5、聖堂のその後
ディオーネ教の聖職者であるレオナルドはハルピュイア地域にある聖堂を訪れていた。
それは毎年の定例の視察だった。
ディオーネ教の教会の中でも将来を嘱望されるレオナルドが、この聖堂を訪れるのは、ここがそれだけ重要視されているということだ。
レオナルドは、仕事であると同時に、この聖堂を訪れるのが個人的にも楽しみだった。
仲の良い同僚が、女ばかりの聖堂に行けるなんて羨ましいぜ。可愛い子多い? 一人くらい紹介してくれよ。なんて品のないことをからかい半分に言ってくるが、レオナルドはそういうことが楽しみな訳ではない。
レオナルドは、聖堂に向かう馬車の中で目を瞑った。
あの入り口の前に立った時の、心が澄んでいく不思議な感覚。
聖堂の中に足を踏み入れると、あたりはしんとしていて、ただ歩いている自分の足音が気持ちいい音となって反響する。そして、呼吸をするたびに自分の内側の空気が、聖堂の清澄な空気と入れ替わっていく。その空気はそこにしかないものだ。
レオナルドはその空気が好きなのだ。
しかし聖堂に近づくにつれ、期待に胸を膨らませていたレオナルドの顔が曇ったのだった。
なんだか今年は空気が微妙に違う気がする。
なんだか空気がくすんだ色をしているというか、いろいろなものが少しずつ色あせているみたいな。
それは視覚的に何かが変わったということではない。
あくまでレオナルドが感じる、目に見えない空気の質の話だ。
それは同じく目に見えない魔力の流れとも違う、色で言えば白、そういう清浄な何かだ。
聖堂に足を踏み入れても、去年までのような澄んだ空気は感じられなかった。空気がまるっきり変わってしまったみたいだ。
今年は何か変だ。レオナルドはそう思った。
「まあレオナルド様。聖職階位三位にご昇進おめでとうございます」
聖堂の中に入っていったレオナルドを迎えたのは、美しい衣服を身にまとった一人の女性だった。
「ええ、これは聖女様。ありがとうございます」
「今年も私、聖女自らご案内いたしますわ」
「これは恐縮です」
毎年同じように聖女に案内してもらっていたが、レオナルドは彼女のことが苦手だった。
彼女はレオナルドの顔色を窺い、気に入られるように振る舞っているように見えるのだ。
それは彼の視察によって、この聖堂への寄付金の配分が決まるからだろう。
聖女はレオナルドを連れて、聖堂の中を案内した。
聖堂の中は隅々まで清潔で、清掃が行き渡っていることが見て取れた。それに様々な設備が充実している。それは多分に配分された寄付金で賄われたものだろう。
ここにはレオナルドが普段、暮らしている場所より遥かに充実した設備があった。王都の貴族の家にも引けを取らない贅沢さだが、彼女やここのシスターたちはそれに気づいているのだろうか?
それから聖女はある部屋の前で足を止めて、言ったのだった。
「ここはシスターや聖女がお勤めの間に休むための部屋です。今よりもっと私たちがお勤めに集中できるように設備を良くしたいと思っています。具体的にはソファやベッドをより質の良いものに取り換えたいのです。なにぶん数も多いので、できればもう少し寄付の配分を増やしていただけないでしょうか」
「すみません、私の権限で決めるられることではないので、なんとも」
「存じておりますわ。でも、どうか、上の方にお伝え頂きたいのです」
「承りました」
レオナルドがそう答えると、彼に向かって聖女はほほ笑んで見せた。そうすれば男性は言うことを聞いてくれるというような自信に満ちた笑顔。レオナルドはそういう種類の笑顔が嫌いだったので、眉を顰めそうになったが我慢したのだった。
聖女が自ら案内してくれるのは、結局こういう交渉がしたいからなのだ。まあ、毎回のことだからもう慣れているけれど。
途中、礼拝堂を通る時にレオナルドは足を止めた。
彼が高いドーム天井を見上げると、首をかしげた。
こんなに低かったっけ?
