『化け物』
青嵐学院大学 13時42分
東京湾を挟み対岸になる房総半島の上には大きな積乱雲が構えている。
横浜の上空には雲一つない青空が広がり、太陽は真上に差し掛かっていた。
気象予報の最高気温33℃は既に越えているが、海からの風がひと時の涼を運んで来る。
サークル活動や独自研究で登校している学生達は、思い思いに木陰のベンチや冷房の効いたラウンジで昼食を摂っていた。
陽光を浴び、白く照り返す青い屋根のチャペルを横切り、並木道に伸びる白い石畳の上を色違いの日傘が三つ並んで同じ方向に動いている。
雑木林を抜けると広い通路があり舗装がアスファルトに変わった。
左、海側には『鎮守の杜』がありミッション系大学のキャンパス内にもかかわらず横浜の海の運行を守る『宗像神社』がある。
その更に海側には弓道場を併設した武道館の屋根が見えた。
日傘達の目的地は右。
鉄筋コンクリート造りの地上8階地下4階建ての考古学部が管理する『考古学総合資料館』にあった。
「寛美の疲弊した顔なんて見れたりしてね。いくら何でも四日も寝ていなければ、あの美しいお顔も並みの女子レベルに落ちてる筈よね~」
ネイビーの日傘、ライトブルーのワンピースの神崎雫は笑顔で話し出す。
「雫はまだ寛美の本当の凄さが分かっていない。何年親友やってるのよ。お父さんとジャングル行ったり砂漠放浪しても写メに映る寛美だけは綺麗なままだったでしょ。寛美の疲れた顔なんて私でも見た事ないのよ。あの子多分お婆さんになってもあのままよ。」
白い日傘を挿し扇子を広げ仰ぎながら森澤麗香が応えた。
「ジャングルとか砂漠放浪って・・・寛美さんってそんな秘境みたいなところに行く人なんですか?遺跡発掘に連れられていたみたいには仰っていましたけど・・・」
ライトパープルの日傘の深山忍は驚いて言う。
雫と麗香は脚を止め、目線を合わすと忍を見て微笑む。
「今度、じっくりと教えてあげる。」
二人で言った。
背の高いドアを開け、雫が風除室の守衛に微笑むと自動ドアが開く。
エントランスホールの入館受付に麗香が近付くと『入館許可証』が三枚用意されていて、雫が受付票に記名した。
「3階のデーターセンターにいらっしゃいますよ。」
受付にいた若い男性スタッフが声を掛けると麗香が微笑んで応えた。
エレベーターホールに向うと、火照った身体が急激に冷え始める。ホールの窓際にあるデジタル表示の時計は14時28分室温22℃湿度45%と表示されていた。
雫が手に持っていたトートバッグからサマージャケットを取り出し二人に手渡すと、麗香は普通に受け取るが忍は遠慮がちに「お借りしていいんですか?日傘までお借りして・・・ありがとうございます。」と言う。
「若いからって着てないと冷え込むよ。ここは資料の保存管理で一定の温度と湿度が保たれてるから少し冷えるのよ。私のだから好みじゃないかもしれないけどね。」
雫が言い忍の腕に袖を通し始める。三人共着終わるとエレベーターの扉が開いた。
「それにしても、ここのセキュリティーって聞いているほど厳しくないんですね。楓さんから急いで雫さんの様子見て対処してって言われて直ぐに出て来てしまったので、私、生徒証を持って来なかったものですから少し動揺してたんですけど、お二人は顔パスなんですね。」
忍が言うのを麗香が笑顔で応える。忍はその笑顔に見惚れてしまった。
エレベーターの扉が開き3階のエレベーターホールに入る。ブラウンのタイルカーペットが敷かれ壁の白い漆喰が眩しく正面の窓の前にはライトグリーンのソファーセットがあり、ガラステーブルの上にはブルーの花瓶に生けられた白と緑色のトルコキキョウがあった。
正面左に目的のデーターセンターがあり、セキュリティーロックがかかったドアがある。
