梓弓と歩き巫女
8月17日木曜日 19時50分。
陽が沈むと東からの風が建物の隙間を吹き抜け、肌に突き刺さる様な熱気を和らげる。
青嵐学院大学附属病院での会議が終わり、浅井の車で送られた秋月楓はJR根岸線『青嵐学院大学』の駅前に降り立った。
広場の時計塔を過ぎ、帰路を急ぐ人々に押される様に改札を抜け、階段を登り『横浜』方面の上り線ホームに向う。
一度『東京』まで上りJR特急あずさ55号『松本行』に乗り換え、『大月』を目指す。
依頼を受け、山梨県にある龍崎家へ向かう為だった。
向いのホームでは家路に着くのであろうスーツ姿の人達がほとんどだが、楓の周りには『横浜』や『川崎』果ては東京都内へ向う学生や大人達の姿も見て取れた。
上り線到着のアナウンスの後、多くの乗客が待つホームに『横浜』行の車両が吸い込まれてくる。
ドアが開くと降車する乗客はまばらで車内は混雑していた。
ほぼ満員の列車で『横浜』まで進み、東海道線に乗り換える。
『川崎』『品川』と進み『新橋』を経て『東京』に着いたのは20時半を回ったところだった。
ここから特急あずさ55号『松本行』に乗り換える。
立ったままの移動から指定席での旅に変わり、窓側を指定していたので夜の風景を見ながらゆっくりと一時間半ほど過ごし『大月』に着いた時には22時を少し回っていた。
そこから中央本線に乗り換えて更に四駅、『勝沼ぶどう郷』駅に着いたのは22時40分。
人気のない改札を出ると、運行が終了していたバスロータリーに一台の黒いアルファードが止まっているのが見える。
近付くと自動で後部座席のドアが開き、黒髪セミロングの美しい女性が微笑みかけてきた。
駅舎を出る楓に気付いた青年が運転席から降り、楓に挨拶をして手荷物を受け取り助手席に丁寧に置くのを見届けてから後部座席の美女は口を開いた。
「楓さん、お疲れ様です。言って頂ければ横浜までお迎えに伺ったのに。」
語った女性は、龍崎家正式次期統領となった龍崎琴乃だった。
冷房の効いた車内に楓が滑り込むとドアが静かに閉まる。
「ごめんね~もっと早く済むかと思ったんだけどさ、雫ちゃん達が優秀過ぎて話してて楽しくなっちゃったのよ。それにね、電車の旅も好きなの。」
アルファードはゆっくりと県道に入り甲州市にある龍崎本家に向う。
楓は後部座席から運転している青年に声を掛けた。
「哉君、将来は会社の経営に専念出来るようになって安心した?」
哉君と呼ばれた運転手、龍崎實哉はルームミラーに一瞬だけ目を移すと微笑んで応える。
「はい。ですけど、自分も龍崎家の一員ですから鍛錬も続けていますし、統領から命ぜられれば動きますよ。ただ、会社についても後継者は身内である必要は無いって父は言っています。会社を支えているのは現役員の方達ですし、従業員の方達も実直に働いていらっしゃいます。一応、内定を貰った会社に入って、社会常識や実際の経営を学んで来ます。それに、事実として会社の人達からの信頼も姉の方が高いんです。意外と経営理論もしっかりしているんですよ。」
「哉はまだ学生で手伝いしかしてないからよ。それにね、私は術者の修行しながら大学でもまあまあ優秀な成績で卒業してるのよ。」
姉弟の言い合いを微笑ましく見ていた楓は話を変える。
「それで、わざわざ私を呼ばなければならない程の事って何なの?龍崎家で対応出来ない事なんてそうそう無いでしょ。」
振られた言葉に琴乃は身体を背もたれに預けてから、すまし顔を傾けると楓を覗き込み、わざとゆっくり口を開く。
