4、聖女の力と偽聖女
彼女が偽聖女であることが辺境伯家にバレたとしても、ただちに離縁されることはないだろう。
ただしこのままこの屋敷にいられるかというと、定かではない。何しろミミは嘘をついて、辺境伯家を騙していたのだ。
どこか辺境伯が所有する別宅などに移されたりするかもしれない。
そうなっても文句は言えないし、それくらいは最初から覚悟していたことだ。
そのはずなのに……
今はここを去りたくない。
そう思うほど、ここが居心地がよくなっていた。辺境伯邸は彼女にとって、いつの間にかそんな離れがたい場所になっていた。
侍女の案内で、彼女は屋敷の端にある小さなホールのような場所に来ていた。
壁は石造りで、窓が小さくて光があまり差し込まないため、外は天気が良いはずなのに、曇りの日の夕刻のように暗かった。
そこにはテオと彼の知り合いのような人物、そして学者のような見た目の人物がいた。
「ミミ、来たか」
彼らの側には見たことのある長方形の箱があった。聖堂の倉庫で見た、聖具のレプリカが入った箱だ。
「ミミ、紹介しよう。彼は私を補佐してくれているジャンだ。相談相手、ブレーンそういった存在かな」
それからテオはジャンの方を向いて話しかけた。
「ジャン、これが私の妻である聖女のミミだ」
「やあ、ミミさんよろしく。これはテオにはもったいないくらいの美人だ。嬉しいなあ。あなたのおかげで、陰気くさいこの場が華やかになりますよ」
ジャンはそう言って、ミミに笑いかけた。
彼はテオとは対象的に明るい雰囲気をまとった男だった。シャツの胸元のボタンを開けている、南方の陽気な男性が好むスタイルだった。でもここでそれは寒くないのだろうか。
ミミは頭を下げて応えた。
しかし、「私の妻」とは不思議な響きだ。形だけの結婚だというのに。
「そしてこちらが宗教博士のウィンターベリー氏」
テオは学者風の男をミミに紹介した。
こちらは真面目そうで、いかにも知的な人物という印象だった。年は他の二人とは変わらなさそうだが、年齢の割には落ち着いた様子だ。
「聖女様、はじめまして。お会いできて光栄です」
「えっと、こちらこそ」
ミミは宗教博士というのが具体的にどういうものかわからなかったが、とにかく頭の良い偉い人なのだろうと思った。
この場にいるのは、頭の切れる若者、知識の深い学者。要するに、彼らは、彼女が聖女かどうかを確実に見抜くことができる、誤魔化せない人たちということだ。
しかし、ミミが心を整理する間もなく、テオはいきなり本題に入ったのだった。
「早速だが、これを使って聖女の力を見せてくれないか?」
テオは聖具の入った箱を指さして言った。
「はい、わかりました。テオ様」
ミミはゆっくりとその箱の方に歩き出した。
先ほどの会話、皆、私をまだ聖女だと信じて疑わない様子だった。
彼女は、自分が偽聖女であることを、今すぐに告白すべきだと思った。もう隠しておけないのだから、せめて潔く自分から言い出すべきだ。
でも彼女はやっぱりその勇気が出なかった。
テオだけならきっと言えてた。でも、だって初対面の人も二人いるし、彼らは私の聖女としての力を見るために、わざわざこの屋敷に足を運んできたのだろう。
そんな彼らがいて、今はそういうことを言い出せる雰囲気じゃない。ミミはそんなことを考えて、告白をしない言い訳にしていた。
やっぱり怖い。
もうちょっとだけ待って欲しい。
しかし彼女の目前に箱はあり、そこに一歩一歩近づいていく。
「でもテオ、聖女の力が本当だとしたら、大きいよね」
ジャンがテオに話しかける声が聞こえた。
「ああ、この辺境の国境を守るための結界、それは今まで机上の空論だったが、聖女の力があれば実現できる。そうだろう? 博士」
「ええ。実際に試したことはありませんが、理論上は十分可能なはずです。様々、聖女様の力を増幅させる仕組みを構築する必要がありますが。しかし果たして私どもの計算が合っているのか、確かめられる機会が来るとは。実に興味深いです」
三人がミミを見る目は、期待に満ちていた。
しかしその視線はミミにとって針のむしろのようだった。
彼女の足取りは重かった。
このまま箱に永遠にたどり着かなければ良いのにと思った。
しかし無情にも彼女は箱にたどり着いてしまった。それほど距離はなかったのだ。