麗香がスマホを取り出し電話を掛けるとデーターセンターのロックが解除されてドアが開き、艶のある黒髪でストレートのセミロング、濃紺のTシャツの上に襟の無いライトブルーのリネンシャツを羽織り、同じ素材のキュロット姿で、素足にサンダルを履いた美女が爽やかに微笑んで現れた。
「ほらね。皆さん。良くご覧ください。こちらが四日間睡眠もとらずに難解な作業を続けている状態の水橋寛美という名の『化け物』でございます。」
麗香はわざと大げさに振り返って横に並ぶと満面の笑みで右手をかざし、雫と忍に自分の予想通りの寛美を紹介する。
「化け物?」言われた寛美は両手を腰にあて、麗香に首を傾げて微笑む。
「寛美~本当に寝てないの?どうしたらそんなに何時もベストコンディションでいられるのよ・・・本当に人間なの?あっ楓さんと血が繋がってたり・・・」
「楓さんとの繋がりはあなたの方がありそうでしょ。」
雫の問いに寛美が笑って応える。
三人の掛け合いを、まるで上質な映画の一場面を鑑賞しているかの様に眺めている忍に気付き寛美が声を掛ける。
「忍ちゃんも来てくれたのね。ありがとう。お父さんも来てるのよ。それじゃ皆入って。」
寛美が言って三人を招いたところで室内からストライプのワイシャツ姿の中年男性が鞄を抱えて出て来た。
「お父さん。」
忍が声を掛ける。
「ああ、忍も来たんだね。ご苦労様。あ、雫さんご無事で何よりです。楓さんが治療を終えたらしいのでこれから総合会館の地下通路に迎えに行ってきます。よろしかったら皆さんもお昼いかがですか?ここは飲食禁止ですよね。」
雫達は寛美に目線を集める。壁の時計を見た寛美が皆を見て口を開いた。
「そうですね。楓さんも朝から休みなく治療してきたみたいですし、直接調べる内容を聞いてからの方が良さそうですから。皆も食べるでしょ?」
雫達のサマージャケットを受け取り寛美だけ室内に戻るとIDとハンドバッグを持って出て来た。振り返ってドアにセキュリティーロックを掛け、流れるような動作で皆の待つエレベーター前に歩く。
「本当に寝てらっしゃらないんですか?身動きが全く変わらないんですね。」
感心した忍が声を掛ける。
「そう思うでしょ。だから『化け物』って言ったのよ。頭回るだけでも普通じゃないのにね。」
麗香が嬉しそうに応えるのを寛美が後ろに回って左手で腰をくすぐる。
よがって身体をくねらせる麗香の右肩に顎を乗せて寛美が呟く。
「睡眠時間を割いてるだけでしょ。食事も摂るしお風呂にも入るのよ。着替えもしないとモチベーション下がるでしょ。寝ていないだけで生活自体は普通なのよ。」
「寝てもいないのに普通の生活が出来る人間を化け物と呼ぶのよ。」
麗香は反撃のくすぐりをしながら寛美に言い返す。忍は放心して二人を眺めていた。
「イチャイチャしないの~エレベーター来たよ。」
雫が言い、エレベーターで1階のエントランスに降りる。寛美が受付に挨拶して外出の届出を記入して許可証を発行して貰い。皆の待つ自動ドアまで歩き、守衛に微笑み『外出許可証』を提示してからドアを押して開けた。
熱風が舞い冷えた身体を温める。やや西に移動した午後の陽が白い肌に突き刺してきた。
日傘を挿し大学の北側にある『総合会館』へ歩いて行く。
雑木林を越え、教会のある噴水広場まで来ると脚を止めた深山が話し出す。
「自分がお迎えに行きますから皆さんはラウンジで待っていてください。楓さんと浅井が加わります。直ぐに合流しますからよろしくお願いします。」
炎天下のキャンパスを中年の深山が走って行く。走る後ろ姿は忍の父親の年齢とは思えないほど姿勢が良く、足取りが軽い。
残された雫達は右に曲がり学生会館のあるラウンジに向って歩いて行く。
