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茶葉のパラドックス

陽は天頂を越え東に向いた窓の外には建物の影が覆っている。

遠く、水平線に浮かぶ巨大な雲が白く輝き、木々の隙間からは自動車が国道を行き来していた。

二階まで吹き抜けの高い天井から吊るされた大きな二つのシャンデリアが装飾された金銀のチャームを煌めかせながら広い部屋を照らしている。

部屋を巡るエアコンの冷気の音だけが微かに響いていた。


美恵子は両手の指を軽く組んだまま膝に置いて、椅子の背もたれに寄りかかり天井を眺めている。

聡史達からの冷たい視線から逃れるように翔が口を開いた。

「あの・・・美恵子さん、幽世は完成していると思うんですけど・・・」

問い掛けを契機に視線が美恵子に集まる。

「うん。これなら相当上位の神様でも無ければこの空間での出来事を見破る事は出来ないわ。良い感じに必要な物はちゃんと連れて来てくれているから言う事無いわね。さて、どこから行きましょうか~幽世を張った事で山越えをしている神奈川の術者、楓さんの直弟子の()と翔君のお姉さんにはこっちの事態が動いた事は理解されていると思うんだけど、あちらも幽世で防御しているからこちらから何をしているのかは分からない。ただ、あちらの幽世は時々外れるから徐々に近付いて来ている事が分かるだけよ。最後に開いた時にはとんでもない大きさの神様との接触があったみたいだから、無事かどうか関係ない位のご加護を賜っているのかもしれない・・・翔君の守護精霊と雰囲気が似ていたけど~」

哲也を見ると頷く仕草に翔が応える。

「多分『せいちゃん』だと思います。楓さんがそう呼んでいた姉を守護している精霊です。秋月光雲(あきつきのこううん)(ゆかり)のある精霊・・・せいちゃんが出て来るほどの事が起きているんでしょうか?それなら姉達の方が大きな問題に巻き込まれたと言う事に成ります。そもそも何の連絡もなしに山を回って神憑り的な神具を集めているとか・・・一度連絡した方が良いんでしょうか?それとも楓さんに聞くべきなんでしょうか?今からでもこちらから助けに行く必要はありませんか?」

席を立ち前のめりに話す翔に対し、絡めた指を解かずテーブルの上に置き直してから微笑むと美恵子がゆっくりと美幸に視線を動かした。

その仕草に美幸は笑いながら応える。

「本当に矢継ぎ早に質問するのね。楓さんが翔君の悪い癖って言ってたよ。」

美幸の応えにフリーズ状態の翔を隣の聡史が肩に手を当てて座らせ、口を開く。

「自分も翔と同じ心配をしています。自分達は哲也さんをはじめ術者の方達がいてくれているんで安心出来ています。ただ雫さん達には楓さんの弟子ではありますけど忍さんしかいません。神奈川県警の人と、横浜市役所の浅井さんが同行しているだけであとは女性達だけの筈です。どこまで分かっているのでしょうか?」

美恵子は指を解き両手を膝に置くと、聡史に向って真っ直ぐ見詰めてから優しく微笑み応える。

「大丈夫よ。直接指導しているお弟子さんは楓さんにとって術者の中でも特別なの。その娘が対処出来ない様な事が起こったらそれこそ楓さんが出動するからね。私達には探索出来ない幽世も楓さんは見通せるし、あちらの幽世を張っているのも楓さんが遣わせた神様なんでしょ?戦力的には十分よ。それにね、その・・『せいちゃん?』をどうこう出来る程の物怪は勿論、神は近くにいない・・・対抗出来る存在自体あり得ないのかも。大体ね、美幸ちゃんが説明したでしょ。今は連絡する手段が無いのよ。この幽世を一度解いてもあちらの幽世が通信を遮断している。それが分かっているし、迂闊に手元の情報を拡散させない為に翔君のお姉さんか、楓さんのお弟子さん・・・『忍さん』がわざと連絡しない様にしているのかもね。それに『せいちゃん』の気配が消えた後も同じ幽世を張っているからあちらの安全に関しては全然問題無い・・・それにしてもこのクラスの守護精霊が二柱も存在しているって、本物の神様の中でも相当上位の・・・神話クラスの神でも無ければ相手出来ないと思うわ。流石は秋月光雲縁の守護精霊。桁が違うわね。」

美恵子の説明に納得した聡史は翔に頷いた。


二人が頷いたのを横で見ていた慎也が美恵子に向って口を開く。

「あの、横から恐れ入ります。この空間を翔に創らせたのは、ここでの『思念』を伝播させない為っておっしゃっていたんですけど秘密の話しをする必要があって、具体的に誰に対して内密にしたいんでしょうか?それに、『必要な物』って何を指しているんでしょうか?」

