雑音の除去と過去の症例
「雫!鍵も掛けないで。裸でこんな所で寝ていたら襲われるよ。」
言われた雫は目を開けると麗香が笑ってシーツを掛けてくれるところだった。
「・・・え・・・あれ。麗香。」
今朝、修理が終わった緑色のトヨタパッソにご機嫌で乗り、翔に自分の着替えも持たせ聡史を迎えに行き、二人を『青嵐学院大学』駅に送り届けた。
そこから一人で帰って来てからの記憶が曖昧になっている。
家に戻ってからシャワーを浴び・・・
バスタオルを巻いただけでリビングのソファーで崩れるように眠っていたのだった。
時計を見ると昼の12時を迎えるところだった。
「嘘・・・三時間も寝てた・・・何で?」
「何で?じゃないよ。夏だからってエアコン付けっ放しで可愛いお尻出してーそんな恰好で寝てたら風邪ひくよ。何度電話しても出ないと思って来てみれば。この前の事もあるんだから、あんまり心配させないでよね。」
森澤麗香はウェーブの入ったアッシュグレーのロングヘアーにミントカラーのゆったりとしたパフ袖のブラウスと涼し気なライトベージュの丈の長いフレアスカートを履き、屈託のない笑みを見せて雫に首からシーツを掛ける。
雫は両手でシーツを手繰りソファーに座り直した。
麗香はキッチンに行って麦茶の入ったグラスを二つ持ってくる。
「はい。これ飲んで落ち着きなさい。」
受け取って口に運ぶ。焙煎した麦の香が鼻孔を伝い冷えた液体が喉を潤す。
「ありがとう・・・朝、翔達を駅まで送ってからシャワー浴びてそのまま寝たみたい。最近は良く寝てたんだけどなぁ。」
麗香も一口飲み雫の額に手を当て、熱を診るが異常がないので話し出す。
「雫はいつも良く寝てるでしょ。寝てたんなら普通の事だけどさ、昨日美鈴から改めて聞いたけど、不思議な体験をしたのね。私も実物の『精霊』見たし、実際家には『しゃもじ』住んでるから疑いようも無いんだけどね。寛美も普通の事としているし、あと巫女舞の件もね。お盆も終わって、そろそろ落ち着いた頃かなと思って話しを最初から聞きたかったのよ。」
「・・・うん・・・」と言って雫は頭を抑える。
頭の中に幾つもの雑音が混じる。
『誰か・・・呼んでいる・・・何だろう・・・何が浮かび上がってくるの?』
遠く、何処か遠くからごぼごぼと濁った音声が頭の中に不定期に流れ込んで来た。
「どうしたの・・・大丈夫?」
麗香が雫の肩を優しく揺らしながら顔を覗き込む。
不意にインターフォンが鳴った。間隔を空けもう一度鳴った後でドアが開く音がした。
麗香が立ち上がり玄関に向かうと開いたドアを抑えているショートカットで白いシャーリングブラウスと細身のデニムを履いている清楚な少女が立っていた。
身長は雫より少し高く感じるが、麗香ほどの高さは無い。
寛美と同じくらい、164センチメートルで姿勢が良く、整った顔立ちの中に強い意志を秘めた瞳で麗香を見詰めていた。
「えっと・・・翔君のお友達かな?今、彼はいないんだけど・・・」
麗香が話すと少女は何かを理解したように微笑んで話し出す。
「初めまして深山忍です。雫さんはいらっしゃいますよね。」
名前を聞いて理解する。明日から一緒に伊豆に向かうメンバーの一人に深山忍がいた。
「あなたが忍さんね。初めまして森澤麗香よ。美鈴がお世話になりました。さ、入って。」
麗香は笑って忍を向かい入れ、居間へ通した。
雫はソファーに座ったまま頭を押さえている。忍が近寄り膝を落として雫を見上げた。
「雫さん。雑音がしますよね。楓さんから言われてやって来ました。抑える方法をお伝えします。一緒にやりましょう。」
麗香は二人のやり取りを静観してダイニングテーブルに行き椅子に腰かけた。
「えっ・・・ちょっと待って。着替えてくるから・・・」
雫は言うがふらついて歩けない。
麗香が立ち上がり「私達しかいないんだからさ、そのままやりなよ」と言って、丁寧にシーツの裾を伸ばしソファーに座り直させる。
麗香の助けもあり雫はバスタオルの上からシーツを巻き直し、両肩を出して忍の前に座った。
二人の様子を見て忍は微笑むと雫の前のローテーブルを少しずらし、改めてラグカーッペットの上に膝を付いて座る。
ソファーの上にクッションを置き、その上に乗って胡坐を掻いて座るよう促した。
雫が座ったのを確認すると両手を取り微笑んで言う。
「本来は座禅の要領で結跏趺坐になるのが望ましいんですけど修行する訳ではないのでこのままでいきましょう。」
