外洋の海神
さざ波の中、水平線に薄く光が浮かび上がって来た。背に当たっていた山からの風が和らぎ、耳に届く音が波だけになる。
同じ光景を見ようと幾人かの人影が砂浜に見えた。
一時の凪。
低く浮かんでいた細い雲が流れ、海と空には何も無くなった。
遠くで歓声が上がり空と海の狭間にオレンジ色の帯が広がる。
刻々と色が変化し強く赤い光が差したと思うと円形の輝きが水面から立ち昇って来た。
暗がりの砂浜に色彩豊かな光景が浮かび上がる。
顔に風が当り潮の香りが強くなって来た。
「・・・い~い朝陽だったな・・・また男達と見てしまった・・・雫さん達早く来ないかな~」
聡史が隠す気もなく大きな声で浮かんで来た太陽に言い放った。
「お前が皆で朝陽見ようって言ったんだろうがよ。それじゃさ、予定通りゴミ拾いに行こうぜ。翔、ビニール袋くれよ。」
慎也が聡史に呆れながら翔からごみ袋を受け取る。
翔は聡史にも渡し、波打ち際に向って行く。周囲を見ると同じく朝日を眺めていた人達も地元ボラアンティアが用意した袋を受け取り浜辺の清掃を開始していた。
「おはよう~あなた達も浜辺の清掃に来てくれたの?」
後ろからハキハキとした声が響き三人揃って振り返る。
「沙紀さ~ん。おはようございます。あ、シェフさんも昨日はごちそうさまでした。」
聡史が大声で挨拶をする。
翔と慎也もお辞儀をした。
「沙紀さん達って毎朝浜辺の清掃に参加しているんですか?自分達は管理人さんからライフガードやボランティアがやっているって聞いたんで滞在中くらいはお世話になる浜辺の役に立つ事しようって・・・まあ、綺麗な朝陽を拝みたかったんですけどね。」
聡史が嬉しそうにしゃべり倒す。
「私達はここで仕事をさせて頂いているからね。雨以外の日は何時もこの土地の神様に感謝しながらやっているのよ。店舗前の清掃は仕事の基本だからね。それに朝日を浴びて掃除していると、この浜の神様に毎朝お会い出来ている気がして気持ちいいのよ。」
翔が空に舞っている鳶を眺めながら微笑んで頷く。
「沙紀さんって、信心深いんですね。自分も実際の神様を最近見たばかりなんで共感出来ます。でかい蛇の神様で、大雨降らしながらやって来るのが玉に瑕なんですけどね。」
翔の顔を見ながら聡史が言う。
「そうなの?私は哲也君と初めて会った時に大きな鳥の神様見てから考えが変わったな。あと、薄い記憶の中に・・・天女様に励まされた気がする・・・綺麗な少女の姿の女神様・・・あなた達とはこういう話が普通に出来て嬉しいな。」
沙紀は夫のシェフと笑い合ってから手を振って別の場所から清掃作業を始めて行った。
「ぅおし!気合い入れて掃除するぞ・・・って、この砂浜異常な程綺麗じゃね。毎日掃除しているからかな?昨日嵐があったのに漂着物一つ無いんだな。先行の人達が片付けて行ったのか。まあいいや。今以上に綺麗にしようぜ。」
聡史が気合を入れてごみを探しに走り出して行った。
「・・・お前が砂浜蹴散らして汚してるんだよ。でも本当に綺麗だな。横浜も砂浜はあるけど海藻とか、ビニール片は良く見るもんな。でも、ここにはそんなに打ち上げられていない。まあ、一つずつ拾って行こうぜ。」
慎也が呟きながら小さいビニール片や細かい海藻を拾い上げて行く。
翔は微笑むと二人とは反対方向に進みながらゴミ拾いを始める。
波打ち際に円形の大きなクラゲの様な物が打ち上がっているのを見つけ手を出そうとした瞬間、何か大きな吸盤に見えて手を止める。ゴミ袋とは別にもう一枚の袋を取り出し直接触らない様に掬い取った。吸盤の大きさは直径20センチメートル。大きな鉤爪が牙の様に並び何本かの鉤爪は他よりも倍以上の長さがあり、細胞が生きているかのように小刻みに蠢いている。
「ダイオウイカの吸盤かな・・・こんなに大きいのか?他にもあるのかな・・・」
突然大きな歓声が上がった。
翔は振り返って声のする方を見る。沖を指差す人影が多数あるのを見て目を向けた。
白く大きな鯨の周りに黒い鯨・・・鯱の群れが取り囲んでいた。