「何かが分かっているからこんな田舎にまで来てますよね。うちの統領が頼めば何時でも来てくれる訳じゃないでしょうに。まさか本当に電車乗りたかったって・・・」
琴乃が言い終わる前に窓の外、星空の下に燈る家々の明かりを楽しそうに眺めると楓は振り返って笑う。
「列車の旅もいいわね。そのまま魂まで運んでくれるといいな、って思ったりする瞬間があったりしてね。今度九州くらいまでゆっくり旅行しようかな。」
楓の面持ちに琴乃は一瞬言葉を失ったが、微笑み返すと口を開く。
「そうですね。たまにはゆっくり旅するのもいいですよ。よろしければ私がお供します。」
二人は顔を見合うと笑い出した。
「今日は遅いんでお風呂入ってゆっくりして下さい。お食事はお済ですか?」
琴乃が聞くと楓は頷く。
「今日はねえ、お昼から豪華なお食事だったわ。取り敢えず實明君の顔見てから明日に備えるかな・・・明日は早くから色々と手配したいしね。」
「手配?・・・また何か企んでいるんですか?」
琴乃の言葉に妖しげな眼差しを向け楓は返す。
「美恵子ちゃんには連絡済みなんだ~」
美恵子という名前に反応した琴乃は瞬発的に応える。
「美恵子を呼び出す程の事態なんですか?今朝の件・・・ですよね?ここまでは影響無かったんですけど、精霊や物怪達がざわついていた報告は山住衆から受けています。県警の畠山さんから統領にも報告があったらしいんですけど、山梨県内は直接影響を受けた被害は確認されていないらしいんです。今回の、彌戸蔵杜の事も絡んでいたりします?」
「そこは知らない。明日直接聞いてみる事に成るんじゃない?流石にさあ、あのクラスになるとこっちから出向いて行って直に会わないって訳には行かないからね。」
何時もながらはぐらかす楓の言葉にも遊び心で琴乃が続ける。
「彌戸蔵杜は三年に一度、うちの統領が中心になって、一門の中から極一部の重鎮と当番で決められた神職だけを伴って祭祀を執り行っているんですよね。直近では昨年やったばかりで再来年までは立ち入りを禁じていた筈なんです。一応、女人禁制扱いだから私は参加した事無いんですけど・・・あれって、私が継いだらどうするんだろ・・・楓さんは行った事あるんですか?」
「あれ?女人禁制だったっけ・・・まだ大昔の風習が残ってるのかなぁ。そう言えば何年振りだろ。私は何度も入っているから琴乃ちゃんも問題ないよ。それはそうと、實明君は蔦ちゃんに会った事あるんだっけ?」
座席に埋もれるようにして小さく伸びをしながら発した楓の言葉に琴乃が反応する。
「蔦ちゃんって・・・神様ですよね。しかも超古代神らしいじゃないですか。またしてもお友達なんですか?」
大きな交差点を右折して農道に入る。
街路灯もまばらになりハイビームに切り替えて稲穂が垂れている水田の間を走りながら實哉が応えた。
「父は会った事無いらしいです。拝殿での祭祀の仕来りを祖父から習っただけと言っていました。本殿へは祖父が若い時に一度、楓さんと一緒に入った時にお会いしていると聞きましたけど。」
「ああ、そうか当時の統領は實則君で~まだ若い實吉君に呼ばれて戦後すぐ・・・もうちょっと後かな。その時に来たのが最後だったか・・・七十年くらい前になるのかな。まあ、その時の實吉君の顔。思い出したわ。丁度いいから今回は皆で会ってみる?」
農道の終わりを左折すると緩い斜面になっている。
