器好き
素子は代縺湾から無言の美恵子をチラチラ見て、声を掛けようとした時だった。
「うん、分かったわ。流石は美幸ちゃん。良く整理出来てる。」
美恵子が呟き素子に笑いかける。
「え?何ですか?私に分かるように説明して下さい・・・もう着いちゃいましたけど。」
海沿いの国道を北上していた素子達は須佐之原海岸のバスロータリーの反対側にライトグリーンの看板『リゾートヴィラ須佐之原海岸』を左折してシマトネリコの細かい緑の葉が輝く石畳の小道に進入する。
管理棟を過ぎ、奥の駐車場に『湯江山農園』の文字が入った白い軽ワゴンの隣に停車した。
車を降りると正面にある大きなカナリーヤシの右側、この別荘地で一番大きな建物の玄関ドアが開く。
グリーンストライプのシャツに白いデニムの美女が手を振って歩いて来た。
「美恵子さ~ん。お元気ですか?聴取しておきましたよ。」
白いキャミソールのロングドレスに赤いアンクルストラップのハイヒールサンダルを履いた美恵子が手を振り返して応える。
「うん、聞いてたよ。後は神奈川勢が来るまで休憩ね・・・哲也君は?」
美恵子の言葉に美幸は笑って手招きする。
二人で玄関に入ると大きな衝撃音がした。そのまま内扉を開けると慎也が宙を舞い床に叩き付けられ、聡史が床で仰向けに倒れていた。
翔が後ろから哲也の腹に手を回すも、哲也は翔のベルトを後ろ手に掴みそのまま前転をして翔を跳ね上げ床に落ちたところを袈裟固めに入り、変形のチョークスリーパーホールドで絞め落とした。
「少年達よ、決戦を前に血が滾るのは分かるが・・・何をしておるのかね?哲也君まで・・・」
呆れた美恵子が両手を腰に当てて声を掛ける。
「美恵子さんが着いたって言ったらお兄ちゃんが逃げ出そうとして、止めようとした素人高校生三人が返り討ちにあった状況なの。」
「な~んだ~哲也君、照れちゃって~もう一人のイケメン神崎君はだ~れだ。」
言いながら美恵子は真っ直ぐ翔の所へ歩いて行き膝を付いて顔を凝視する。
酸欠で焦点が合わない虚ろな目をした翔の耳裏に指を指し込むと顎に向って引く。
瞬きをしてせき込んだ翔は目の前で微笑む美女の灰色の瞳に吸い込まれた。
「え?あの・・・ありがとうございます。」
「うん、しっかり可愛い~あなたが翔君ね。徳武美恵子よ、成程ね~凄い神様がついている。途方もなく大きな神様。これじゃ君が受け取る力を付けないと些細な霊障は寄せ付けないわね。だから昨日の鯨神の全国放送をキャッチ出来なかったのよ。楓さんからも『今の君には感じないか』って言われたんでしょ。それであちらも考えて直接コンタクトを取りに来たって訳よ。都合よく早朝に浜辺に行っているっていうのも何かの因縁ぽくていいわね・・・哲也君~逃げないの。うちの八田ともやり合う?」
玄関の内扉を潜る様に入って来た八田に向って美恵子は言った。
言われた八田は微笑むと哲也に向って頭を下げる。
哲也は肩を落とし、右手を挙げて挨拶をする。
聡史と慎也に美幸が近付き介抱していると、玄関ドアが閉まり素子と曽野川が靴を整えてラウンジに入って来た。
「うわ、何があったんですか?事件?」
惨状を目の当たりにした素子は倒れた高校男児三人を見て声を出した。
「哲也君が稽古つけていただけよ。もう大丈夫でしょ。はい、皆起きて!お茶入れ直しましょ。」
美恵子の号令に曽野川がテーブルの食器を片付け始める。
その姿を見た聡史と慎也が同時に声を掛けた。
「曽野川零元?」
二人の発言にぽかんとした表情の翔が「誰?」と呟くと聡史が言う。
「お前、その体質なのに心霊番組とか見ないのかよ。最近こそテレビに出なくなったけど、もう何年も前から国内最高の霊能力者って言われている大先生だぞ。」
説明を受けても尚首を傾げ、虚ろな表情のまま細かく頷く翔に曽野川が応える。
「霊能力者何って言うのは嘘です。あれは番組の演出・・・デレクターの期待に応えるためのトリックですよ。まあ、あの当時は自分でも霊感があると思っていたんですけど、こちらの哲也さんやうちの社長に比べたら一般人よりちょっとだけ勘がいい年寄りと言ったところです。今は一から修行を付けて貰っている身分ですよ。」
曽野川の発言に聡史と慎也は八田を見て頭を下げる。
八田は手を振って美恵子に手を翳す。
