櫛
「刺された?」
ザドキエルは信じられないように聞き返した。
「バーバリュースが? なぜだ」
「わかんないけど、そんな話が聞こえて来たから」
ウリエルに聞いて、ザドキエルはまだ信じられない気持ちで青竜宮に向かっていた。
「これはザドキエル様。ただいま取り込んでおりまして・・・」
「バーバリュースが刺されたって本当なのかルエ」
「---------はい」
「一体誰が・・・」
ふたりのいる部屋はわかっている。ザドキエルは足音も騒々しく噴水の部屋に向かった。 扉を開けると、果たしてふたりはそこにいた。バーバリュースが上半身裸になり、噴水の縁に腰掛けてカレヴィアに包帯を巻かれている。
「来たのか」
刺された本人はなんでもないような顔をして手当てを受けている。
「誰にやられたんだ? 顔は見たのか」
「さあな。人込みだったからわからんのだ。顔も見ていない」
こだわらない様子の彼に、ザドキエルは絶句した。
「---------あんたなあ」
「うん?」
「刺されたんだぞ! もっと怒るとか驚くとかしたらどうなんだ」
「お前は騒がしいのう」
「あいにく慣れているんでね。こんなことぐらいでは驚かなくなった」
カレヴィアの手当てが終わって、彼女がいいぞ、と言ったので、バーバリュースは服を着だした。その傷だらけの身体に、ザドキエルは言葉もない。
「カレヴィア、どういうことなんだ」
「わからん。身体の主は留守番をしておった。そしたら戦使族の者に連れられてこやつが帰ってきたのよ。脇腹を刺されてな」
「心当たりはあるのか」
「ここじゃ新参者だ。あるはずもない」
「誰かの恨みを・・・かうことは、ないよな」
服を着終わった彼は黙ってうなづく。
「どこで刺されたんだ」
「市だ」
「なにをしに行った」
「それは---------・・・」
「言わぬのじゃ。この儂にもな」
カレヴィアがやれやれと首を振る。ザドキエルはぱくぱくと口を動かした。
「心配をかけたようだがこの通り無事だ」
「お前、まさかそれだけのために来たのか」
カレヴィアに言われて、ザドキエルは困ったように返答する。
「いや・・・その」
「なんじゃ」
「カレヴィア。お前の対の男だからな。心配になったんだ。それはそうと、」
ザドキエルは誤魔化すように言い直した。
「戦使族に連れられたってことは、眷属の者は刺されたって知ってるんだな」
「ああ」
「厄介だぞ」
バーバリュースが問いたげにこちらを見た。
「あんたは眷属の王だ。それを刺されたとなったら、戦使族は血眼になって刺した者を探し出すだろう」
「眷属の者には騒ぎ立てするなと言ってある。事を大きくしたくない」
「そうは言われても戦使族は水面下で探すだろう。それが眷属というものだ」
「そうなのか」
バーバリュースはカレヴィアに言った。
「そのようじゃ」
彼はため息をついた。
「揉め事は下界だけでたくさんだ」
バーバリュースは立ち上がり、
「眷属の者たちにもう一度言わねばならんようだな」
言うや、部屋を出て行ってしまった。
「あ、おい・・・」
パタン、と扉が閉じるのを見て、素早い彼の動きに絶句していたザドキエルはそこに立ち尽くした。
「酒でも飲むか」
カレヴィアが聞くと、ああ、と放心してこたえた。
「あの落ち着きよう・・・いつもああなのか」
「大抵はそうじゃ」
彼に酒を出してやりながら、カレヴィアはさらりと言う。
「それにしても・・・心配じゃないのか」
「本人が大丈夫だと言うのに心配などしておられるか」
「死んだり・・・しないよな」
カレヴィアは酒を注ぐ手を止めて声を上げて笑った。
「心配には及ばぬ。もう死んでおるわえ」
「それはそうだが・・・」
「あの男の人生は、戦いに明け暮れていた。あれしきのこと、なんでもないのじゃ」
「ふうん・・・」