彼女は腰を下ろし、閉まっている蓋に手をかけると、それをゆっくり持ち上げた。その手が震えているのを気づかれないように、なるべく三人に背を向けて。
蓋を開けると、そこには聖女の三聖具と呼ばれる三つの道具が姿を現した。
三聖具とは、光の杖、守護のヴェール、金鹿のブローチの三つだ。
ミミはそのうちの光の杖に手を伸ばした。
だめだ、怖い。無理。
彼女は杖の柄を掴む直前、目を瞑った。彼女は一度深呼吸すると、目を閉じたまま、その柄をぎゅっと両手で握り、思いっきり持ち上げたのだった。
その瞬間、
「ほう」と興味深そうに呟くテオの声が聞こえた。
ああ、ついに知られてしまったのだ。
きっと光を放っていない杖を見て、すべてを悟ったのだろう。
ミミは目を瞑ったまま、三人の男たちに向かって、
「ごめんなさい」と謝りはじめた。
「私もこんなつもりじゃなかったんです。本当はもっと早く言うべきだってわかっていました。でも、私怖くて言い出せなくて。そう、私は偽物の聖女なんです。ごめんなさい。ごめんなさい……」
ミミはなんども暗闇の中に向かって頭を下げた。
その時テオが、
「何を言っているんだ?」と不思議そうに言うのが聞こえた。
ん? どういうことだろう。
予想と違う反応にミミは混乱した。
ミミは、恐る恐る目を開けてみた。
すると目を刺すような光が飛び込んできたのだった。
「眩しい」
ミミがあまりの眩しさに、開けかけた目を一度閉じた。それからゆっくりと目を開けると、煌々とした光が、杖の先端に取り付けられた宝玉から放たれているのがわかった。
「これは?」
ミミはきょとんとした顔でそう呟いた。
「ウィンターベリー博士?」
テオが隣の博士に問いかけた。
「ええ、これは……紛れもない、本物の聖女ですな。これは驚いた」
「そうだよな。まあ聞かなくてもわかる」
テオは深く頷いた。
「はは。本当にすごいね」とジャンも笑っている。
ミミが手に持った杖の先からは、眩いばかりの白い光が放たれ。暗かったホール全体を明るくしていた。
「どういうこと?」
どうしても事情が飲み込めないミミだけが、しばらくぽかんとしていた。
ミミは、自分の手が握った、見たこともないような強い光を放つ聖なる杖を、信じられないというような表情で見つめていた。そもそもこれはレプリカ。本物の聖具ではないはずだ。それに本物にしても、聖女アリアが持っていた時は……
「どうしたんだ?」
ミミのあまりの驚き様に、テオは訝しげに尋ねたのだった。
「だって、こんなの見たことない。本当の聖女が持っている杖はもっとぼんやりとした光だったもの。それに、これはレプリカのはず。一体どういうこと?」
「彼女は何を言っているんだ?」
「テオ殿、彼女は疑似聖具のことを言っておられるのだと思います」
とウィンターベリー博士が言った。
「疑似聖具? なんだそれは?」
「あ、これはどうか内密にして欲しいのですが。というのはディオーネ教の教会はこのことを表沙汰にしたくないらしいのです」
他の三人は頷いた。
「疑似聖具とは、魔力の強いものが使うと聖女の力を幾らか再現できるという、本物を模倣した聖具になります。ディオーネ教で聖女という時、通常はその疑似聖具を扱う力をもつ者のことを言います。私は、ミミ様もそちらだと思っていたのですが、まさか本物の聖女であるとは、驚きました。まさかこの目でそのお姿、お力を拝見できるとは、なんと神々しい」
博士は我を忘れたように、手を広げてそう言った。
「ちょっと待て。よくわからない。もっと詳しく説明してくれ」
テオはウィンターベリー博士に突っかからんばかりの勢いで、説明を求めたのだった。
「はい。ええと、これは推測も含むのですが、恐らく、聖堂には彼女とは別に、聖女と呼ばれている方がいたのだと思います。実際、前にハルピュイアの聖堂の聖女様を見た知り合いは、その方は疑似聖具を使っていたと言っていました。疑似聖具はもっと鈍くぼんやりとした、淡い光といった感じで、こんなに眩しくないのです。だから私は驚いたんです。ミミ様が、そんなものではない本物の聖女の力を、今まさに見せているのですから」
「ミミ、今の話は本当か?」
「はい、その通りです。本当の聖女はアリアと言うんです。そして私は偽聖女のはず」
「ああ、ややこしいから、その偽聖女というのはやめてくれ。いいか、お前が本物の聖女なんだ。今から後は、その偽聖女と言う言葉はやめだ」