美幸が慌てて聡史達の前に来て話し出した。
「ああ、紹介するね。こちらが私の大学の先輩で、さっき話した徳武美恵子さん。聡史君より背が高いボディガード兼、店長さんの八田さんと・・・曽野川さん、実家に来たことありましたっけ?私とは初めましてですね。あと、こちらが静岡県庁の村上素子さんよ。」
この時初めて聡史達は長身の美女がいる事に気付き目を輝かせる。
白いキャミソールに透き通るような白い肌、外国のモデルの様なシャープな体形にワンピースよりも輝く白い髪の毛を腰まで垂らした妖艶な美女が微笑んでいた。
美恵子は聡史達の姿を暫く眺め、美幸に何か閃いた表情をすると、微笑んで歩きだす。
「ねえねえ。女の子っぽく見えない?」
聡史と翔の間に入り振り返ると「ね。」と言い素子にも笑いかけた。
「あ~そういう事ですか。美恵子さんの身長だと男性の平均値より上ですし、刈谷さんも決して低くは無いんですけどヒールの分美恵子さんの方が高いですからね。確かに。見えます見えます・・・っていうか美恵子さんって身長関係なく綺麗な女性ですよ。女の私から見ても十分に・・・コンプレックスだったりしますか?勿体無い。まさか、それで八田さんをボディガードにしているんですか?」
「ん?八田君はビジネスパートナーよ。うちの会計責任者。やりたい事は私が決めるけどマネージャーとして奮闘して貰っているの。特に税理面ね。」
話しに哲也が入って来る。
「八田さんってさあ、店長やってて話しとかするの?そういえば声とか聞いた事無いよな。」
八田は左手を後頭部に当てて苦笑いをすると、キッチンに向って行く。
後ろ姿を目で追っていた美恵子が口を開く。
「話すわよ。勿論。」
「どんな事話すの?」
哲也に問われ、美恵子は腕を組んで区部を傾げると、左上に視線を移し口を尖らせてから左手を顎に添えて応える。
「例えば~『この領収書は使えません』とか、『薬剤を含んだものは普通ごみに混ぜないでください』それでこの前は・・・『会社のカードで下着買わないで下さい』とか・・・」
「・・・基本、叱られているんだね。それって新入社員が言われるレベルだぜ。社会人何年目よ?一応会社の社長やってるんでしょ。経営とかは大丈夫なの?」
「だから、実務は八田君がやるのよ。私は感性で仕事をするの。ネイルアートって科学と芸術の融合なのよ。唯一絶対の理解者をパートナーに出来るのは、私の人徳たる所以ね。」
二人の話しが盛り上がるところを素子が割って入る。
「私も美恵子さんの感性の部分には感謝しても仕切れないくらいで、尊敬しているんですけど、法人カードで下着は・・・流石に引きます。」
「え~何で~職場にノーパンで来いって事?うちはそういうお店じゃないからいいんじゃないのって・・・まあ、寝る前に呑みながらポッチってね・・・」
話が盛り上がる中、淡々と片付けをしていた翔が美幸に促されて声を掛ける。
「お茶の準備が出来ましたよ。哲さんも諦めて座って下さいよ。」
人数も増え、美幸が戸棚から別の箱を取り出し翔に洗わせ、コーヒーメーカーをもう一つ出した。
曽野川が手土産で持って来た『うなぎパイ』を小皿に分け慎也と聡史が振り分ける。
湧き上がったケトルとコーヒーメーカーを八田と美幸がそれぞれ両手に持ちテーブルに置くと、洗い終わった食器を翔が美幸の前に並べる。その食器を慎也がじろじろ見ている姿に聡史が声を掛けた。
「今度は何だよ。お前、変わった趣味って言うか・・・そんなに器好きだったっけ?」
聡史の声に反応した慎也はソーサーとコーヒーカップを手にして裏底を覗き込む。
「あ、やっぱり。さっき美幸さんが箱出した時『ヘレンド』って見えたからまさかと思ったけど。これ、マスターサイン入りの本物だぜ。一組二十万くらいの超高級品だ。このテーブルに九組置いてあるって事はどういう意味か分かるよな。」
「さっきのマイセン様より高価なのかよ。」