今度大図書館で調べてみるか、と、ザドキエルはちらりと思った。カレヴィアのことを調べてみたことはあるが、彼のことに関しては、まだまだ知らないことの方が多い。
「それで今日はなにをしに来た? まさか本当にあやつのことのためだけに来たのではなかろうな」
「ああ、そうだった。いや、ついでで来たんだ。実は最近天上界で不審な動きが見られるんだ」
「ほう・・・」
カレヴィアのその秀麗な眉が寄せられる。
「聞こうか」
王たるバーバリュースが刺され、戦使族の者たちは案の定いきり立っていた。あれだけ言ったのに、彼らは憤慨して犯人を探そうと躍起になっていた。そこへ当のバーバリュースがやってきて、刺した者の捜索などせずともよい、探し出してそれ相応の目に遭わせようなどとはもってのほかだと言われては、突き出した拳を下げるより他になかった。
「ですがバーバリュース様」
「くどい。オレがいいと言っているのだ。捜索は無用だ。いいな」
未だ不満の残る眷属たちに鋭い一瞥をくれておいて、彼は翼を広げた。青竜宮へ戻ると、ザドキエルはいなかった。
「おかえりなさいませ」
アスティが迎える。
「なんだ帰ったのか」
「はい、つい先ほど」
と、彼が腹を押さえたので、アスティはその顔色を見た。
「痛むのですか」
「少しな」
動いたからであろうか、包帯からは血がにじんでいた。
「今包帯を代えます」
噴水の縁に彼を座らせて、アスティは黙って包帯を代えた。しかしその顔には、案じているような、それでいてなんと言えばよいのかわかりかねているような、そんな表情が浮かんでいる。
「どうした。なにか考えているな」
はい、と手を動かしながらこたえる。
「神とはいえ生身の身体ですから、気をつけないとなにがあるかわかりません」
「なに、」
彼はふっと笑った。
「どうせもう死んでいる。死ぬことはないだろう」
神だしな、と彼は皮肉げに言った。
アスティは手を止めて彼を見上げた。不安げに寄せられた眉根、その黒い瞳は、はっきりと心配の色を浮かべている。
「王・・・」
しかしその手に自分の手を置き、カシルはそっと言った。
「オレなら大丈夫だ。これしきのことでは倒れたりはせん」
「---------」
アスティは包帯を巻き終えると、黙って立ち上がった。そして部屋へ行ってしまった。 彼はそれを追って部屋の中に入った。
彼女はひとり、部屋の中で立ち尽くしていた。
歩み寄り、その肩にそっと手を置く。アスティは顔を背けた。
「心配をかけてすまなかった」
「---------」
カシルはその肩を抱いた。
「だからもう、怒るな」
「怒ってなどいません」
彼はアスティを抱き締めた。強くきつく、息もできないほどに。
「---------」
「すまなかった」
彼はその抱擁を解くと、そうだ、と言って懐から何かを取り出した。
「これを渡そうと思っていた」
「?」
彼は手のなかのものを差し出した。
櫛だった。
大ぶりの黒檀の櫛。その表面には精緻な彫刻が施され、宝玉がいくつか嵌められている。
「---------」
アスティは声もなくそれを手に取り、見つめていた。
「でもこんなものを一体どこで・・・」
そこで彼女ははっとした。
「---------まさか市に行ったというのはこのために?」
彼はいたずらっぽく笑った。
「ばれたか」
「---------」
アスティは絶句した。なんと言っていいのかわからなかった。言葉が出なかった。
「どうだ気に入ったか」
「・・・・・・」
アスティは泣き出した。カシルがこれのために刺されたことを思うと、どうしたらいいかわからなかった。彼はその肩をそっと抱いた。
「泣くな。お前が泣くとオレは、どうすればいいのかわからない」
アスティがその胸で泣いている。彼は刺された自分の迂闊さを秘かに呪った。櫛だけで、ここまで泣かせるつもりはなかった。
彼はアスティが泣き止むまで、ずっとその肩を抱いていた。