車は斜面を上り、二つ目の分岐を右に曲がると、木々の覆い茂る山道に入った。
路の隙間から見える上空には星が瞬き、点々とある防犯灯の薄明りを受け覆いかぶさる木々の影が一定のリズムで踊っている。
窓から見える星々を眺めながら琴乃が応える。
「本当に存在するんですか?彌戸蔵神社の御祭神として祀られている、蔦刀偶阿大神・・・でしたっけ。日本神道の古史古伝、日本神話や風土記にさえ出て来ない。極一部の民間伝承というか口伝えでのみ知られた土着信仰の神様っていう事しか伝わっていませんし、先代統領の祖父も御姿とかは誰にも教えて来なかったんです。うちの一門や神崎総本家くらいしか場所さえ知られていないと思いますし、当然の様に常駐の神職も置いていません。そもそも神社の本殿、存在するのかさえ分からない御神域には祭祀の時でさえ普通に到達出来ないって聞いていますよ。」
シートに埋もれたまま顔だけを琴乃に向けて悪戯っぽく笑うと楓が応える。
「琴乃ちゃんって蟇蛙とか大丈夫だよね~見た目だけの事なんだけどさ~色々試してそれが一番落ち着くらしいのよ。」
シートに埋もれていた体にゆるく左側へ遠心力が掛かる。ハンドルを戻しながらルームミラーに視線を移した實哉と眼が合った。
「哉君も大丈夫だよね。最近の男の子って虫とか蛙って苦手って聞くけどさ。」
「あ、自分は大丈夫です。色々試してって、姿形が変わるんですか?・・・もう着きます。詳しいお話は後程お願いします。」
背もたれに埋もれたままだった身体がふわりと前に戻る。楓はフロントガラスに目を向けると、照明の付いた門の周りに大勢の人が整列している姿があった。
「こんな時間まで待っていてくれたのね。なんか悪い事しちゃったな。」
楓の言葉に琴乃は身体を向けて応える。
「皆、楓さんに会いたいんですよ。槍穂岳の時のお礼もありますから。」
8月18日金曜日 4時12分 山梨県甲府市御国沢 龍崎本家。
仄かに明るみを増す部屋に、冷気を帯びた白い風が開け放した窓から入り込む。
纏わりつく様な山地特有の香りを感じ、秋月楓は布団から静かに起き上がる。
真新しい畳のそれとは明らかに違う空気を味わう様に深く吸い込むと、昨夜開けておいた窓辺に近付いて行く。
黎明の森からは、夏鳥達の小さな囀りが始まりつつあった。
まだ青白い山裾から滑り降りて来る靄を眺める。東の稜線に浮かぶ雲に朱い筋が現れ、空を虚ろに変貌させてきた。
淡色の世界に最初の彩が生まれ、やがて現れる色鮮やかな世界への期待を予感させた。。
もう一歩踏み出し、窓台に両肘を付けて体重を預けて前屈みになると、窓から顔を出す。
そのまま目を瞑り、顔を空に向けるとゆっくりと呼吸をした。
「いいね~海もいいけど山も好きよ。さ~て、先ずは涼子ちゃんからかな。」
振り返って、敷かれた布団を畳み、身支度を済ますとスマホを手に廊下に出て行く。
広い廊下を進み、階段を下りて玄関を目指す。
「楓様。おはようございます。お早いですね。もう起きられたのですか?」
玄関を掃除していた中年の男性が声を掛ける。
「おはよう。何言ってるのよ。玄ちゃんも早いじゃない。ちゃんと寝たの?」
琴乃の世話係で、龍崎家が代々経営して来た『御国沢酒造』の専務でもある高坂玄司は楓に正対すると歯を出して笑いながら「はい。」と応えた。
「お出かけですか?今は朝食の準備中ですが・・・」
靴を履き外出しようとする楓に気付き、戸に手を掛けた玄司が声を掛けた。
「うん。ちょっとね。西杜のお社に入るけど、今日は誰もいないよね。」