本格的な夏休みに入っていたが、午後のラウンジは学生達で賑わっていた。
見渡すと一番奥の壁際にまとまった空席があり歩いて行く。
学院きっての美女三人に忍が加わった集団は周囲の注目を浴びた。
雫達を見て手を振って挨拶してくる見知った女子に笑顔で手を振り返しながら歩いて行く。
四人が着席するまでの間、ラウンジには沈黙が訪れた。
カウンターを見ていた忍が立ち上がってドリンクコーナーから冷水の入ったグラスを四つ持って来る。
「ありがとう助かる~でも私達に気は使わなくていいからね。」
雫はトレイからグラスを受け取り、忍に礼を言いながらテーブルに並べていく。
麗香と寛美は笑顔で忍を向かい入れた。
「それで、具体的にどんな内容の調査なの?」
麗香が寛美に聞き、雫と忍も前へ乗り出す。
「忍ちゃんはお父さんから聞いていると思うけど、今回の特殊症例って言われている集団ヒステリーについてなんだけど。話を聞いていると不思議な事に病室、診療科目が異なっているのに感覚過敏の患者さんに共通の幻覚や幻聴が現れていて、海の中から何かが湧き上がって来るって言っているらしいのよ。それで、過去にも同じ事があったと思うって楓さんが仰っていたんだって。それで、深山さんが調査し始めたんだけど横浜市や神奈川県にはそれらしい資料が残っていなかったみたいでうちに協力要請が来たっていう事。それが、百年位前みたいなの。大学の年代別資料を各学部から選別して分析していたのよ。医療系とか事故はまだましなんだけど事件の調査は憂鬱になって調書読んでいて気持ち悪くなったわ・・・それで私の仕分けが終わったから、これから事件性のある内容を深山さん、医療関係を私が関連性を調べるところよ。途中に戦争もあったから仕方ないんだけど資料の欠損や、今で言う集団パニックは割と多くあってね。調べている内に私は楽しくなっているんだけどさ。」
寛美の説明を聞いていた雫と忍が顔を合わせる。
「寛美。その幻覚や幻聴、私と忍ちゃんは明確に分かるよ。海中から何か大きな・・・生き物かな・・・建物かも知れないけど、浮き上がって来て、それを阻止しようとする別の何かが私達に警告のようなものを発している。しかもね、割と近くに起こるイメージなのよ。」
雫が言う事を忍も頷きながら聞いていた。
「大体分かったけど、ご飯食べたら仮眠取りなさいね。私達が手伝うからさ。どうせ三、四十分も寝れば完全体に戻るんでしょ・・・化け物め~」
麗香がわざと意地悪そうに微笑みながら寛美に言う。
「別に今でも大丈夫よ。それと何かもう少し良い例えないの?完全体って、何かの映画か漫画の悪役でしょ。もう少し可愛らしくさ、自分で言うものじゃないけど、天使とか妖精的な感じとか。」
笑いながら寛美が言うが、三人は顔を見合し雫が言う。
「天使とか妖精ってさあ~寝るじゃん。良く寝る子に例えて、寝顔が可愛い子に天使みたいね~って言う方がしっくり来るのよ。寛美がうたた寝とかしているのあんまり見た事ないしね。旅行とか行っても最後に寝て最初に起きるでしょ。何って言うのかな、隙が無い感じ?それに寛美を天使とか妖精的に言うとさ~もう完全敗北宣言してるみたいで、ねえ。」
麗香と忍も同意して笑い出した。
「え・・・私の寝顔って可愛くないの?雫の寝顔は可愛いけどね。」
「いや、論点がずれてる。寛美は何時も可愛いっていうか綺麗なのよ・・・まあいいや、あんたの事だからもうそろそろ結論出そうなんでしょ?」
麗香が言う。
「うん。楓さんに確認してからお父さんに電話入れようと思っている案件があるの。丁度百年くらい前の事例にお爺ちゃんかひいお爺ちゃんが係わっているんじゃないかって思ってるのよ。それでうちに調査依頼するように深山さんに言ったんじゃないかなって。」