がらんどうの骨
「カレヴィア様。ザドキエル様でございます」
「やあ」
ある日ふたりで過ごしていると、ルエに案内されてザドキエルがやってきた。
「久し振りだな」
「たかだか十日程度のことじゃろう。大袈裟な」
カレヴィアは立ち上がった。ザドキエルはそこに座る彼にバーバリュース、と言いながら会釈して座った。
戦使族の新しい王が天上界にやってきて二週間が経とうとしていた。
その間、カレヴィアは一歩も青竜宮から出ることはなく、バーバリュースと過ごしていたようだ。十七年という歳月は天使にとってはあっという間だが、人間にとってはそれなりの時間である。積もる話もある、好きなだけ一緒にいたいのだろう、天使たちはふたりの逢瀬を思ってそんなことを口々に言っていた。
ザドキエルはそれから初めての客ということになる。
「今日は何用で来た? ミカエルの使いには見えぬが」
「いや、なに」
ザドキエルは言葉を濁した。そろそろ行ってもいい頃なんじゃないのか、と天使たちにつつかれたことを思い出したのである。
「元気かなと思ってな」
「この通りじゃ」
カレヴィアは酒を出しながらこたえた。彼女はバーバリュースの方に向かって、飲むか、と聞き、彼がああ、とこたえるに従って酒を出す。
「天上界の暮らしはどうだ?」
ザドキエルは彼に聞いた。バーバリュースは肩をすくめてこたえる。
「いつでも天気はいいし、暑くもなく寒くもない。戦いはないし、平和だ」
退屈なところだな、と言うので、ザドキエルは大声で笑った。
「下界の暮らしから考えれば退屈かもしれんな」
「ひとつだけ挙げるとすれば、余計な気を遣わんですむのがいいくらいか」
「さもあろう」
王であったのだから---------ザドキエルは言いかけてやめた。
下界で国王という身分であったバーバリュースは、天上界でも戦使族の王となった。責任という意味では重いことに変わりはないが、しかし、その統治は人間であった頃とはかけ離れたものになるだろう。
「ま、その内慣れるさ」
「そう願う」
ザドキエルは酒で口を湿らすと、くつろいだ態で話し始めた。
「そういえば、聞いたか。このところ天上界を騒がしている骨なし男のことを」
「骨なし・・・? なんじゃそれは」
カレヴィアが座りながら訝しげに聞いてくる。
「肋の骨という骨がみんななくなって、胸ががらんどうの男が夜な夜な歩いているそうだ」
「けったいだの」
「そうだろう。その男は普段は物売りで、服をすっぽりかぶっているのでわからないそうだが、あまり売れ行きがよくないと服を脱いで骨だらけの姿になって恨み言を言いながら追いかけてくるそうだ」
「天上界なのにか」
「天上界なのにだ」
バーバリュースの言葉にうなづいて、ザドキエルはもう一口酒を飲んだ。
「天上界にも人間はいるんだ。もっとも、あんたらみたいに人間の記憶も肉体も持っているなんていうのは例外中の例外だ。みな地上での罪を許され、記憶を失っている」
「なにゆえそのような男が天上界におるのじゃ」
「さあな」
「お主らの管轄であろう」
「オレたちの管轄は地上の人間であって天上界の人間じゃない」
「物は言いようじゃのう」
呆れた様子のカレヴィアに、ザドキエルは笑って言った。
「さ、そろそろ行くよ。邪魔して悪かった」
「なんの。いつでも来るがよい」
カレヴィアはそうだろうが、あんたは違うだろう---------とバーバリュースを見ると、彼もカレヴィアの言葉にうなづいているので、へえ、とザドキエルは思った。
ザドキエルが帰ってしまうと、カレヴィアはアスティになり、また彼もカシルに戻ってふたりで時間を過ごしていたが、戦使族から使いが来て、新しく子供が産まれたので見に来てほしいという。
「子供・・・?」
はい、とアスティはうなづいた。
「有翼族に子供が産まれると、眷属の王が見に行って祝福を与えるのです」
「・・・」
そういうところは地上にいた頃とあまり変わらんな、と呟いて、彼は青竜宮を出た。黒く透き通る翼を広げると、彼は呼ばれた戦使族の元へ赴いた。
「これはバーバリュース様」
「子供が産まれたそうだな」
「はい。こちらでございます」
案内されて部屋に入ると、戦使族の夫婦が産まれたばかりの赤子を抱いて待っていた。 祝福を与えると言っていたな。どうすればいいのだ。
彼はちらりと思い、思うのと同時に踏み出していた。考えるより先に、身体が動いた。 彼は右手をくるくると回すと、そこからなにか温かいものが溢れるのに任せ、手を赤子にかざした。
パアッと、黒く透き通る光が部屋を照らす。
「名前は決まっているのか」
「はい。エレンでございます」
「ではエレン。戦使族はお前を歓迎する」
「どうかこの子がよい竜人と出会えますように」
カレヴィア様とあなた様のように、と言われ、なんと返事をしていいのかわからず、彼は黙って部屋を辞した。
