『・・・しっ・・・しまった~』
「うわ!爽やか~涼しい。お姉ちゃん、やっぱり夏の箱根は良いね。いつ来ても湖の水は綺麗に透き通っているし途中の富士山もばっちり見れたしね。」
箱根新道を下り急な坂道を曲がり続け東海道に差し掛かったところを左折、最初の登り坂を越えると信号が現れた。
交差点の右側に立て札で『月読尊・八坂刀売神』『月読神社』と二段に書かれている。
信号を右折するとボート係留場の駐車場に神社専用の場所があり停車した。
標高700メートルを超える山上湖の芦ノ湖は湖水の水温が低く、湖水によって冷えた空気が風に乗って陸に吹くため八月でも気温は二十五度程度だった。
美鈴と由衣はバスを降りると早速湖に歩き湖面を渡る朝風を頬に受け振り返って姉の麗香に話しかけた。
「そっちが目的じゃないよ。でも、いい天気ね~さあ切り替えて行くよ。」
麗香が応えて手招きをした。
美鈴は駆け寄って麗香に声を掛ける。
「ねえ、さっきさあ『八坂刀売神』ってあったけど、月読神社の御祭神は月読尊だけじゃないの?」
歩きながら麗香が応える。
「神社の御祭神って必ずしも一柱だけじゃないよ。ここで一番有名な箱根神社も瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命のご夫婦神に子供神の彦火火出見尊の御三柱を『箱根大神』としてお祀りしているでしょ。大学の宗像神社だって三柱の神様が御祭神だし。」
美鈴は笑いながら続けた。
「はい。自己紹介頂きました。お姉ちゃんはどの神様に当たるのかな。」
「馬鹿な事言ってないの。勝手に付けられたグループ名でしょ。あとね、あれは八坂刀・・・」
姉妹で話をしている横を通り過ぎ、由衣は急いで県道を渡っていた雫と寛美に駆け寄る。
「あの、八坂刀売神ってどんな神様なんですか?古事記や日本書紀には記載されていなかったと思うんですけど。」
道路を渡ると、綺麗に掃き清められた神社の入り口には木製の社号標で『月読神社』とある。
石造りの鳥居は苔生していて歴史を感じさせるが、参道の石畳には塵一つ見えない。
参道の両側は杉林になっていて『箱根八里』の歌を彷彿させた。
由衣の問い掛けに雫は寛美に目を向けると、微笑んで右手を翳す姿を見て応える。
「あれはね『八坂刀売神』と読むの。長野県にある信濃國一宮諏訪大社の主祭神の一柱よ。古事記や日本書紀に出て来る葦原中国平定のお話し『国譲り』の場面で、平塚で話した『武御雷神』と大国主神の子供である建御名方神が力比べをして、腕を引き千切られた建御名方神は信州の諏訪湖まで逃げて来て信州に留まる事と、国を譲る事に同意をしたとあるのは知っているよね。他の文献には父神である大国主神から信濃國を治めるよう言われて、この土地に根差した統治をしたともある。話し出すと長くなるからこの位で止めておくけど、長野県にある諏訪大社は諏訪湖を中心として独自の『諏訪信仰』が根付いて『建御名方神』を主祭神に妃神の『八坂刀売神』の夫婦神がお祀りされているの。諏訪湖を挟んで南側に前宮と本宮があって、建御名方神が本宮、前宮を八坂刀売神が主祭神としてお祀りされて、北側に下社の春宮と秋宮があって同じく建御名方神と八坂刀売神に加えて八重事代主神、『恵比寿様』が祀られている。それで、諏訪湖の湖水が凍って表面に亀裂が生じる『御神渡り』ってあるでしょ。あれは上社にいる男神、建御名方神が下社にいる女神の八坂刀売神の所にお通いになって出来た道とされているの。八坂刀売神は妃神として諏訪信仰ではとても大きな存在の神様よ。」
「お詳しいですね。あなたが神崎雫さんですね。」
白衣に浅葱色の袴の女性神職が鳥居の内側から声を掛けて来た。
寛美と共に振り返る。
二十代半ばくらいの神職は微笑んで頭を下げた。
雫達も深くお辞儀をして応えると麗香達も追い付いて来た。
「はい、私が神崎雫です。えっと、初めまして・・・と思うんですけど。」
「今朝早くに楓様からご連絡が入りまして皆様のお迎えの準備をするよう言付かりました。禰宜を任されております松宮彩香と申します。遠路お疲れ様です。」
神職の女性はにこやかに返答すると全員を見渡し「ようこそいらっしゃいました」と深く頭を下げながら手を翳し、境内へ案内する。
境内に入ると雫と忍が拝殿へ進み参拝をすると寛美と麗香が続く。
全員の参拝が終わると神職が微笑み声を掛ける。
「見ての通り小さな神社ですので皆様社務所へお越し下さい。」
社務所は住居を兼ねる木造二階建ての建物で、玄関を通り一階の広間へ通される。