「翔!おい、翔。あれって鯱だよな。鯨を襲っているのか?鯱ってこの海域に入って来る事あるのかよ。それに何だあの大きな鯨は。鯨・・・だよな。あんなの日本周辺にいるのか?小説の白鯨みたいだな。」
慎也が駆け寄って来た。
慎也の声に頷いて右手を挙げて応えると、翔は沖をもう一度見る。
鯨と目が合ったような気がした。左肩・・・肩甲骨が疼く。
『・・・』
脳に直接響いて来た。
「・・・分かったよ。これから姉ちゃん達が来るから対策を考える。どこかで会おう・・・うん、
滄海原岬。準備が出来たら・・・了解した。」
独り言を呟く翔の姿を慎也は黙って聞いていた。
翔の呟きに呼応するように白い鯨は潮を噴き上げると鯱の群れを従えて海中に潜って行く。再び歓声が上がり浜辺の人達は興奮して話し出した。
聡史が慌てて駆け込むと翔に聞く。
「おい・・・またか?またなのか!槍穂岳や巳葺山が終わったと思ったら・・・昨日の嵐といい、公園の神域といい・・・お前は怪奇大将軍にでもなったのかよ。因みに守護精霊さんは何だって?」
翔は沖を眺めながら両手を腰に当て昇る太陽を追いながら、目を細めて見ている。
「ああ、まただ。一応話はしたから、あの神とはまた会う事になる。幾つかの要点は聞かされたよ。お陰で昨日の神様のお告げの意味が何となく分かって来た・・・ような気がする。忍さんや寛美さんがここにやって来る事の意味も含めてな。なあ、済世寺の住職って特殊な矢を造る矢師だって矢崎さんが言っていたよな。それで由良ちゃんがあの神域にいたのかも・・・実際には何が起こっているのか分からないけど・・・それで昨日の刈谷さんが協力要請を本家に、哲さんに出したんだな。美幸さんが来る事も知っていたし・・・聡史と慎也は今日横浜に帰れよ。巳葺山の時よりも大掛かりな、結構ヤバい事になりそうだぞ。」
聡史と慎也は顔を合わすと、ニヤニヤと同じ顔をしてから聡史が応える。
「お前は本当に考え無しの馬鹿ちんだな。こんな面白・・・壮大で重大な事件が起きそうな所にお前一人置いて行けるかよ。俺達は親友だろ。最後まで一緒にいるから俺達の安全はお前の守護精霊さんに約束しといてくれよな。それにお前と会話したって事は、あの鯨と鯱の群れは味方だよな。あんなどでかい神様が艦隊組んで味方なら巳葺山より楽しめ・・・安心出来そうじゃないか。大体よ~女神様お三方に忍さん、美幸さんが来られる日に帰ってどうするんだよ。今の神様にまた会えるなら雫さん達にホエールウォッチングをプレゼント出来そうじゃないかよ。俺達追い出して、またお前だけ独り占めすんじゃねーよ。」
言い終わると二人は腕を組んでスキップしながら掃除の続きをする。
翔は姿勢を変えず、沖を眺めたまま呟く。
「考え無しの馬鹿ちんはお前達だ。本音駄々洩れしやがって。もうどうなっても知らないからな・・・まあ、哲さんや美幸さんも来るし、姉ちゃんが霽ちゃんも連れてやって来るだろうから・・・姉ちゃんって何が起こっているのか知ってるのかな。それに美鈴や麗香さんも、しゃもじが守ってくれるんだろうし、まあ何とかなるか・・・なあ?」
翔の問いに左肩が動く。
「ああ~あ~」とため息を付き、翔も掃除の続きを始めた。
『・・・怪奇大将軍ってなんだよ・・・ホエールウォッチング・・・神様相手にどういう発想してるんだ・・・』
聡史のネーミングとその思考に一人ニヤ付きながら少ないゴミを見付けては拾う。
一時間程浜の清掃を行った人達は、ごみ袋を受け取るボランティアの所に集まっていた。
各々沖に見えた鯨の話しで持ちきりになる。
不思議な事に誰のスマホ、カメラにも明確な映像も、動画も残っていなかった。
『遠かったからね』『おかしいな。撮れた時は鮮明な画像だったのに・・・』と語り合っていた。
「翔君!君達も見た?あれさあ、海の神様だよね。あんなに綺麗な白くて大きい鯨なんかここじゃ見た事無いし、鯱を従えているのね。感動した~うちの人も初めて神様見たって興奮しているわよ。」
三人分のゴミを一纏めにして袋をボランティアに渡していた翔を見付けた沙紀が笑顔で駆け寄って来た。