慎也の言葉に一度だけ高校生の三人に視線を送ってから美恵子は応える。

「君達がいると素子ちゃんが質問する機会が無くなるね~」

左手で前髪を抑えながら素子は黙って頷く。その姿を見て美恵子が話しを続ける。

「お店を出た時に美幸ちゃんが言った事覚えてる?『公務員の能力者がいる』って。今頃代縺湾の海中観測所で刈谷君と国防省の特殊対策班みたいな護衛官が打合せしているのよ。その中に私達と同じ様な感知能力を持った人間がいる。女の人ね~それで、こっちの事をどれだけ見えるのかは分からないけど予防線を張ったって事よ。」

「国防省の護衛官に対して予防線って・・・協力してくれる方達ですよね。」

今度は素子が訪ねた。

「その時の言葉に私が返した事も覚えている?彼等は目的が違うの。私達は怪異に対して特殊事例として県警や素子ちゃん達の様に役所の人達からの要請を受けて人々に悪い影響が及ばない様に解決する。哲也君や琴乃みたいに直接討伐する術者や私や美幸ちゃんの様に探索して場合により会話したりしてね。私達はどちらかと言うと人を含めた自然界を守る・・・調和を最終目的にしているところがある。彼等も基本原則は私達と同じだけど、国民を他国からの物理的攻撃や脅威から守る事が謳われているし、国家予算が掛かっているから当然規模や権限はあちらの方が上。ま、当たり前よね。それで国防省内部に特殊事例を扱う部署が存在していて、これは国防省のホームページにも組織一覧には記載されているから秘密の組織ではないけれどその内容は『その他特殊なケースに対応する』ってもっともらしい事が書かれているだけね。私も噂でしか知らないから事実とは異なるかも知れないけれど、軍事演習での原因不明な事故の調査や対策、旧帝国軍が秘密に行っていた研究や実験を現代科学で実現していたりとかって聞く事があるわ。オカルト系のSNSには特異生命体や物体の捕獲をして、その細胞や構成組織から新たな兵器の作成を図る。なんかも出ていたりするしね~」

美恵子の回答に更に素子が尋ねる。

「雰囲気ですけど、目的の違いは分かります。だからと言って・・・」

「私はね~性格が(ひね)くれているのよ。相手が情報を出してこない内からこちらの手の内を見せるのが嫌。すご~く嫌。」

素子の話しを遮った美恵子がそう言って悪戯っぽく笑い、八田と哲也は腕を組み何度か深く頷く。

哲也の態度に隣に座っていた美幸が笑いながら肘を入れ会話に加わる。

「違う違う。お兄ちゃん達は『ひねくれてる』ところにだけ同意してるでしょ。そうじゃないのよ。美恵子さんは、その自衛官があの『必要な物』を認識しているかもしれないから先に調べておきたかったのよ。」

そう言って美幸は窓際に置いてある青い箱を指差す。

床に直接置かれた発泡スチロール製の青い保冷箱は封印していたガムテープから結露した水が染み出ていた。

「あ、そうだ。忘れていました。朝からだから中のドライアイスは昇華しっちゃったと思います。」

翔が慌てて箱に向い開封しようとした時だった。

「いや、待て!無害だと思って無視していたんだが、さっきから気配が変わった。そいつは何だ?」

哲也が翔を制し美恵子に問いかける。

「だ・か・ら・さぁ~それを調べようと思って、翔君に幽世創って貰ったんでしょ。お姉さんの守護精霊の出現と消失は感知されたかもしれないけど、これ以上は相手がどの程度の者か分かるまでは秘匿にしておきたいのよ。もしも、この一連の動きが感知出来ていないのなら、その程度として戦力外だし、場合によっては第三勢力に注意を払う必要もあるでしょ~」

椅子の背もたれに身体を預け両手を外側に開き、呆れた様子で哲也に返答した美恵子は翔に向き直す。

窓辺で箱を持ち二人の会話の行方を見詰めていた翔にウインクすると右手人差し指を立て、ゆっくりと広間の方向へ動かした。

「暴れ出すかもしれないから広い所に置いて。因みにさ、翔君。この幽世の中に更に小さな幽世創れたりもするのかなぁ?」

テーブルから少しだけ椅子を引き、その長く細い脚を組み、輝く白い髪を左の指で遊ばせながら美恵子は微笑む。

「あ、はい。先日、楓さんからは『ポン』って創った幽世で何か問題が起こったら『パパッ』って中の空間を畳み込めば閉じ込められるからさ~って良く分からない説明を受けました・・・多分やれば出来るよって事だとは思います。」