ひとり青竜宮を目指していると、市場のようなところへ差しかかった。
色々な眷属で、市はごった返していた。
「旦那、旦那、寄って行って下さいよ」
「さあ見ておくれ、どれも新鮮なものばかりだ」
場所がどこであれ市場というものは変わりがないな、と思いながら、彼はさきほどの赤子のことを考えていた。ふと、地上に残してきたふたりの子供のことが思い浮かんだ。あのふたりにも、産まれたばかりの時期があった。その頃のことを思い出して、彼が思わず口元に微笑を浮かべていたときのことだ。
「果物はいかが?」
と、籠いっぱいの果物を乗せた男が近寄ってきた。彼は青竜宮で待つアスティのことを思い浮かべた。みやげに何か買って行くか。
梨を買い求め、彼が帰ろうとした時、後ろから
「卵はいらんかね」
という声がした。特別自分に話しかけているわけではなかったので、カシルは気にも留めずに青竜宮の方向に目を向けた。
その時である。
背後で、凄まじい雄叫びが上がった。市場が一瞬静まり、そしてすぐにざわめきで溢れる。振り返ると、そこには奇妙なものが立っていた。
服を脱いだのだろう、それらしきものが落ちている。
そして「それ」は---------そこに仁王立ちになって立ちはだかっていた。
「---------」
彼は絶句していた。
立ちはだかっているのは、ひとりの男---------であろうか。わからない。なにしろ、その立ちはだかっているものは全身骨であったから。からからと歯を鳴らし、頭骨もあらわらに、両手を広げている。
そしてその胸には、一本の骨もなく、向こうがまるまる見えている。
キャーッという悲鳴が上がったかと思うと、そこにいた人々が狂乱状態になって逃げ惑い始めた。市場は大混乱である。逃げ回る人の波に押され、彼は身動きができなかった。 その腕を、骨の腕が掴んだ。
「待ってくれ。恐がらせるつもりはないんだ」
「---------離せ」
しかし骨男は彼を掴んで離さない。
「待ってくれ」
市場はいつの間にか人がいなくなってがらんとしている。男は逃げて行ってしまった人人に未練がましそうな視線をやると、カシルに話しかけた。
「すまない。こんなことになるとは思わなかったんだ。オレはただ、昔の恋人を思い出してここに来ただけなんだ」
「昔の恋人・・・?」
「ああ。オレと暮らしていたが、こんな暮らしは嫌だと言って出て行ってしまって以来、どこを探しても見つからない。オレは金を貯めて、いつか彼女を呼び戻すんだ」
「・・・その骨はどうした」
「オレはこう見えて、昔は血も肉もある人間だった。胸の骨だって揃っていた。でもあいつに裏切られるたび、少しずつ肉が落ち、骨が一本、また一本と軽石のように砕け落ちていった。オレの寂しさ虚しさと一緒になくなった骨は、もう二度と元には戻らない。恋人は今に必ずオレのところへ戻って来てくれる、そう信じて今まで働いてきたんだ」
「---------」
「しかしそれも結局、はかない望みだったんだ。もうオレには失う骨がない。これ以上骨を失ってしまっては、それこそ生きていけなくなってしまう」
骨男は拳を握った。カラ、と渇いた音がした。
「畜生・・・オレがこんなに待っていたのに、あいつは・・・。いくらなんでも、あんまりだ」
「その女の居場所はわからないのか」
「わかったところで、こんな骨だけの男がなにができるというんだ」
「・・・」
言葉もなかった。男はそこに座り込み、声を上げて泣き始めた。立ち去るわけにもいかず、カシルはずっとそこで彼が泣き終わるのを待っていた。
「---------あんた、いいひとだな」
流れてもいない涙を拭く真似をして男が立ち上がり、そう言ったときには、太陽は大きく傾いていた。
「気が済んだか」
ああ、と男はこたえ、人気のなくなった市場を見回した。
「とりあえずその姿を晒して歩くのはやめておいた方がいい」
「そうだな」
男は服を着ると、放り出していた籠を持って歩き出した。彼にもう一度礼を言うのも、忘れなかった。
青竜宮に戻ると、アスティが出迎えてくれた。
「ずいぶんと遠くまで行かれたのですね」
帰りが遅いので、彼女は心配していたようだ。彼は市場でのことを話した。
「そうですか・・・」
渡された梨の皮をむきながら、アスティはそっと睫毛を伏せた。
「それにしても天上界というからにはもうちょっと静かだと思っていたが、なかなかどうして以前とあまり変わらんな。人の生き様も」
「そのようですね」
もっとも私はそんなに人間と関わることはありませんが、と言うと、彼女は切った梨を出した。
「人のいるところには愛憎がある。天上界でもそれは同じようですね」
「あの男の心の休まる日が来ればいいんだが」
それであのがらんどうの胸の骨の一本でも戻れば---------と、彼は思った。
天上界の生活の、ほんの一頁であった。