開いた戸口に向いながら返事をする楓に驚いて玄司が更に応える。
「西杜へお一人で向われるのですか?お供いたします。」
玄司の言葉に振り返ると、満面の・・・悪戯心満開の笑顔で楓は話す。
「大丈夫よ~ちょっと物を取りに行くだけだから。朝ごはん迄には戻るからさ。」
言うと、霧に覆われてまだ薄暗い庭に飛び出して行く。
日の出前だというのに庭には収穫の準備をしている数名の社員がいた。
それぞれ挨拶をするのを笑顔で応え、楓は滑る様に西門へ進んで行った。
「う~ん・・・これって追いかけて行ったら叱られるパターンよね。」
楓が客間から出るのを感じていた琴乃が玄司の横に立ち、腕を組んで呟く。
「叱られはしないと思うが、行き先が分かっているのに辿り着けない事に成るだろうな。西杜か・・・出来れば同行したかったな。」
「あそこに何があるの?普通に土地神様を祀っている空のお社よね。普通の人には歩き難い山道だけど、楓さんには何でもない散歩道よ。」
同じく腕を組む龍崎家現統領の實明の呟きに琴乃が訊ねた。
「お前にはそろそろ伝えようとは思っていたけど、あのお社の御祭神は神直日神と表津少童命の二柱なのは知っているな?神直日神は穢れを払い、禍をただす神。表津少童命は海の神だ。」
「それは知ってる。海無し県に海の神が祀られているのは珍しくないけど、二柱とも日本書記の表記ね。うちで管理しているから私も掃除や注連縄のお直しに行くけど、お社の中には祭壇に置かれた御神体としての奇岩があるだけの小さなお社よね。なって言うのかな、柱で組まれたトロフィーみたいな、西洋風の塔の様な奇岩・・・繋ぎ目や削った跡が無いから天然の黒曜石と言われているけど、確かに形としての神秘性はある。でも、私には何も感じないけどね。」
玄司は静かに場を去ろうとするのを實明に止められる。
「構わないんだ。今後の為にも玄さんには聞いて貰った方が良い。それに、秘匿するほどの事でも無い。琴乃が言った様に二柱の神は日本書記の表記だ。その前に『土地神』と言っただろ。本当の神の名は数百年も前に隠されているんだよ。西杜の土地神様は彌戸蔵大神なんだ。勿論、表の神も御先祖が正式に分霊してお招きしているから通常の祭祀に支障は無い。俺は知らされていないんだが、お社の中に彌戸蔵神社の御神域へ入る為の鍵みたいなものがあるらしい。三年に一度の祭祀では御神域に行く事は無いから先代も当時の重鎮達からも教わらなかった・・・もしかしたら誰も知らないままなのかもしれない。先代の話しだと、一度だけ御神域へ入った時にも楓さんに同行して頂いたらしいから俺達だけでは辿り着けないのかもな。」
「成程ね。それで西杜か・・・ところで、去年の祭祀が無事終わったのに、何でまた、楓さんに相談してまで・・・今度は御神域を目指す事が必要になったの?一昨日の夜に突然相談してたよね。」
西杜へ楓が赴く理由を知った琴乃は核心について問う。
「ああ、あれは女将様がな。大神様がお呼びだから楓さんに連絡するようにって。」
「お母さんが?何で?」
「その辺は分からん。が、なんか凄い剣幕で言われたから、そのまんま楓さんに伝えたら『分かった』って二つ返事だったから・・・まあ、そういう事なんだろうなってな。」
三人は開いたままの戸口を眺めてからそれぞれ顔を見合うと頷き、持ち場に戻る。
御国沢は標高九百八十メートルの戸蔵山を含んだ麓の地域を指し、龍崎家の祖先が移住し始めた鎌倉時代には薬種園として森林を開拓し、葡萄の栽培を行うようになった。