箱を持ち広間へ歩きながら応える翔を見ていた哲也は振り返ると、美幸と美恵子に目を配る。

無言で互いに見詰め合うと、同時に吹き出し美幸が肩を揺らしながら応える。

「そうか~翔君も楓さんの指導受けたんだね。それそれ~楓さん特有の表現なのよ。でもさ、どうやってやるのかは頭の中にビジョンが浮かんだんじゃない?だからこの幽世も完成度が高いのね。」

美幸の声を聴きながら広間、自分が技を掛けられていた辺りに保温箱を置くと翔はテーブルに向き直し応える。

「まぁ・・・何とかなりそうな気はしますけど。理屈が今一釈然としないんですよね。出来上がった空間の中に別の空間を生み出すと言うのは質量保存の法則に反するように思うんです。この幽世自体は地球上の膨大な空間からすれば誤差程度の切り出した質量になると思うんですけど、更にここから何かを創ると言うのは何かを欠損させる必要があるんじゃないかと・・・そうなるとこの幽世の均衡は保てなくなる気がします。他には素粒子論とか宇宙論を検討する必要が・・・」

翔の科学談義に辟易して聡史が声を掛けようと椅子を立った瞬間だった。

「十八世紀の自然科学の法則をここで持ち出しても多分答えは出ないよ~私は幽世を創る事が出来ないから正確には言えないけど、一種のパラドックス・・・そうね、(ちゃ)(よう)のパラドックスを例に挙げると君には分かり易いんじゃないかな。」

脚を組んだままの姿勢で美恵子が応えた。

美恵子の解答に翔と哲也は納得した表情を、素子と曽野川は助けを求めて目を泳がせる。

「ああ、今のはこういう事です。」

慎也がグラスとタンブラーを持ち素子の前で攪拌して見せる。

「掻きまわすのを止めるとグラスの中で攪拌された液体の中でオレンジの粒はグラスの中心に集まりますよね。必ず同じ結果になりますし、誰もが感覚的に知っているから普通の人は不思議とは考えないんです。この粒を紅茶の茶葉に置き換えたのが『茶葉のパラドックス』と呼ばれています。アルベルト・アインシュタインが1926年に提唱した物理現象です。物理的理屈では器の中で生じた遠心力によって茶葉は外側に向うと予測する事が出来ますが、実際には先に話した結果が待っています。これをパラドックス、相互に矛盾する命題が共に帰結する。直感的に誤りであっても実は正しい事となる論理またはその逆説と呼んでいるんです。理論上の計算と現実とのギャップって言った方が分かり易いでしょうね。自分には話の繋がりは分からないんですけど『茶葉のパラドックス』自体はそういう事です。」

素子は曽野川と目を合わせると頷き、そして変わらず珍獣を見る目で慎也にも頷いた。


「美恵子さん。翔の教育係として楓さんに派遣されたな。美幸がいるのを知っているのに何でわざわざ出て来たのか引っ掛かっていたんだ。こいつの理屈癖の相手が出来る術者は、美恵子さんか九鬼の藤次くらいだからな。」


哲也が納得していた内情を言葉にした。

話を振られた美恵子に視線が集中する。

周囲に目を配ると美恵子は首を右に傾げながら口を開いた。

「違うけど。」

哲也に向き直ると続ける。

「昨日の朝から私にもこの東伊豆の異変は分かっていたのよ。影響範囲が広く、静岡西部にも及んでいたし、東は房総半島全域にも係わるのは感じていた。ただね~私は思念閉鎖も出来るから無視していたの。距離も離れていたし、この地域には神崎総本家がいるから余程の事でも無ければ援助要請は来ないでしょ。それで普通に出勤してお店の準備をしていたら知り合いの病院から連絡が来て治療の手伝いをしていたの。そのうち掛川や清水からも応援要請があって、沼津の陽子(はるこ)さんが『私には手に負えないみたいだし、もうそろそろ引退するからあと宜しく。』って言って来たんで、仕事にならないから知里ちゃんにお店任せて八田君達と刈谷君に合流したって訳よ。楓さんとは最近連絡とってないわね~」