「何て言うかな、マイセンはヨーロッパ最古の名窯って言われていてドイツのブランド、さっきのブルーオニオンは1739年に誕生して以来マイセンの伝統的ベストセラーなんだ。元は中国の白磁を目指した品のある白い磁器に日本の伊万里焼のようなブルーの絵柄になる様に試行を凝らして確立した伝統ある高級品なんだよ。オニオンって呼ばれているけど実はザクロの花なんだ。不老不死を表現する竹を模した双剣と富の印とされる桃に子孫繁栄の象徴のザクロが描かれた縁起の良い品物として好まれている。一方ヘレンドは遅れる事百年、1826年にハンガリーで誕生した比較的新しい窯。時代背景を言うと当時この地方を治めていたのがハプスブルク家。宮廷サロンで鍛えられ、ヴィクトリア女王の目に留まって躍進したメーカーで、今でも英国王室と縁が深くって王子の結婚祝いにハンガリーから送られたのがヘレンドの品物だったらしいぜ。マイセン同様の繊細な手描きの絵柄が特徴の芸術的名品。この絵柄はカタログで見た事ある。確か、『コレット』って言う品物だ。金の縁取りがあるだろ、これ24金が使われている。裏にペインターのサインが入っているのはマイスターによる仕上がりの証明なんだよ。同じように高級品のイメージがある『エルメス』も食器を作っているけど考え方が違うんだろうな製品にバラつきが無いようにプリント柄が採用されているんだって・・・もう、麻痺して来たから高級品には慣れて来たけど・・・何か凄い合宿になって来たな。」
「やべえヲタクが爆誕しやがった。慎也とは付き合い長いけどこんな癖があるのは今知ったぜ。しかし、この別荘地こんなにも高価なものが置かれていて泥棒とかに狙われたりしないのかな。普通の防犯カメラくらいしか見えなかったけど・・・」
「矢崎さんが健在の内は大丈夫よ。慎也君って本当に詳しいのね~これは、去年お父さんがお礼で頂いた品物で、食器って使わないと勿体ないでしょ。朝、家を出る時にお母さんからも『人数増えたら出していいよ』って言われたから初めて使うの。そんなに高価なんだ。家は基本貰い物ばかりだから値段とかは・・・お店で出す丼ぶりとかの器以外は知らないんだな。さて翔君。お兄ちゃん達呼んで来て。」
翔に呼ばれて哲也達も席に着く。広かったテーブルはすっかり埋まってしまっていた。
全員が座ると素子から刈谷の動向と静岡県内の事態説明がなされた。
美幸が話しを聞きながらコーヒーを振り分けると柱時計が正午を告げる。
「もう昼か。雫ちゃん達来るまで情報増えないから、これ飲んだら飯にでも行くか。」
哲也が言うと翔は聡史達を見て声を掛ける。
「それなら、沙紀さんの店に行こうよ。今朝、哲さん来るなら連れて来てって言われたし昨日から凄いサービスして貰って何かお返ししたいからさ。」
哲也の了解を得て翔は貰ったカードの番号を入力して予約を入れる。
「今は混んでる時間だから一時間くらいしたら行くって言っといた。しっかり席作って待っていてくれるって。美恵子さん達もいるって伝えたら凄く喜んでいたよ。」
「一時間か、雫ちゃん達も到着するんじゃないの?人数大丈夫か?」
『大丈夫よ。』
哲也の問い掛けに美恵子と美幸が同時に応える。顔を見合わせた二人は互いに譲り合うが美恵子が応える。
「さっきね、一瞬だけ障壁が途絶えたの。箱根を出て直ぐだと思うけど、何か神憑り的な物・・・神具を授かりながら移動しているみたいね。朝の段階で刈谷君が神奈川の監理官から行き先についての連絡が入って天城峠を通ってから来るって事は聞いていたけど、その時はまだ三島にも着いていなかった。楓さんが誘導しているみたいだから今回に備えて必要な行動をとっている。だからここに来るまでにはもう少し時間が掛かる筈。その時までは楓さんが一緒かと思っていたけど違った。幽世を作れる人間なんて楓さん以外にいないと思っていたけど誰がやっているのかしら・・・」
聡史が翔を見る。気付いて話し出す。
「しゃもじです。巳葺山にいた丹沢山系の山の神で普段はヤマネの姿をしているんです。自分の幼馴染の女の子が名付けましたから同乗して守っているんだと思います。」
「あ~幽世ならこいつも造れるぜ。」
哲也が口を挟んだ。
「え、翔君・・・そんな事まで出来るの?楓さんに教わった?あれって、教えられて出来る空間じゃないわよ。物怪でも上位、神に近い存在じゃないと作り出せない。ふ~ん、後でさ、二人だけで楽しくお話ししましょうか~」
体験した事もない美女の妖艶な微笑みに背筋が冷たくなり哲也を見るとにやけた笑顔を見て『図ったな・・・』と思う。
美恵子が美幸と同時に笑い出して話し出す。