忍は手に取っていた雫の掌を上に向け膝の上に乗せる。
「頭と、この掌を線で結んで四面体を想像して下さい。目を閉じた方がやりやすいかもしれません。三角錐みたいなイメージです。次に呼吸ですが、ゆっくり鼻から吸って一度止めてください。それからゆっくり、今度は口から吐いて下さい。これを繰り返します。呼吸が慣れてきたら頭から垂直に一本の柱をイメージ出来ますか?胡坐の状態ですから股の間に落とす感じになりますよね。柱はペンより少し太いくらいで白い方が分かりやすいと思います。地面へ向かって紐を垂らす様なイメージでも大丈夫です。」
雫は言われるがままに目を薄く閉じ、立体と柱をイメージした。
呼吸を整え意識を息の給排出の連続にのみ集中すると雑音が消える。
「完璧です。そのまま維持して、頭の中にある雑音を整理して一つずつそれぞれの球体に分けられますか?様々な色になる筈ですけど・・・」
言われた通り、頭の中に蠢いていた雑音を一つ一つ振り分け球体にしていった。
「はい。その球体を一つずつ柱の周りを回しながら下へ降ろして下さい。回す方向はどちらでも構わないのですが全て同じ方向に合わせて下さい。ゆっくりで大丈夫です。下まで行ったら同じ方向に回しながら今度は上に上げて行くと思念の球体が螺旋を描くと思います。頭に戻った思念の球体で明らかに必要ないと思うものはもう一度下へ下げ今度はそのまま地面へ落としていきます・・・そうです。必要なものは柱の周りをそれぞれの軌道で回します。柱から糸を結び付けて枝の様にって言うと分かりますか?はい・・・それでいいです。情報を受け取りたい時はその糸、枝から球体を取り分ける事で周波数が合います。最後に枝を伸ばしたまま柱を少しずつ回転させて頭に戻して行きます。頭の中に入った柱から思念を取り出す方法は今度楓さんから直接学んでください・・・どうですか?体の怠さ抜けましたか?」
忍に言われ目を開ける。頭がスッキリして先程までの怠く眠たい感覚が無くなった。
「あ・・・スッキリした。忍ちゃんありがとう。でも何で分かったの?」
忍は笑顔で雫に応えると麗香に頷く。
「元気になったのならさ、昼間から一人だけセクシーな格好してないで取り敢えず着替えて来なよ。」
忍に促された麗香が笑顔で雫に言うと雫は両手を広げ身体を振ってシーツをはためかしながら自分の部屋に服を着に行った。
ライトブルーで緩い半袖のティアードスカートのワンピースを着て居間に戻って来るとテーブルを挟み麗香と忍が楽しそうに話をしていた。
「お待たせ・・・ってここは誰の家なのよ。」
ダイニングテーブルの上には茶菓子と麦茶の入ったボトルが置かれ冷蔵庫にあった焼きプリンと氷の入ったグラスが三つずつ置いてある。
「雫も食べるでしょ?ちゃんと三人分用意したよ。」
「・・・うん、ありがとう。まあいいや私の為に来てくれたんだもんね。」
雫は忍の隣に腰掛け麗香から麦茶を注がれる。
二人共ショートカットで端正な顔立ちをしている。違うのは、雫は内巻きのワンカールが入っている程度であり、二人共潤った黒髪が輝いていた。
「寛美も言ってたけど姉妹に見えるね。美鈴が忍ちゃんにヤキモチ焼くのも分かるわ。あの子ね、頑なに『忍ちゃん』とか『忍さん』って言わないのよ。『深山先輩』だって。翔君取られるって思ってライバル視してるのかもね。」
「ふ~ん。でもさ、肝心の翔がおバカだからな~聡史君の惚れっぽい性格半分貰えばいいのにね。あの二人、足して二で割るくらいでちょうどいいよね。」
雫がチャチャ入れるのを麗香が応える。
「雫もよ。あんたモテるのに言い寄る男をさらっと受け流すでしょ。自分に好意持ってくれるのを『ありがとう』って言って友達認定しちゃうの止めなよね。結構彼等も傷ついていたりするのよ。あと、変な誤解されても困るでしょ。」
「え~そう?普通に嬉しいだけだけどな~」
言われた雫が笑いながらグラスを口に付けようとしたところで電話が鳴る。
席を立って受話器を取ると母親の声がした。
「ああ、お母さん・・・うん?携帯・・・ああ、ちょっと具合悪くって・・・今、麗香と忍ちゃんが来てくれて・・・うん。大丈夫。それで?・・・そう、お母さんこそ大丈夫?・・・うん・・・え~そうなの・・・分かった。こっちは大丈夫だから・・・うん。じゃあね。」
戻ると二人が雫を見る。