「わかりました」
「それでさっきはなんであんなに謝っていたんだ?」
「それは、本来、婚約者としてここに来るはずだったのはアリアの方だったんです。それなのに、顔が似ているからって私が聖女の振りをしてここに来ました。私は、そうやってテオ様や屋敷の人たちを騙してきたから。それは悪いことだから。だから本当に、ごめんなさい」
「なるほど。でも、ミミが謝る必要はない。なにしろ本物の聖女なのだからな。私は、それなのに謝られる意味がわからない、それに話を聞く限り、ミミは被害者だという気がする。謝るとしたら、聖堂かそのアリアという人物だろう。しかし今はそんなことはどうでもいい。大事なのは、聖女の力が期待通り、いや期待以上だったということだ。この場の結論はそれだけだ。いいな。ご苦労。もう十分。ミミは戻っていいぞ」
テオは普段の寡黙な様子からはとても想像できない、とても興奮した口調でそう言ったのだった。それほどミミの見せた聖女の力が驚きだったのだろう。
ともかく、今まで緊張していて疲れも感じていたミミは、退席していいと言われてほっとしたのだった。
「はい、失礼します」
ミミは頭が整理できないままホールを出て、キッチンに戻った。
戻るとエリーが待っていてくれた。彼女の顔を見るとほっとする。
「エリー、聞いて。私、本当の聖女だったみたいなの。一体どういうことなんだろう」
エリーはそれを聞いてきょとんとした顔をしている。
「何を言っているのでしょう。ミミ様は聖女ですよ?」
「そうなんだけど。さっきまでは私、偽聖女だと思っていたの。それが違うって。本物の聖女だって言われたものだから頭が追いつかなくて」
「はあ、そうですか」
エリーはぴんと来ないというような表情をしていた。
ミミはエリーに聖堂のときのことも含めて、今までの自分のことを説明した。
話終わると、ようやく隠していたこともなくなって、ミミは胸のつかえがとれたような安堵を覚えたのだった。
「そういうことでしたか」
「ごめんね。話すのが遅くなって」
「いえいえ。ずっと悩んでいらっしゃってたんですね。それなのに私いつも能天気に。それと、私、ミミ様がもし偽聖女だって気にしませんでしたよ」
「本当?」
「だって一緒にお菓子を作るのは変わらないでしょう? それにテオ様だって気にされなかったと思いますよ」
「そうかなあ? だって私聖女じゃなかったら、なんでここに来たのかわからないじゃない」
「なんでここに来たのか。それは……あ!」
その時、ちょうどお菓子が焼けたことを知らせるベルが鳴ったのだった。
「それはお菓子を作って食べるためです!」
「そうなの?」
ミミは話の筋道が通っていないと思ったが、エリーが持ってきた焼き立ての美味しそうなお菓子を目にすると、まあ良いかと思った。
ミミとエリーは、出来たお菓子を口にすると、たちまち笑顔になった。
それから匂いにつられたのか、侍女たちが続々と扉を開けて入ってきたのだった。
「たまたま通りがかったのですが」
彼女たちは決まってそんな言い訳をする。
「はい、どうぞ」
とエリーが笑顔でお菓子を渡すと、侍女は「わあ」と嬉しそうな歓声を上げる。
「まあ、ありがとうございます。今日も美味しそうですね」
そして、キッチンの狭い空間が、甘い匂いと笑顔で満ちたのだった。
その中にいると、ミミはエリーの言ったことが全部正しいような気がしてきたのだった。
それからミミは定期的に、テオ、ジャン、ウィンターベリー博士の三人と打ち合わせをするようになった。国境に結界を張るために、計画を練っていたのだ。
ある日、その打ち合わせの終わり際、ウィンターベリー博士がミミに話しかけたのだった。
「あなたが元いたハルピュイアの聖堂について、最近気になる話を聞いたのですがね。聞きたいですか?」
「なんでしょう」
「これはあなたにとっては良い知らせなのか、悪い知らせなのか、わからないですが、あの聖堂にいたシスターたちや、あなたの言っていた聖女はもうあそこにはいられないと思います」
「そうなんですか?」
「はい、私の知り合いがディオーネ教の聖職者でしてね。ちょうどあの聖堂に視察に行く担当なんですよ。それで聞いたのですが」
そうしてミミはウィンターベリー博士から、聖堂のミミが出た後の成り行きを聞いたのだった。