「翔君~私達がサーチしている時に心で思ってもダメよ~ウケるわ。」
聡史が感心して声を出す。
「あの、美恵子さんや美幸さんって何でも見通せるんですよね。聞き分けているんですか?何でも聞こえて来たら眠れもしないし五月蠅過ぎて何も聞こえなくなったりしませんか?」
美幸が微笑んで応える。
「うん、美恵子さんは大学に行くまで自分の能力の正体が分からずに悩んでいたらしいけど、私の様に術者の家系に生まれた人間は誕生と同時に楓さんが制御してくれるの。翔君や雫ちゃんもそうだったんだけど、二人は力が強過ぎて最近までは大変だったのよね・・・翔君は今の方が解放され過ぎて大変か。それでね、楓さんに少しずつチューニングの仕方を教わるの。だから、その気になれば国内全域の出来事も掴めるようになるんだけど疲れちゃうからね。そこまではしない。今は私も美恵子さんも自分が聞きたい事を振り分けて聞く・・・感じ取る事が出来るから普段の生活には支障ないの。自身で気付かない深層心理にある秘密も知ろうと思えば探れるよ。聡史君も見て欲しい?」
翔と慎也は聡史に向ってニヤ付く。
「ああ、そういう事なら大丈夫です。自分の事は自分で整理出来ていますから。それにしても、結構信じていた曽野川零元が偽物とは・・・まあ、確かにこの前見た哲也さんや九鬼の人達の事見ちゃうと・・・楓さんや翔の能力はもう漫画の世界だったからな。」
曽野川が右手を後頭部に付けて苦笑いする。
「曽野川さんは一般人から見たら十分に能力ある人間だぞ。少なくとも真面目に修行して来ただけはある。特に俺が会った三年前に比べたらタイプこそ変わったが確実に実力は上がっている。ただ、俺達が相手をする現象は特殊過ぎるんだ。偽物は言い過ぎだ。」
哲也が言うのを曽野川は立ち上がり頭を深く下げる。その姿を見て美幸が笑って両手を振って座るよう促す。
「申し訳ありませんでした。」
聡史だけでなく、慎也と翔も立ち上がって曽野川に頭を下げ、曽野川も礼で応えた。
「まあね~師匠がいいからね~私は良い所を伸ばす指導をするからさ。」
美恵子が胸を張って言う。
「そういうのを自分で言ったら価値が無いだろ。どうせ指導と言いながら雑用押し付けているんだろうが。」
哲也が言うのを八田が右手の親指を上げて同意したのを見て美恵子は渋い顔を見せた。
「ところで、そこまで探れるなら今回の相手の正体も分かりますか?鯨神は外洋から来た異国の神と言っていました。」
翔が美恵子に向って言うと美幸が代わりに応える。
「それは出来なかったの。鯨神は自身で翔君に会う為に姿を現した。お供を連れてね。今朝、姿を現すまでは私にとっても大きな白い塊としか認識出来なかった。翔君が綿津美山に行く途中で見えたビジョンと同じよ。その異国の神を敢えて邪神と呼びましょうか。その邪神に至っては海底を這うとても大きな気味悪く蠢く物としか分からない。今朝の鯨神も写真にはぼんやりとしか映らなかったでしょ。本来、神や精霊、上位の物怪は人の目やカメラには反応出来ない存在なの。心霊写真とかに写るものは低位の霊や物怪よ。それでも弱った人間の思考を惑わすには十分な力を持っている。メッセージの力は鯨神の方が強かったから影響を受けた人達にとって言語として記憶に残った。でも、その前に邪神の障りを受けて恐怖を感じた人・・・霊障を受けやすかった人はパニックになって事故にあって、結果として亡くなられた方も出てしまった。今回の事態について順を追って話すと、まず、浮上して来た邪神の障りを受けた人がその感受性に合わせてパニックに陥ったり、恐怖心を増幅させて幻聴や幻覚を見て倦怠感に襲われる。それを緩和するために鯨神が嵐を起こして邪神を海底に戻して正常になる様に念波を送る。暫く邪神と鯨神との攻防が続くけど最終的に鯨神が邪神を海底に沈めた。それで、昨日の騒動は落ち着いたんだけど、肝心の翔君が着信拒否しているお陰で今朝浜に来て直接話をしたって事よ。」
「成程!それで今日の調査本部設立に繋がる訳ですね。でも肉眼で確認出来ない邪神を計測機器は反応、感知出来るんですか?」
今まで静かに聞いていた素子が声を上げる。
「出来ないよ。」
哲也が言い、驚いて反論しようとする素子を制して話しを続ける。