床の間には月に向って昇って行く龍に崖の上で遠吠えをする狼と神楽を舞っている巫女の絵柄の掛け軸があり、大きな神楽鈴と天井に届くような長弓に四尺を越える長さの太い矢が三本飾られていた。
雫は美鈴と由衣にウインクして「ね。」と得意げに合図する。
長い座卓に座布団が並べられそれぞれ座ると雫が隣の忍に声を掛ける。
「ねえ、本当に何も聞いていないの?楓さんの事だから手回しの鮮やかさは当たり前としてもちょっと思惑通り行き過ぎる気がするのよね。」
「はい。何も伝えられていません。楓さんからは必要最低限で無理のない指示しか来ませんから。逆に私が困ったり迷ったりする時は全て御見通しで助言を頂けます。」
対面に座る寛美と麗香も二人の会話に身を乗り出して来る。
「本当に素晴らしい師弟関係なのね。あのルックスに惑わされるけど楓さんって理想の上司像そのものよね。」
「うん。麗香の言う通り容姿は勿論素敵な人なんだけどさ。気のせいかもしれないけど私で遊ぶ時がたまにあるのよ。何か引っかかるこの気持ちのモヤモヤはどこから出て来るのか・・・まさかとは思うけどここでも巫女舞させられたりしないよね。」
麗香の言葉に雫が応えながら寛美に懇願するように尋ねる。
寛美は麗香と目を合わせてから微笑んで首を振るだけだった。
「よし。先手必勝よ。先に食い止めておくわ。」
雫の宣言に麗香が窘める。
「止めておきなよ。初対面の神職の方に失礼よ。それにね・・・」
奥の厨房から氷の入ったグラスと麦茶を持って禰宜の松宮が広間に入って来た。
「宮司が来るまで少しの間お待ちください。」
松宮が一人一人に麦茶を注ぎ座卓に並べて行き、全員に行渡った所で雫が口を開く。
「楓さんからの連絡はどんな内容だったんですか?私達がここに来る目的とか、これから進むための助言は言っていました?」
「詳しくは宮司から伺ってください。私は到着次第おもてなしをするよう言付かりました。」
松宮が笑顔で応えると雫が更に問いかける。
「初対面でこんな事聞くのは恐縮ですけど、例えば『例祭』についてとかは話していませんよね。」
雫の言葉を聞くと、松宮は掌を合わせて満面の笑みで応える。
「はい。そのお言葉が雫さんから出るまでこちらからは決して何も言わない様、厳重に注意されておりました。そしてお言葉が聞けた場合は絶対に断らず、快くお願いするようにとも仰っておりました。皆さんを見た時、本当にお綺麗で神様にも造詣が深いお話しもされていましたので、楓様が仰る通り『巫女舞のエキスパート』なんだなと思いました。これで地味だった例祭も華やかになります。是非宜しくお願い致します。」
『・・・しっ・・・しまった~』
松宮禰宜を一瞬だけ見てから正面に座る麗香と寛美に開いた眼のまま視線を移し、口を開けるが声が出ずそのまま下を向いてしまう。
両手を膝に乗せたまま俯いて動かなくなった雫に麗香が声を掛ける。
「だから『止めておきなよ』って言ったのよ。続けるから巫女舞やりたいのかと思ったわ。」
麗香の言葉に顔を上げる雫に美鈴も声を掛ける。
「雫さんってさあ、凄く頭良いのに素直過ぎるって言うか、何って言うのかな・・・」
『駆け引きが下手よね~』
美鈴の言葉に合わせるように麗香と寛美、忍までもが同じ言葉を告げた。
皆で笑い合うと麗香が続ける。
「相手はあの秋月楓よ。雫や私達ふぜいが太刀打ち出来る訳無いでしょ。でもまあ私も嫌いじゃないからいいわ。寛美や忍ちゃんは槍穂神社で巫女の恰好したでしょ。私も着てみたいもの。ところで神主様、ここの例祭は何時行われるんですか?今年の十五夜とか、あまり期間が短いとこちらも準備が整わないと思うんですけど。」
「中秋の名月、十五夜様は氏子の方達だけで粛々と行います。箱根では箱根神社の例大祭が斎行される八月一日に合わせて芦ノ湖夏まつりウィークとされる七月三十一日からの一週間に大勢の観光客が来られます。当神社もあやかって八月第一週の新月に合わせて行う様になりましたので今年は終了致しました。来年の夏にお願い致します。」
禰宜の言葉に忍は寛美を見て微笑み話し出す。
「大神祭の後なら一度経験済みですから気分的にも安心出来ますね。皆さんと御一緒なら頼もしいですし。」
沈黙したままの雫をちらちら見ながら忍が話すのを聞くと松宮は一層明るい顔になり応える。
「通常の巫女舞は二人ですけど六人で舞っていただけるなんてこの神社始まって以来の盛大なお祭りが出来そうです。宜しくお願い致します。そろそろ宮司も用意が出来たと思います。足を崩してお待ちください。」
