第五章 二輪馬車の中で 1
外から聞いた限りでは秘密厳守の契約を忠実に履行してくれていたらしい御者に約束の半クラウンと帰りの馬車代を支払ってから出ると、思った通り、貴公子は例のピカピカした屋根なし二輪馬車にもたれていた。
「乗ってくれ。走りながら話そう」
促されるまま乗り込むなり、馬車は軽快に走り出した。
後ろから村の子供たちが歓声をあげながら追いかけてくる。
その賑やかな甲高い声がようやく聞こえなくなったところで、男が視線を前に向けたまま訊ねてきた。
「君の仕事は何なんだ?」
「その前にあなたの名前を」
「あ――エドガーだ」
「……ファミリーネームは?」
「キャルスメイン」
「――要するにスタンレー卿?」
「要するにそうだ」と、エドガーは不本意そうに答えた。「よく知っているな! 私だけ本名を知られるのは公正とは言えない。君も隠さず本名を教えたまえよ」
エドガーの声は落ち着いていた。
少々怒りっぽいようではあるが――前評判で聞いていたような浅薄さや卑しさは全く感じられない。
エレンはしばらくためらってから正直に答えることにした。
「セルカークのエレン・ディグビー。タメシス警視庁任命の諮問魔術師です」
「そうか。思った通りだ。この村にはアルフレッド・デールを捜しに?」
「ええ」
「彼は生きていた?」
「スタンレー卿、あなた、何をどこまでご存じなんですの?」
「おそらく君が知っていることは殆ど知っている――のではないかと思う。三月二十五日以来、いつも春には多少躁鬱状態の母の様子がいつも以上におかしくてね、気になって探りを入れていたらベアトリスが打ち明けてくれた。彼女は妹の昔の家庭教師でね、アリスが遠くに嫁いでいってしまった今は、父の邸にいる唯一に近い私の味方なんだ」
「御父君のお邸に敵が多くありますの?」
「率直に言ってイエス、だ。父はどうやら嫡男は次期コーダー伯爵にはふさわしくないと思い詰めているようでね」
「――まさか、そのために御身内の手で偽の悪評を振りまかれているのですか?」
「や、それは単なる若気の至りだ」と、三十がらみの貴公子は照れくさそうに馬に鞭をくれた。「いい齢をして情けない愚痴を言うようだが、私は昔から何をしても父の気に入らない息子でね。大して頭も良くないこの私が丸半年ボート競争を我慢してカトルフォード大学を首席で卒業してみせたのに一言もお褒めにあずかれないことに絶望してしまってね、思わずぐれたのさ」と、やや古い砕けた口語で言って自虐的に嗤う。「父からの軽蔑にふさわしい放蕩に耽れば、僕はこんなに悪い子だからお父様から愛して貰えないんだ――って、自分を納得させられるだろ?」
わざとらしく幼い口調で言って嗤うエドガーの顔は歪んでいた。
エレンは苛立ちと同情がないまぜになった激しい感情にかられた。
「――お言葉ですけれど卿、そういうことを笑いながら話すものじゃありません。聞き手は慰めようがないでしょう」
「こんな情けない泣き言、大の男が泣きながら話すわけにもいなかいだろ?」
「泣く権利は誰にでもあります。人間になら誰にでも――と、サラなら言うでしょうね」
「サラは君の親友?」
「ある意味では。――つまり、卿は今回の〈合わせ鏡〉の騒動を聞いて、ご自身が何をしても御父君に愛されない理由は、三十一年前のお母君とミスター・デールとのあいだの密かな関係にあるのではないか――と、察し、もしかしたら本当の父親かもしれない相手の存在を確かめにきた、と。そういうことなのですね?」
「ああ。まあ、要するにそういうことだな」と、エドガーは苦笑した。「何をしても父に愛されない理由、か! さすがに優秀な魔術師殿だ。手厳しい正確さだ。で、君の目から見てどうだった? アルフレッド・デールは私と似ていたか?」
「――正直、全く似ていませんね」
エドガーの端正な横顔を横目で眺めながらエレンは率直に言った。「彼の顔はどこかで見たことがある――ような気はするのですけれど」
「魔術師の記憶をもってしても思い出せない何処か? 興味深いな。君の素性と目的も確かめられたし、ひとつ戻って推定父上の顔でも拝んでくるかな」
「え、それはいけません!」と、エレンは慌てて止めた。「ミスター・デールには奥様がいるんです。わたくしが急に訪ねたことでもうとっくに波風が立ちそうなのに、この上あなたみたいに目立つ方が訪ねたら大変だわ!」
「目立つ? 今の私が?」と、エドガーは不本意そうに答えた。「このなりでどう目立つというんだ。どこにも紋章はつけていないぞ」
「――スタンレー卿」
エレンはあきれ果てながら訊ねた。「もしかして目立たないよう身をやつしているおつもりでしたの?」
「当然だろう。母の名誉に関わることだ」
貴公子は大真面目に答えた。