話の終わりに美恵子は傾げていた首を逆、左に傾けると涼し気な切れ長の眼に宿る大きな灰色の瞳をゆっくりと右上に動かして微笑んだ。

含み笑いをしながら美幸が続く。

「私も美恵子さんも楓さんからは巳葺山に呼ばれなかったもんね。」

「えっ。美幸さんは叔父さんから指示が無かっただけじゃないんですか?」

咄嗟に翔が応えた。

「うん。あの日の朝、翔君達が襲われたって事を楓さんがお父さんに連絡した時に、私は連れて来なくて良いってわざわざ言ったらしいのよ。お母さんは何が起こっているのか分かっていたみたい。お父さんが何も言わずに大勢連れて出て行った後は大変で、私達は私達で果樹園の方も取り仕切っていたの。終いには常連のお客さん達までお店手伝ってくれてね。なんかね、最終的には皆でやり切った感じで学園祭の時みたいな一体感があったな。お昼頃に終結したのを感じたお母さんがお父さんに怒った振りしたのは黙って出て行った事に対して一言言いたかったのと、帰るタイミングを見計らっての事なのよ。」

翔と聡史は顔を合わせ、槍穂岳登山道前でのやり取りを思い浮かべた。

「それでさ、翔君は今の美恵子さんの例えでどう納得出来たの?」

美幸が続けると翔に視線が集まる。

「納得と言うか、今までの事象について腑に落ちたって感じです。『茶葉のパラドックス』の説明は慎也が言った通りなんですけど、メカニズムとしては器の中で平面の遠心力が壁に当たり縦方向に螺旋状の流れが生まれる事によって茶葉は外側に移動すると予想出来ます。実際に攪拌し続けていれば流体の茶葉は力が加わった方向、カップの外側を回りますが、攪拌・・・スプーンを止めるとカップの外側・・・側面には摩擦力によって内と外の水には高圧境界層が生まれます。この高圧境界層は内側に広がって茶葉の質量に掛かる慣性力よりも強く働くんです。回転流体力学の話になるんですけど、この問題の本質はティーカップに底が存在するところなんです。底付近の流体は摩擦により回転速度が落ちて底に接したところでは速度ゼロ。つまり静止していると言えます。この作用はそのまま気象学にも当てはめられるんです。自分で創ってみて初めて実感出来た事なんですけど、この幽世はまさにこのパラドックス。常に流動しているのに底辺では静止した状態・・・巳葺山や昨日の伊那美濱の台風の様でいて異様な嵐の正体は幽世で、巨大な茶葉のパラドックスだったんだという事が理解出来ました。」

翔が興奮して説明するのを立ったまま、一応最後まで聞いていた聡史が静かに応えた。

「あのさ、茶葉のパラドックスは授業で習ったし内容は理解している。だがな、そもそもの語源は十九世紀の演劇の題名という事らしいし、『コップの中の嵐』とも言われてさ、該当する科学者なんかには重大な事柄であっても、外部の者にとっては大したことが無いっていう例えにもなるんだぞ。周りを見ろ。このドン引きしたオーディエンスに対してお前はどう責任を取るつもりなんだ。」

聡史の言葉に翔はテーブルの面々に目を向ける。

二人の掛け合いを楽しそうに見ていた美幸以外は椅子に体重を預け各々、窓の景色を眺めていた。

腰に両手をあて、翔は聡史に向って首を傾げる。

「美恵子さん、こいつの話は終わりました。まあまあ納得したみたいですから次に進みませんか?」

翔に勝ち誇った様に胸を張り聡史が声を掛けた。

特に話を聞くでもなく脚を組んだまま背もたれに寄り掛かり腕を組んで天井を眺めていた美恵子はゆっくりと首を傾け聡史に微笑むと口を開く。

「君達の知的漫才も慣れると面白くなってくるわね。それじゃ美幸ちゃんは素子ちゃん達をお願い。八田君もね。」

言って皆で立ち上がり美幸が素子達をキッチンへ誘導する。

「美幸ちゃん、そっちの思念閉鎖はお願いね。」

美恵子が続けて言うと美幸はOKサインで返す。

「え?何が始まるんですか?」

キッチンに押し込められた素子が美幸に尋ねる。

「うん。今朝、翔君が浜辺で拾った物の実態を確認する必要があるの。場合によればここで戦う事も考えておかないといけないから避難します。」

聡史が八田の横から顔を出して続く。

「今、思念閉鎖って言っていませんでした?」

「昨日の出来事を話したでしょ。あの拾い物は恐らく『邪神』の実体化した組織の一部。海洋の神が封じても広域に影響を及ぼした思念がこの空間で反響する事を考えて私があなた達への念波を防御するって事。」