松宮禰宜は言うと玄関を出て拝殿に向う。
縁側越しに後ろ姿を眺めると皆で顔を合わす。
「・・・六人?ああ、由衣ちゃんもカウントされているのか。じゃあ由衣ちゃんも宜しくね。」
麗香が声を掛け、困惑すると思って皆が由衣を見る。
「はい!お仲間に入れて光栄です。私も巫女の恰好してみたかったんです。お正月のバイトではなくきちんとした神事のお手伝いが出来るんですよね。是非ご一緒させてください。」
麗香と寛美は目を見開いて顔を合わせると雫を見る。
「あ・・・はい。こちらこそ・・・お願いします・・・」
ぼそぼそ応える雫を見て、寛美と麗香、忍は大笑いをした。
尚も立ち直らない雫に隣の忍が声を掛ける。
「雫さんって、歌も踊りも上手だった記憶があるんですけど、人前で踊る事に抵抗があるんですか?高等部に入って新入生歓迎会の時に見た、お三方の歌と踊りはプロかと思うほどクオリティー高かったのを覚えています。私、秘かに憧れて見ていました。」
目の前にいる寛美に応えて貰えるように正面を向いて言い終わる。
寛美は察して忍に微笑むとゆっくり話し出す。
「ありがとう。忍ちゃん大丈夫よ。雫が拗ねているのは踊りたくないとかじゃなくて、楓さんを出し抜こうとしたのに完全に先を読まれた事に対してだから。でもね、雫って本当に素直で心が優しいから分かり易いのよ。その割に不思議と騙されたりはしないけどね。ただ、今回は多分雫以外は薄々気付いて麗香が止めに入ったのに断行したのは雫だけが楓さんの暗示、魔術に掛かったという事よ。結果として禰宜さんも喜んでくれたじゃない。それに、麗香や由衣ちゃんもやる気になっているし。ね。雫を責める人は一人もいないからそろそろ機嫌直しなさい。」
優しく微笑む寛美に促されてふくれっ面のまま雫は話し出す。
「は~い。今思えば当然の成り行きって分かってはいるけど何か悔しいのよね。それにしても・・・『巫女舞のエキスパート』って・・・どこかで諍わないと、きっと色々な神社に派遣されて巫女舞興行させられるわよ。寛美が言う様にそれで喜んで貰える人がいるなら嬉しい事だけどさ。」
二人の会話を微笑ましく見ていた麗香も加わる。
「はい。それじゃこの件は終了ね。まだレッスンも受けていないのに依頼が来るんだからこれからが大切よ。それに雫は本番になるとシャーマン気質が開花して忍ちゃんが褒めてくれたみたいに出来るんだからさ。さあ、宮司さんも来るみたいだし、本題に戻るよ。」
麗香の言葉に合わせるように拝殿から禰宜の松宮を先頭に紫色の袴に朱い狩衣を纏った神職と上下白い狩衣の中年男性と同じ装束の女性二人で長く大きな木箱を持って社務所に向って来た。
縁側越しに様子を見ていた雫達はそれぞれ顔を合わせると座り直す。
玄関の戸が開くと狩衣の神職が入り、続いて禰宜の松宮と白狩衣の二人が丁寧に木箱を縦に持ち広間に進む。
神職は皆に頭を下げると床の間の脇にある押入れから白木の枕木を出すと畳の上に並べる。
枕木の上に静かに木箱を置き終わると狩衣の神職達は気箱の前に並び正座すると改めて頭を下げた。
雫達も正対してお辞儀をする。
「この度は遠路にも拘わらず足を運んで下さりありがとうございます。秋月楓先生よりこの御神具をお渡しするよう申し付かり朝から御祈祷を行っておりました。遅くなり申し訳ありません。宮司を務めております松宮兼明と申します。横におるのが妻の小夜、禰宜の彩香はご紹介済みですね。もう一方は氏子長を務めて頂いています貴島憲明でございます。」
雫達はまたお辞儀をすると顔を合わせてから麗香が代表して挨拶をする。
「宮司様。ご丁寧な挨拶恐れ入ります。私は青嵐学院大学の学生で、森澤麗香と申します。座卓向いが神崎雫、その隣が楓さんの弟子の深山忍、私の後ろにいるのが水橋寛美です。後は必要であれば御紹介致しますが、差し詰めこの度の件、楓さんから伺っていらっしゃる内容をお教え願いますか。」
麗香の挨拶に宮司は満足気に微笑むと頷き「畏まるのはここまでにいたしましょう。皆様脚を御崩し頂いて話しましょう。」と言い先に胡坐を掻く。
麗香達も習って足を崩して次の言葉を待った。
「禰宜から聞いたところ来年の例祭では快く待って頂けるとの事。誠にありがとうございます。何でも神事や神様にはとりわけお詳しいとの事。流石は楓様が託された方々ですね。皆様は先を急がれていると思いますので、早速本題に入りましょう。」
宮司が言うと禰宜の彩香と氏子長の貴島が木箱を開ける。