「お母さんから。今朝から小児医科と心療内科や精神科の患者さんが倦怠感や情緒不安定を訴える症状が多発して人手が足りないんだって。昨夜は夜勤だったからそろそろ帰る筈だったんだけどもう少し手伝うって言ってた。楓さんも病院に来てくれたんで挨拶したって。裕子先生も朝から忙しかったみたいよ。たださあ、楓さんが入院してた子供達全員完治させちゃったんだって。アレルギーで熱出てた子とか骨折してた子とかもだって~」
雫は言いスマホを探す。麗香と忍、母親からの着信が多数あるのを見て苦笑した。
裕子先生とは青嵐学院大学附属病院の小児医科で課長を務めている忍の母親の事である。
「はい。父の要請で楓さんが病院に向かいました。それで、雫さんの様子を見るようにって楓さんから言われたんです。それにしても全員治しちゃうって・・・楓さんらしいですね。子供に対しては特に優しい人ですから。私も救われた人間の一人ですし。」
「その『楓さん』って何やってる人なの?美鈴も『分からないけど小柄で綺麗な人』くらいにしか理解出来てないし、写メ見ても確かに綺麗な人だけど年下の女の子に見えるのよね。寛美はお爺さんの代からお世話になっている人って言ってたけどさ。」
麗香が聞く。
大学の研修旅行でアメリカに滞在中、親友の水橋寛美から連絡を受け急遽研修を一人だけキャンセルして帰国した。
その理由は、雫の弟の翔と仲村聡史の二人が槍穂岳の登山に向い途中で殺人事件に巻き込まれ、捜索活動に向った警察や雫達も被害に遭ったと聞いた為で、連絡を受けた時には事態は終結し、結果として皆無事であったがその事件解決の中心にいたのが『秋月楓』という人物であったと聞かされている。
その事件は後に『隕石の衝突による事故』と公式発表されていた。
「楓さんは~鍼灸師よ。東洋医心研究所のね。それで、忍ちゃんの御師匠様でこれからは私や翔の先生にもなる人。ね。」
雫は横にいる忍に微笑む。
雫に微笑み返すと忍は麗香に話し出した。
「翔君達の巳葺山での出来事は雫さんに先立って私が現場にいましたし、翔君とも一緒に行動しましたから詳しく話せますが、内容が複雑で長い話になります。ですから明日からの寛美さんや美鈴さんもいる時に当事者である翔君や聡史君を交えてゆっくり話した方が良いと思うんです。麗香さんのご自宅にいる『しゃもじ』ですが、あの子は美鈴さんが名付け親なのは聞いていますよね。しゃもじはヤマネに見えますけど槍穂岳から巳葺山にかけての山中にいた『山の神』の一柱で、楓さんに協力をお願いしに来ていたんです。精霊の上位にいますから見た目より大きな『力』を持っています。今言えるのは雫さんの家柄、特に雫さんと翔君には飛鳥時代からの深い縁が楓さんや神崎本家にあって・・・そこは私も詳しくは教えて貰っていないんですけど、麗香さんをはじめ一般の人にはあまり馴染みがない神霊と人との繋がりを保つ人物が秋月楓という人だと私は理解しています。」
真っ直ぐに伝わる小気味良い語り口と心地よい声。雫が寛美に似ていると例えた事を実感し、麗香は目の前にいる忍という少女に好感を持った。
目を細め、忍を見ながら麗香が応える。
「うん。分かったわ。あなたが言うのなら全て受け止めて信じる。明日から事の真相を聞けるのを楽しみにしてるね・・・ただね、明日、寛美が起きて来れるのかが問題なのよね。」
麗香の話しに雫が身を乗り出す。
「寛美に何かあったの?」
真剣な表情の雫に両手の掌を前に出して笑顔で応える。
「ああ、大丈夫よ。心配は無いの。まあ、何時もの事と言えばそうなんだけどさ、お父さんが今、中南米に行っているでしょ。お盆にも帰って来なかった代わりに大量のメールを送り付けて来たらしいのよ。それで文献の解析と類似資料の検索とか、古代語の翻訳を頼まれて・・・それで昨日の深夜までっていうか今日の朝まで四日寝ないで仕上げたんだって。多分普通の人なら三カ月は掛かる量だと思うけどさ・・・それで少し寝ようと思ったら話題の楓さんから過去に今起こっている症例があった筈なんだけど何があったか調べて欲しいって連絡入ったらしくて今頃調べてる筈よ。まあ、それ終わってからちょっと寝ればあの子の事だから普通に生活するんだろうけどさ。」
「あの・・・寛美さんのお父さんって、青嵐大の教授ですよね。解析や翻訳って学生の寛美さんがするんですか?」
忍が聞く。当然の疑問である。
「うん。寛美の方が処理能力高いし、間違いないからね。中学くらいから長期休暇があるとやってたよ。学校がある間は断ってたけど。」
