事態の経緯
青嵐学院大学附属病院 南棟2階 会議室 18時17分
「・・・ありがとう。もういいよ。場所だけ貸して貰えばさぁ。」
「まあまあ、楓さん。人払いも必要でしょ。私が全面的に責任を負いますから参加させて下さいよ。この遠山佐門。ここでの会話は棺桶まで持って行きますから。それに今回の症例についての会議でしょ?医院長として知っておく必要あります。あ、時間的にお腹空く頃ですよね。もう直ぐ軽食来ますから食事しながら報告会としましょう。」
考古学総合資料館での調査が終わり、雫達が収集した内容を楓に報告する場所を求め、楓が附属病院の会議室を借りる提案をして医院長の遠山に承諾を求めると二つ返事で許可が出て、わざわざ案内に医院長が出向いて来て居座ってしまったのである。
「その後、患者さん達はどう?治療した子達には同じ影響が及ばない様にはしておいたけど、他の病院とかは?」
楓が現状を遠山に聞くと、医院長は嬉しそうに応える。
「はい。お陰様で、うちでお預かりしている患者様に異変はありません。小児医科なんかは元気になり過ぎて病室でじっとしていられない子達が遊び回って別の意味で看護師さんが苦労しています。ただ、他の病院では一時の騒ぎは落ち着いたものの異常なほど怯える患者さんが多数あると報告は受けています。専門外になりますが、私もこんな症例群は体験ありません。担当医の伊原先生に状況を調べて貰っている所です。」
大きな会議テーブルには椅子が片側に六脚ずつ置かれている。
遠山は窓際一番右側の上座の椅子を引き楓に座るよう促す。
楓は両手をだらりと下げ肩を左右に振りながら歩き、黙って座った。
医院長は更に部屋の隅に置かれていた控えの椅子を持って来て楓の横、短辺側に議長席を作りそこに座る。体格からは考えられない軽やかな身のこなしで遠山は進行役をやる気満々であった。
「さあ、皆さんもお座りください。早速始めましょう。」
医院長が言い、楓の反対側に深山と浅井が座り、楓の隣に雫、寛美、麗香の順で座る。忍は浅井の隣に動こうとするのを遠山が麗香の隣に座るよう促す。忍が目を泳がすのを麗香が微笑んで手招きした。
ドアをノックする音がして浅井がドアを開けると伊原と裕子が入室し、別のスタッフが二人、カートを転がして入って来た。
カートから飲み物と食事の包みを開け、テーブルに置いて行く。
「若い人が多いから洋食中心にしましたよ。皆さん重労働していますから病院内とはいえカロリーとか気にせずどんどんお食べ下さい。血糖値下がっちゃいますと頭回らなくなりますからね。足りなかったらお代わり用意しますからね~」
遠山医院長はご機嫌で声を張り、伊原と裕子を座らせる。
テーブルにはコーラと100%のオレンジとアップルのジュース、ウーロン茶のセットが四か所、等間隔で置かれその間にピザと桶に入った寿司が並んだ。
それとは別に各人前に紙のコップと皿が二枚に箸、ナフキンが並べられるとボックスタイプのオードブルが置かれて行った。
「これのどこが軽食なのよ・・・まあ、ありがとう。皆、折角だから頂きましょう。」
楓が言うと皆はボックスを開ける。紙の箱の中には小分けのおつまみが綺麗に並べてあり、カップに入ったチーズソースとバーニャカウダ、キャロットのラペ、カポナータ、サーモンとチーズのガレット、鶏の竜田揚げ、粗挽きウインナー、生ハムのマリネ、シーフードカルパッチョにベイクドポテトがあった。
「凄い・・・なんか今日は一気に生活水準が上がった感じです。」
忍が隣の麗香に囁き、麗香だけでなく寛美や雫も振り向いて微笑んだ。
深山と浅井が立ち上がり、ドリンクを皆に注いで行く。
「温かい物もありますから先に食事にしましょう。落ち着いてからじっくりと情報交換という事で、それではいただきま~す。」
医院長の暴走は止まらなかったが、目の前の御馳走に皆箸を進めて行った。
「さてそろそろ本題に入りましょうか。皆さん概ね食べられましたか?あ、伊原先生、深山先生、ご家族様に残ったもので良かったらお持ち帰りください。ちょっと残業になりますからね。裕一君も食べ盛りでしょ。」
遠山の用意した料理は最初から多過ぎている事は誰もが分かっていたが、医院長はあらかじめ持ち帰り用のトレイまで用意していたのである。
裕子が伊原にトレイを渡し、詰めていく。浅井にも渡して夜食にするよう促した。
一人暮らしの浅井は嬉しそうに頭を下げて受け取り三人がそれぞれ詰めて行く。
そうして全ての料理が概ね片付いたのを見てから深山が不要な物を受け取り分別してゴミ袋に入れていくと、テーブルには新しく置かれた紙コップと飲み物があるだけになった。
「よろしいですか。では、医療状況から報告して頂き、伊原先生はご都合もありますからご退席して頂くのがよろしいかと思いますけど、深山先生はいかがしますか?ご一家でのご出席になりますが・・・」
「はい。私は残らせて頂きます。裕一は母が面倒見てくれていますから大丈夫です。」
話しを聞いて医院長は頷き伊原に対して左手で発言を促した。