「哲也くん・・・それで大丈夫なの?指揮者?」

テーブルに置いてあったステンレス製のタンブラーを右手の人差し指と中指で遊ばせながら箱の前に立つ哲也を見た美恵子が呟いた。

「刀は封印して車の中なんだ。まあ何とかなるだろ。それに物怪の類に直接物理攻撃は効かないんだから『気』の増幅になればいいんだ。翔、箱を開けろ。慎重にな。」

哲也に促され、翔が身を屈め保温箱に左手を伸ばした刹那。

空気が震え、爪先から膝へ這い上がり内蔵を突き抜け頭頂へ重低音の汽笛の様な振動が突き抜けて行く。

その全身を揺るがす振動が一度通り過ぎるとブルーの発泡スチロールの上蓋に亀裂が入り、先の曲がった細い鋸状の物が跳び出す。

翔は咄嗟に手を止めそのまま左へ飛び、左足で着地した瞬間半身をそらし箱に正対した。

上蓋から突き出た鋸状の突起物は真上に伸びると、今度はゆっくりと倒れ突先が着床する。

尚も続く重低音の振動と共に箱からは幾本かの突起物が這い出てそれぞれが床に降りた。

全ての突起物が着床すると保温箱が持ち上がる。

低く籠った音の波が全身の骨を揺さぶりかけ皮膚が歪む感覚が襲うと、空中に浮き上がった箱の底板が弾け飛び、どろりと灰色の粘液が零れ落ちた。

もう一度大きな振動が全身を襲う。

翔は両目から涙が零れ落ちるのを感じ右手で頬を拭い哲也を見るが、左右の焦点が中々合わず俯いて頭を振った。

徐々に視界が広がると、テーブルの脇に左手で側頭部を抑えながら美恵子を抱き寄せている哲也の姿が網膜に映し出された。

台所の入口では美幸が膝を落とし、両手を付いて目から出血している姿が見える。


「閉じ込めろ!」


哲也の叫びに翔は広間の空間に目を移す。

虚空を見定め右手の拳に力を籠めた。

激しく鉄の擦れ合う音が高鳴り、吸い込まれるように全ての音が消え周囲の気配が蘇る。

再び翔は周りを見回し、哲也と美恵子に焦点を合わせる。

両膝を付き、俯いた美恵子は左手で口元を抑え、赤い液体が床に滴るのを留めようとしていた。

「哲さん・・・」

「美幸達を見てこい。美恵子さんは大丈夫だ。」

言われるがまま台所へ向かう翔の耳には呼吸が荒れ嗚咽をする複数の音が届く。

「美幸さん・・・」

翔が近付き、肩に手を触れようと身を屈めると美幸は右手を挙げ左手の指で両の(まなじり)から零れ落ちる血を抑えながら笑顔で応える。

「大丈夫。一瞬遅れたから最初の衝撃を抑えられなかった・・・ごめん。皆を見てきてくれる?」

キッチンの中では皆が(うずくま)り、八田でさえ立てずに口を押え嗚咽を漏らしている。

曽野川は失神しているらしく床に頭を下ろしたまま動かず、素子は尻餅をつき口を開けたまま虚空を見詰め両目から流れる涙を拭う事さえ叶わなかった。

聡史と慎也も膝を落とし、肩を大きく震わせながら胃からこみ上げる物を必死で堪えている。

介抱しようとキッチンに入ろうとした時、大きな割れ鐘の音がした。

身体を反転して広間を見る。

氷結した柱状の幽世に亀裂が入り空間に鈍く低い大鐘の音と振動が心臓の鼓動の様に伝わる。

哲也と美恵子が立ち上がりその脈打つ氷柱に対峙していた。

「美恵子さん、その・・・大丈夫ですか?」

純白のキャミソールに鮮やかな紅の点が幾つも見える。

左手に握られたおしぼりは鮮血で染まっていた。

美恵子は再び口元を左手で拭うと翔に視線を移し素肌となった薄い唇をゆっくりと開く。

「翔君こそ何で無事なのよ。一発目にダイレクトに受けた筈なのに何ともないの?咄嗟に哲也君は保護出来たけど、少し離れていたから翔君までは届かなかったし、私自身も喰らってこのありさまよ。君が幽世で封鎖しなかったら全滅していてもおかしくなかった。(よこしま)とはいえ流石は神の一部よね・・・一部、なのよね。」

鈍い鐘の音は一定のリズムで鳴り響く。

脈打つ氷柱は鐘が鳴る度に亀裂が生じ内部からの圧力による崩壊を待っているようだった。

哲也が右脚を前に半身になりながら右手を左肩迄上げ、次の攻撃に身構えた。


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