「刈谷さんの真意は直接聞いてみないと分からないけど、知恵出しているのは神奈川の涼子さん・・・もしかしたら楓さんも絡んでいるな。多分、代縺港にある海中観測所と国防省の護衛艦の装備で相模灘、特に東伊豆周辺の海底の変動と海流、海水温の変化とその傾向を掴もうとしているんだと思うな。通常時と異変が起きる時の微細な変化を掴もうとしている。そういう意味では八方塞がりの深海でも感知能力が高い潜水艦の起用は絶妙な案だ。そもそも怪異を科学技術で解決するにはアプローチの仕方が合っていない。翔や美恵子さんが得意な数学的帰納法と演繹法で導き出すのが目的だろ。」
哲也の言葉に意外な反応をした素子が美恵子を見詰める。
「ああ、素子ちゃん。私は理学部の数学科卒業のリケジョよ。知らなかったっけ?」
「刈谷さんの考えも驚きですけど、美恵子さんが理系とは全く思いませんでした。芸術系の電波さんかと・・・あ、失礼しました。」
「本当に失礼よ。一応学科首席で卒業しているんだから。どこかのワイナリー脳筋女とは違うのよ。」
美恵子の言葉に美幸が吹き出す。
「琴乃さんには聞こえないのを良い事に言いますね~チクっちゃいますよ。でも琴乃さんも上位の成績で卒業したって言ってましたけど。」
「自己報告でしょ。単位ギリのドべよドべ。」
「ま、出席率は仕方ないさ。あちらの次期統領としての仕事もやりながらだからな。俺も単位ギリだし、早い所これ終わらせて卒論やらないと来年の就職に響く。」
哲也が渋い表情で訴えるのを聡史が聞く。
「哲也さんって農園継ぐんじゃないんですか?」
「いずれはな。一応、伊東市内の会社に就職予定だ。一志さんみたいに学校の先生は性に合わないし、海洋事業にも興味はあるんだ。他社の経営も学ばないとこれからの時代変化に追いつかなくなるからさ。」
話しを聞きながらも慎也はコーヒーカップをまじまじと覗き込む。
「慎也~お前まだ見ていたのかよ・・・盗むなよ。」
「阿保。お前この陶磁器の価値が分かるか?これは芸術品なんだぞ。ハンガリーにはドイツのような国が認めるマイスター制度は無いけどヘレンド独自のマスターペインターが一品一品手描きで仕上げているんだ。だから全く同じものは存在しない。18世紀に生まれた新古典主義の芸術思潮の中で優美さや繊細さが特徴とされるロココ様式を採用したのがこのコレットっていうシリーズなんだ。世界史の授業で17世紀から18世紀に掛けての地域産業史の内容に出て来るからハプスブルク家とハンガリーの関係くらいはお前も覚えてるだろ。マリア・テレジアが育成したウィーン窯の後継になったヘレンドはフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー国王を兼ねると宮廷で重用されたと伝えられている。皇妃エリザベートがハンガリーを熱愛して滞在したというから当時宮廷一の美女とされたエリザベート王妃も使ったんじゃないかなって思うと歴史的ロマンも感じるだろ。何時か本物に出会えたらって思っていたんだ。見るだけでなく実際に使えるなんて感無量だ。よく見ろ。ふんだんに使われている24金の縁取りとこの繊細で写実的な花の絵柄だけでも製作者の心意気ってものが感じられないか?」
力説する慎也に応えるように自分のカップを手に取り聡史が感慨深げに応える。
「ああ、成程な。確かに金色の縁取りが贅沢に使われている。花柄も綺麗でこれを手描きで仕上げているのは余程の修練を積んでいるんだろうな。これだけ金の装飾を施しているのに品の良いライトブルーのラインが成金的な下劣さとは無縁の品格を備えている訳だな。」
聡史の応えに慎也は「そう思うだろ。」と言うと、真顔の聡史が続ける。
「うん。これだけ本物の24金を使ったんじゃレンジに入れたらダメなんだろうな。」
「・・・あ、おい・・・うん・・・へ?」
聡史の感想に慎也の思考が完全にフリーズする。
二人の掛け合いを見て来た全員が一度顔を見合わせると笑い出した。
ラウンジの柱時計が午後一時を告げた。
翔が店に混み具合を確認すると、優先席は確保したと返事を受け皆に告げる。
「それじゃこの芸術的超高級食器達を片付けよう。飯にしようぜ。」
哲也の号令に翔達はテーブルの食器を運ぶ。
一瞬、美恵子と美幸は視線を合わせるが笑ってキッチンに歩き出した。