その後、明治期からワインを醸造し始め、会社として設立した『御国沢酒造』はその南麓に位置している。
昨夜、楓を出迎えたのは龍崎本家の正門である南門。大型トラックが旋回出来るほどの広い駐車場があり、従業員宿舎と術者用の道場を備えた母屋がある。
本家北門を出ると戸蔵山の山頂まで岩肌が露出する彌戸蔵崩しと呼ばれる険しい断崖があり、かつては修験道の修行の場として、現在も龍崎家の術者が修行をする為の山道があり、一般の登山客が入山するルートとは隔離されている。
この戸蔵山南麓一帯は、山梨県からの依頼という形で龍崎一門が管理を行っている。
また、母屋の東には会社とワイナリーとなっている生産工場と大きな蔵が並び、陽の当たる斜面に広大な葡萄畑が山麓を覆う。
そして、西側は自然林と観光客も楽しめる各種の葡萄園と実験農場を兼ねた果樹園や野菜畑がある。
石柱の西門を抜けると広葉樹の木々が覆い茂る森になっている。
未だ夜の残滓が残る暗い森は静寂に包まれていた。
一見すると未踏の原野を、楓は確かな足取りで進む。
暫く歩くと楓の身長よりも高い隈笹が目の前を塞ぐが構わず左手を差し込むと笹が道を示すかのように開いた。
隈笹を抜けると低い崖が現れ、仄暗い窪みに渓流の囁きが広がる。
川幅は僅が三尺程度のせせらぎを二度飛び越し対岸の崖を登ると再び隈笹が前を塞ぐが前と同じに手を入れて通り過ぎた。
小楢や椚の樹木林を越え、紅葉と欅の森に入ると整えられた榊の生垣が眼に入って来た。
歩いて来た道から山の斜面を下り、南に開いた鳥居の前に回り込んだ。
白木の神明鳥居の笠木に顔を上げ、一度微笑むと正対してから一礼して境内に進む。
鳥居を潜ると落ち葉一つなく払い清められた白い玉砂利が敷かれただけの境内は、数歩で社に辿り着く程度の広さだった。
改めて神道の作法に則り弐礼弐拍手し、一礼すると特に祝詞を奏上することも無く木戸に手を掛ける。
靴を脱ぎ、社殿に入ると祭壇に向かい、再び神道の作法に則り弐礼弐拍手一礼すると開いたままの木戸を通って黒い蜻蛉が入って来た。
その羽黒蜻蛉と呼ばれる種類の蜻蛉がゆらゆらと楓の周りを揺らいでいると差し出された左の人差し指に止まる。
「開けてくれるかな。」
楓の言葉に呼応するように蜻蛉が祭壇の中央、何本もの円柱に支えられ幾重にも重なったギリシア建築の様式にも似た、神殿造りの塔ともとれる黒曜石の奇岩の頂点に飛び移ると、その中央の空間が揺らぎ始める。
揺らいだ空間に左手を差し込み、手探りをした後、ゆっくりと手を戻す。
抜き出した手には丸木の小弓が握られていた。
「それじゃ~借りて行くね。」
楓が蜻蛉に対して微笑むと、やって来た時と同じくゆらゆらと飛び木戸から出て行く。
社の木戸を閉めて礼をし、振り返ると薄暗かった空は輝き始めていた。
左手の小弓を胸の前に掲げて右手の指で軽く弦を弾く。
弦の弾ける音が響くと、寂としていた森の中から一斉に鳥達が羽搏き、それぞれの囀りが始まった。
そのまま左の脇に小弓を挟み、スマホを手に取ると歩き出す。
「あ、涼子ちゃん?おはよう~詳しい事はまた後で話すけど、雫ちゃん達にさあ・・・」
社を背に、再び隈笹の藪に入る。小さな川原を越え、対岸の隈笹に手を掛けた時だった。
正確に南南東に振り向くと明けて行く空を眺めながら呟く。