「ええ・・・外洋の神様だそうですよ。ちょっとだけ会話しました・・・沙紀さん、昨日の嵐の前後に何か変わった事ってありましたか?」
「え、翔君も哲也君みたいな能力持っているの?会話って・・・昨日の嵐の前、海からなのか空からなのか分からないけど、こう・・・頭の中に何て言うのかな。チューバ!低音域の管楽器だけど。その楽器の音みたいなサイレンのような音が十分位鳴り響いて、私達はお店の準備中だったんだけど若いアルバイトの子が二人、変な声が聞こえるって言って倒れちゃったの。少し控室で寝かせていたんだけど、うなされ始めたから救急車呼ぼうか、病院に連れて行こうかと考えて、救急の電話したんだけど同じ症状の人が多数出て車両が直ぐに回せないって言われてね、どうしようか考えている内に雨が降り始めたの。お昼ごろから急に嵐になってお客さんも外に出れなくなったんで、雨宿りして貰いながらお店を一時閉めて病院に連れて行く準備していたら大きな雷が鳴り続けて凄い風が海から吹き付けて来たのよ。そうしたら二人共ケロッとして普通に歩けるようになったの。嵐が止んだらすっかり元気になっていたわ。一人は~ほら、聡史君にチュロス持って来た女の子よ・・・それくらいかな。お客さんにも同じように具合が悪かったって言ってた人が何人かいて、サイレンのせいかなって話していたのね。皆、あの重低音は聞こえていたみたいだから・・・そうか~神様と会話していたんだ。今回は私には聞こえなかったな。なんてお話ししたの?」
沙紀が翔を見上げながら興味津々に聞いて来た。
「あっ・・・いや・・・その、外洋の神だって言ってたのは理解出来て返事したんですけど、何しろ英語、スペイン語かな~外国の言葉で一方的に話して来たんで分からないから理解出来る人に聞いてみてって、つたない英語で返事しました・・・OKって言ってたのだけ分かりましたよ。」
翔が引きつる笑顔で応えると、沙紀は笑い出す。
「それはそうよね。海を渡っていたんなら日本の神様とは限らないもんね。でも神様には違いないんでしょ。嬉しいな~哲也君も今日来るって言ってたわよね。是非連れて来て。皆でいろいろとお話ししたいな。」
沙紀もゴミ袋をボランティアに渡すと笑顔のまま手を振ってシェフの下に走って行った。
「お前さあ・・・嘘が下手にも程ってものがあるぞ。まあ、俺達が普通の高校生レベルと思われていたから良かったけどさ。うちの学校って英語もスペイン語も中学時代にマスター済みだろが。それに沙紀さんってスペインで料理の修行をしていたって聞いただろ。『どんなフレーズだった?』って聞かれたらどうするつもりだったんだよ。だいたいさ、お前モロ日本語で応えていただろ。滄海原岬ってどこだよ。宿に戻ったら内容を全部開示しろよな。」
慎也が腕を組んで仁王立ちになり、聡史と並んで呆れ顔で翔に話す。
翔がもう一つの袋を二人の前に差し出した。
「こいつが何かを正確に掴む必要がある。多分ダイオウイカの吸盤だと思うんだけど大きさがあまりにも違う。まだ末梢神経が独立して生きているみたいで吸盤だけのくせに収縮が確認出来るんだ。寛美さんも来るし、刈谷さんが来て警察の研究施設で分析して貰えば何かが分かるかも知れない。場合によっては俺達が姉ちゃん達に何かを伝えられるようにしなければならないかもしれないから、朝飯喰いながら今後の事を考えよう。夕べの対策は変更しないといけないぜ。」
翔の答えに聡史達は満足げに頷き浜焼きが始まっている店に歩いて行く。
浜焼きを出しているのは代縺漁港直営の海の家だった。
翔は店頭に発砲スチロール製の保温ボックスがありドライアイスと一緒に売っているのを見掛け、手に持っていた袋が入るサイズのボックスを購入し、ドライアイスを入れて貰いガムテープで蓋を閉じた。
食事の仕方を聞いた聡史を先頭に白飯の丼ぶりを受け取り、店頭に並べてある魚介類や干物を選んで会計に行く。
支払いを済ますと、店頭にいた男性が近付き聡史達に話す。
