それから、もうひとつの謎もある。
アルフレッド・デールがこうして元気に生きているのだったら、三月二十五日の死に顔らしき何かは、結局何だったのだろうか?
そしてデールの顔。
あの顔は確かに見たことがある。
とてもよく似た顔を、どこかで見たことがあるような気がする――……
「――ミス・ディグビー、もうじきに市街地に入るが」
と、沈思するエレンの傍らから、エドガーが控えめな声をかけた。
「サラはそのままでいいのかい?」
エレンははっとわれに我に返ると、掌を広げて火蜥蜴に呼びかけた。
「ありがとうサラ。今日はもういいわ」
「うむ」火蜥蜴は長い首を軽く振りながら掌に飛び降りると、エメラルド色の目でキロッとエドガーを見やった。「貴族よ、そなたのネーミングセンスは気に入ったぞ」
火蜥蜴は不穏な感想を残し、エレンの掌越しにどこかへと消えていった。
「――君が呼ばないときには、彼はどこで何をしているんだい?」
「火蜥蜴の小世界にいる――と、サラ自身は言っていますね。たぶん、そこでずっと眠っているんじゃないかしら?」
「眠って?」
「ええ。サラはわたくしこそが彼の夢だと言うんです。夢だから醒めれば消えてしまうのですって」
エレンが一抹の寂しさとともに告げると、エドガーが目を見張り、思いがけず明るい声で笑った。「この世のほうが夢か! いいね、そう考えると随分心が軽くなる」