椅子に座り直した雫が麦茶を飲みながら極普通の出来事の様に話す。
聞いた忍は目を泳がせて麗香に助けを求める。
「忍ちゃんも弓道部で三年の寛美とは一緒だったんでしょ?あの子のスペシャリティー感じなかった?あの子にとって能力っていう分野のキャパシティは意味をなさないのよ。体力が続く限り同時に数多くの処理をこなせるの。困ったことにスポーツまで完璧にね。」
「はい。私は中学で二年と三年の時個人戦で全国大会優勝出来たんです。高校に進学してから一年生で全国出られると周りからも期待されたんですけど、高校から趣味で始めた寛美さんには全く適わなかったんです。いつも冷静で余裕があって、自分から声を出して指導したりすることは無かったんですけど、相談すれば必ず親身になって教えてくれて、一緒に居ると何か安心出来て、後輩想いで・・・でも、そんなに凄い人だって思っても・・・とても凄い人でしたけど・・・」
「うんうん。」
麗香と雫は自分の事の様に喜んで応える。
「それでさあ、今の症例っていうのは病院で起こっている倦怠感や情緒不安定の事?」
雫が二人に聞いた。
「あんたがまさに該当者でしょう。雫は小児科系に当てはまるのかしらね。」
麗香が笑いながら応える。
「え~じゃあさ、二人共私がこうなると思って来てくれたの?」
「違うよ。今言ったでしょ。私は寛美が忙しくて相手してくれ無さそうだったから直接雫に連絡して暇な女子の会やろうと思ったのよ。私がこの夏暇になったのは雫のせいでもあるんだからさ。どうせ雫だって課題終わらせて自分の研究やろうと思ってたんでしょ?」
麗香が悪戯っぽく雫に言うのを忍が微笑み雫に向いて話始める。
「早朝から私にも不気味な感触と雑音が聞こえていたんです。私はあらかじめ楓さんから制御法を教わっていたので抑えていましたが、当然楓さんも気付いていて電話を頂いていました。9時を過ぎたあたりでしょうか、病院内に複数の入院患者が騒ぎ始めたり、雫さんの様に立てなくなる人が現れたので、出勤して直ぐに母が『特殊症例』として父に連絡したみたいなんです。それで病院に楓さんが呼ばれて、途中で私に雫さんの様子を見て対処するよう指示をされました。」
忍の父親は横浜市役所の市民生活安全課の課長をしている。
所属は横浜市なのだが、主に神奈川県内での『特殊事例』に対応する事を職務とし、通常とは異なる事件や事故、医療の症例に対し市民の安全管理を行う業務を担当している。
「ふ~ん。9時頃からか・・・私も意識が朦朧としてきた頃ね。忍ちゃんも不気味に感じたのね。私は海底・・・だと思うんだけど真っ暗な水の中で蠢く大きな物と、何かを訴えている『声』が入り混じって聞こえていたのよね。今思えば運転中じゃなくて良かったわ。でもさ、それって寛美の考古学とは関係なくない?それに『症例』から調べるんだったら深山さんの仕事にならないのかな~」
雫が誰にという訳でも無しに話した。
「はい。それで今、父が過去の調査報告書を見直しているんですけど楓さんから百年位前で、寛美さんのお爺さんの代に似たような状況があったと思うと言われたので、楓さんの依頼として父が水橋研究室に連絡して、結果として寛美さんが対処する事になったんだと思います。」
忍が応える。
「まあ、水橋研究室って今は学会の準備で大変な事になってるみたいだしね。肝心の教授様は留守してるお陰で井上助教がカリカリしてるって、寛美に槍穂神社の古文書の話聞きに行った時悲壮感漂ってたって、翔も話してたもん・・・それで、寛美は今何所にいるの?」
「多分まだ大学よ。今朝までは家にも帰らないで研究室に住んでたけど、今頃は考古学資料館に籠っているんじゃないかな。あそこのデーターセンターから全学部の資料にアクセスしてると思うな・・・解析や翻訳作業はさ、英語やフランス語ならまだしも、古代語は流石に歯が立たないけど、過去の事件調査なら手伝えるから皆で行ってみようか?」
雫の問いに麗香が応えた。
「いいね~寛美の手伝いなんてそうそう出来るものじゃないし。忍ちゃんも行くでしょ・・・ところでさあ、裕一君は一人でお留守番してるの?一緒に連れて行く?」
裕一とは歳の離れた忍の弟で小学二年生である。
「ああ、大丈夫です。お盆の後、祖母がこっちに来ていて一緒にいてくれていますから。お邪魔でなければご一緒したいです。」
忍も同意したのでテーブルのプリンで乾杯して準備する事となった。