いや、たしかにこれくらいの高さなのだけれど、前年まではもっと、まるで空みたいに広く高く感じたのだった。それに光がもっと差し込んで、明るかったような。
それがいまはただの平凡なドーム天井だ。
今日の自分の精神状態が、あまり良くないとか、そういうことなのだろうか。
それから聖女は最後に、三つの聖具を持ってきて、それらがきちんと使えることをレオナルドに示した。
「問題ないですね」とレオナルドは頷いた。
「ご視察お疲れさまです。来年もお待ちしていますわ」
「ありがとうございます。あ、そうだ」
レオナルドは自分の言葉が特別な意味を帯びないように注意しながら言ったのだった。
「もう一つの聖具も見られますか?」
「もう一つの聖具とは? ああ、レプリカのことですか?」
「ええ、そうです」
聖女やここのシスターはそれを複製品だと認識しているらしい。それは好都合だ。それが本物の聖具であることを隠すためには。
「えーと。その……レプリカは、ここにはありませんわ」
レオナルドはその言葉に驚いたあまり、は? と大きな声を上げそうになったが、それを必死に抑えたのだった。
「はあ。では今それはどこにあるのでしょう?」
「それは、エオスポロス辺境伯ですわ。彼が欲しがっていたので差し上げました。何の力のないレプリカですもの。何か問題でも?」
レオナルドは「エオスポロス辺境伯」と聞いて、すぐに思い当たることがあった。なるほど。それで。
「いいえ、それならいいのです。気にしないでください」
「エオスポロス領」と言えば、レオナルドの知り合いの宗教博士が最近、しばしば足を運んでいると聞く。何をしに行ってるの? と尋ねると、あまり多くは話せないが聖女が関わっている、と意味深に言っていたが、何やら怪しいな。
でも聖具がもうここにないとなると、話が全く変わってくるな。
本物の聖具がここにないのならこの聖堂の存在意義は揺らいでしまう。寄付の配分も考え直さなければならない。
そもそもここが重要拠点だったのは貴重な本物の聖具が保管されていたからだし、ここにいた「聖女」やシスターたちはそれを隠すためのカムフラージュに過ぎない。だから本物の聖具がなくなったら、彼女たちがここにいる意味もなくなってしまう。
こうなっては彼女たちも、この聖堂じゃなくて、もっと質素な修道院に移ることになるだろう。
可哀想といえばそうかもしれないけど、修道院の生活が悪いわけではない。本来、そういうところで生活すべき人たちが、たまたまここにいるだけなのだ。
生活レベルの差に慣れるのは大変かもしれないけど。
「それでは、お気を付けて」
「ありがとうございます。聖女様」
「それではまた来年」
聖女はあの自信満々の、私って美しいでしょ、というような微笑みでレオナルドに会釈をして、見送ったのだった。
しかし彼女と顔を合わせることは、もしかしたらもうないのかもしれない。
彼はそんなことを思いながら聖堂を後にしたのだった。
「以上がレオナルドから聞いた、今の聖堂の話です」
ウィンターベリー博士はレオナルドから聞いた話をミミに語ったのだった。
「そうですか」
ミミは特に心を動かされた様子もなく、あっさりとそう言ったのだった。
「しかし驚いたのは、あなたとテオ殿の結婚が、このエオスポロス領の外に全然知られていなかったことです。調べてみると、結婚式を開いた時に聖堂が招待客などをコントロールして、情報を統制していたようです。でも、そんなことをしても、いつか明るみになることでしょう。私には後先を考えない杜撰な計画に思えます。彼女たちは何を考えていたのでしょう」
「アリアはそういう人なんですよ。もし彼女のやったことがバレても、たとえば辺境伯のテオ様が悪いことにする。そしてもともとの契約自体を無効にすることを主張する、なんてことをしたでしょう」
「確かに辺境伯は評判が良いとは言えませんからね。それはもしかしたら上手くいったかも。でもよくあの『聖女アリア』の考えがわかりますね」
「彼女がそういうことをするのは、いつものやり方なので」
「なるほど」
「それから、アリアさんやシスターたちは、もう少ししたら修道院に移動させられるそうです。まだ本人たちには知らせていないそうですが。ところで、あなたの古巣がこんな風になってしまうことは悲しかったりします?」
「悲しい? どうだろう。私は聖堂を出る時に、もうここに帰ってくることはないと思って、出てきたのです。私があそこを出た瞬間から、そこは私にとってずっと遠い場所になってしまった。だからあまりなんとも思わないんですよ。私は薄情なのかもしれませんね」
「いえ。それならよかった。レオナルドはあなたが悲しまないかを気にしていましたから」
ミミはそんな風にして聖堂の今の状況を知ったのだった。
彼女に、アリアやシスターたちに同情する気持ちは湧かなかった。それほど深い交流はなかったし。
ただ聖堂にいたときは、あんなに絶対的だと思っていた聖女アリアや年上のシスターたちがみんないなくなるというのは、あっけないというか、あまりうまく想像できなかった。
ミミは誰もいなくなった聖堂を思い浮かべた。
人がいなくなって静かになった聖堂はそんなに悪くない。
もし聖堂に心があるとしたら、落ち着いて一息つけるんじゃないか。
あそこはぽかぽかと暖かいし、お昼寝するのには気持ち良さそうだ。
いいなあ。
彼女は、静かに寝息を立てる聖堂を想像して、ふふと一人でほほ笑んだのだった。