「お兄ちゃん達って朝の掃除手伝ってくれた人だよな。若いのにありがとうよ。これ、サービスだ。」
言うと、三人にそれぞれ鰺のなめろうを盛り合わせてくれた。
『ありがとうございます。頂きます。』
三人揃って頭を下げる。
短髪に手拭を撒き、日焼けした顔から綺麗な白い歯を見せて男性は手を振って店の奥に歩いて行った。
「本当にこの土地の人達って尊敬するよな。沙紀さんが言っていたみたいに、やっぱり浜の神様が見ていてくれたのかも。有難く頂こうぜ。」
聡史が感動して言うのを翔と慎也は激しく同意して浜焼きのグリルへ歩いて行く。
支払い済みのカードを見せると係の人から「八番の釜を使って」と言われ、先程と同じく「清掃手伝ってくれた子達だよな」と言い、あら汁を御椀に入れて渡された。
「もうだめだ。何か大きな感謝をしないときっと天罰喰らう。飯食ったら砂浜の蜻蛉掛けでもする?」
「あほ!砂浜均したら景観駄々下がりだろ。でもさ、掃除手伝っただけなのにこのご褒美。本当にこの浜に感謝を捧げないと罰当たるよな。横浜帰ったらここの良さをSNSで拡散しよう。綺麗な写真とか沢山撮ってさ、沙紀さんの店とかも載せていいか聞いてみようぜ。」
聡史と慎也が楽しそうに話すのを笑顔で見ていた翔は炭の過熱具合を見て「そろそろ網の上に置いても良さそうだ」といい、金目鯛の干物を乗せる。
「あ、お前主役から食うって事か。昨日も金目鯛食ったくせに贅沢だな。」
聡史が言い自分は大きな蛤を二つ乗せる。
「このなめろう、醤油は少しだけ・・・なめろうって味付いてるんだっけ?」
慎也が聞くのを翔が応える。
「なめろうって、発祥は千葉らしいんだけど今や全国区になっているみたいだな。これは多分、鰺を細かく切ってからネギと普通入れる生姜じゃなくって、ニンニクで臭みを消して味噌と醤油で味付けしていると思うよ。まあ、哲さんから前に聞いたこの浜のなめろうの作り方なんだけどさ。味付けは好みだけど、このままでも十分味ついていて旨いと思うよ。」
横で聞いていた聡史が、慎也よりも先に口に入れる。
「ああ、翔の言う通りだ。嫌味なくニンニクの香りがする。これをさ、掃除しただけのご褒美にくれるって、どれだけ太っ腹なんだよ。これだけでご飯全部行けるぜ。本当に何かお礼したいな。」
芳ばしい香りが他の釜からも上がり始める。
目の前の網では蓋を開けた蛤に聡史が醤油を垂らす。慎也はキビナゴの串をひっくり返し、塩をかけた。翔も金目鯛を返すと香りを嗅ぐ。
最初の具材がそれぞれ焼き上がると次を乗せ、黙々と口に運ぶ。
「うお!このあら汁なんだこれ。俺さ、本当はあら汁って苦手だったんだよ。何となく生臭いって言うか、骨が多いとかでさ。骨は仕方ないとして今まで飲んで来た汁物の中で一番美味いんじゃないかな。」
「うお・・・って駄洒落か?大げさな。でも本当に美味いな。実はさ、あら汁も頼もうかどうか考えていたんだけど無料で頂けるなんて本当に最高だ。」
慎也に聡史が被せるとその後は誰もしゃべらず完食した。
食器を所定の返却口に返し、三人揃って「美味しかったです。御馳走様でした。」と言うと、店の人達は手を振って応えた。
「あのさ、黙々と飯食い終わったけど、今後の事考えるんじゃなかったのか?」
慎也が呟き聡史が笑いながら応える。
「これだけ心温まるサービスと、最高な食材の朝飯を食いながら他の事を考えるなんて罰当たりだろ。目の前のご飯に精神を集中しながら一口一口感謝しながら食事をする以外に俺達が応える方法は無かったんだから。」
聡史の言葉には翔も慎也も同意した。
「確かにな。本当に昨日から感謝しなければならない事の連続だ。まあ、宿に戻ってから話し合おう。そろそろ姉ちゃんも起きる頃だし・・・姉ちゃんこの時間に一人で起きられるのかな?ああ、忍さんが迎えに来るって言ってたかな。出る時に電話くれる事になっているし、実際にここに到着するのは昼過ぎだろうからまだ時間がある。少し落ち着いてから話し合おうぜ。」
浜から階段を上る。バスロータリーの時計は六時十二分を指していた。