「あら、積極的ね。人前に堂々と現れるなんて・・・これだけ近くに居れば直接会おうって事なのかな。でも、この言い方で~翔君理解出来るのかな?ま、美幸ちゃんも行くみたいだし。今回もお姉さん達に助けて貰いなさいな。」
小弓を脇に挟んだまま両手を腰に当て暫くの間、明け行く地平線を拝み、微笑むと小弓を左手に持ち替えて、再び弦を弾く。
渓流のせせらぎの中に河鹿蛙の細やかで優雅な鳴き声が一斉に加わって来た。
振り返って隈笹を越え薄明りの森の中、小鳥たちの囀りを浴びて龍崎本家へ向かう。
西門を通り母屋に近付くと戸が開き作務衣姿の女性が出て、深々と頭を下げる。
「楓様お帰りなさいませ。朝食の用意が整っております。」
手を振り、微笑みながら楓が応える。
「ただいま。瑞恵さん、これ、何か分かる?」
言うと、左手の小弓を見せる。
「丸木の小弓ですか。『梓弓』の様ですね。歩き巫女とか信濃巫女と呼ばれた人達が手に持って、鳴弦で託宣したので梓巫女とも呼ばれていたとか。山梨ではそう言った歩き巫女を戦国時代に甲斐武田軍の諜報員、くの一として利用したという伝承、望月千代女の伝説とかも有りますね。」
瑞恵の応えに首を傾げて微笑むと楓が続ける。
「瑞恵さんには縁があるんだよ。遠い御先祖が、この梓弓を手に持つ事に成る出来事があったんだ~私を呼ぶために聞こえた『導き手』との繋がりがね。」
言われた瑞恵は目を見開いて楓を直視したまま硬直してしまう。
「今日は瑞恵さんも一緒に、家族皆で御神域に入ろう。取り敢えず朝ご飯にしましょ。」
微笑み続ける楓の言葉に我に返った瑞恵は、笑みを返すと開いたままの戸に手を翳して内へ招いた。
「それじゃ、玄さん。一家で外出するけど後の事は頼むよ。明日は土曜日だから皆は出来るだけ早上がりでね。」
社長でもある龍崎實明は専務の高坂玄司に伝える。
「社長。久々の家族旅行ですね。会社はお任せください。しかし、本当にお供は付けなくて宜しいのでしょうか。」
實明の隣にいる楓にも顔を振って伺ってみた。
「大丈夫よ。祭祀じゃないしね~彌戸蔵への道は實明君も知っているでしょ?」
楓が明るく応え、實明が頷くのを他所に琴乃達に目を配る。
實明と實哉親子は龍崎家の家紋『丸に上がり藤』の入った黒い羽織と濃紺の袴。琴乃と瑞恵は白衣に浅葱色の袴と淡緑色の狩衣を着ていた。
全員が白足袋に雪駄を履いている。
「うん。皆いい感じに似合ってるよ。それじゃ~行きましょ。」
輝く銀色の紋が入った純白の狩衣と袴を纏い左手に小弓が入った葛籠を持って楓が言うと琴乃が応える。
「楓さん、本当にこの姿で彌戸蔵崩れを越えるんですか?私は大丈夫ですけど母は・・・」
琴乃の問いに楓が微笑むと瑞恵が応える。
「随分久し振りだけど私もここを歩いたことあるのよ・・・まだ十代だったから大体三十年ぶりかな。まだまだいけると思うよ。」
琴乃は「は」の発音のまま母親の顔を覗き込む。
「ふふ~ん。そういう事なのよ。實明君との馴初めは聞いていない?大丈夫だって~険しい所は哉君が手を引いて助けてあげてね。修行場まではいかないし、ちょっとした川原の散策みたいなものよ。」
琴乃は口を噤み、實哉は言われると母親の左に並ぶ。
168センチメートルの琴乃より10センチメートル背の高い實哉の目線程の身長の瑞恵は息子の顔を見上げると微笑んだ。
左手に持った扇子を開き、實明が咳払いを一つして楓を向き、声を掛ける。
「それでは、向かうとしますか。」
實明の号令に實哉は貢物と神具の入った葛籠を背負い、琴乃は大幣を手にした。