「秋月先生、お陰様で当院での患者様に関しては私が担当して以来最も落ち着いた午後を迎えられています。田辺副医院長からも深い感謝をお伝えするよう申し付かっております。それではまず、当医院内での症例を私の担当している心療内科と深山先生の小児医科、他には精神科と神経内科についての異変について時刻を追ってご説明いたします。個別の症状は切りがありませんので出来る限り全体像を、一般的な表現でお伝え致します。始まりは本日八月十七日・・・」
青嵐学院大学附属病院 8月17日 8時12分
入院病棟の小児医科と心療内科、精神科の一部に不安を訴える患者が現れる。
次第に不安を訴える患者数は増し、神経内科の患者も加わり集団ヒステリーの様に同室の患者へ伝播。この症状は、別の多数の部屋でも同時進行していった。心拍数、血圧の上昇を確認。抗不安薬の投与開始。
8時34分
不安を訴えていた患者が錯乱状態に移行。感覚過敏系、気分障害、パーキンソン病の患者に特に症状が現れる。再度、抗不安薬投与。症状の沈静化には繋がらず院内全域に不安、興奮を訴える患者が続出。脳神経内科にも多数発生。
8時54分
症状が現れていた患者が一斉に錯乱状態に移行。9時をピークに倦怠感を訴える患者が増え、次第に認知機能障害と診断出来る症状に発展。特殊症例と断定し、横浜市役所市民生活安全課へ通報。
9時20分
症例が二極化。錯乱状態の患者は興奮状態になり安全を考慮して拘束具の使用を許可。また認知機能障害、倦怠感を訴える患者には意識障害または昏睡状態になる患者が増える。
横浜市役所市民生活安全課の浅井氏が東洋医心研究所の主任鍼灸師である秋月楓先生を連れて登院。小児医科の治療開始。全病室治療。11時40分全員完治。
12時34分
秋月先生が心療内科医局に到着。遠山医院長の指揮の下、心療内科、精神科他の同一症状毎の患者をベッド移動し、統一化。12時52分秋月先生による治療開始。14時10分全患者の治療終了。
「以上が、当院内における本日の特殊症例の経緯になります。横浜市内及び神奈川県内の類似診療科目の総合病院、情報共有している開業医からも不思議な事に同時刻に同じ症例が報告されています。異なるのは秋月先生がいらっしゃらない為に沈静化が不完全という事でしたが、概ね16時を境に症状が落ち着いたとの報告が来ています。他医院の詳細報告はまだ得ていないのですが、当院での患者様に関しては概ね同じ内容を訴えています。まず、『備えよ。くがにぬすをよべ。』と声が頭の中に響き始め『海底から何か大きなものが蠢き浮上して来る。』という映像が浮かぶそうです。錯乱状態になる患者様はここから興奮し始めています。『今度は近海に現れる。嵐が防ぐ。』と騒ぎ出し再び『くがにぬすをとめ。くがにぬすがえうずる。』と言い続けていました。後半は意味が分かりませんがこの間、実は当院の看護師や医師にも同様の症状を発症する者が数人いて、医療崩壊寸前でした。秋月先生がいらっしゃらなかったらと思うと・・・考えたくありません。現時点で私が報告出来る内容は以上になります。医療報告書には秋月先生の内容は入れられませんから只今、田辺副医院長が絶賛作文中です。特に小児医科におけるアレルギーや骨折患者まで数分で完治した内容は報告出来ませんからね。秋月先生。本当にありがとうございました。」
座って報告をしていた伊原心療内科課長は立って頭を下げた。
「伊原先生、本日は早朝からお疲れさまでした。報告された症例開始の8時以前から入院されている方々からのざわつきを当直医の先生から相談されての御出勤、本当に頭が下がります。御自身のお体に気を付けて今後も宜しくお願いします。」
遠山がにこやかに伊原を労い座ったまま頭を下げる。
「遠山君さあ、こんな所で油売ってないで報告書書くの手伝いに行きなよ。いつも田辺君に丸投げしてるでしょ。厚労省から文句言われるの嫌だって言ってるじゃない。裕子さんがいれば医療面の相談は大丈夫だからさあ。医院長って暇な訳じゃないでしょ。」
楓は伊原に両手を振って微笑むと医院長に皮肉を込めて発言した。
「私は外科医ですからね~事実を処理するだけの頭の固い男なもんですから。応用力と表現力豊かな田辺先生の方が素晴らしい報告書が出来上がるんです。流石に長年小児医科でお子さん達の心と身体のケアをしてらっしゃっただけあります。お弟子さんの深山先生が優秀なのも田辺先生のご尽力の賜物ですから。本当にうちは優秀なスタッフに恵まれているんですよ。現在の私の最優先事項は今回の症例に関する本当の原因追及を楓さんから伺う事ですからね。これは他の先生には務まりません。楓さんも良く言っているじゃないですか。人には役目があってその時に出来る事からやりなさいって、ねぇ。」
「随分都合のいい解釈ね。大体外科医の先生が皆頭硬い訳じゃないでしょうに。まあ、昔から田辺君に任せて愚痴言いにだけうちに来てたもんね。本当は太一郎も迷惑してるのよ。面倒くさい同級生だってね。」
話しを聞いていた裕子と忍が吹き出す。
「医院長が楓さんに始めて会ってから永遠のアイドルになった切っ掛けが、中学生の時に同級生の皆川先生に会いに東洋医心研究所へ遊びに行ったからって言ってましたもんね。中学生の医院長からはさぞや楓さんが眩しかったんでしょうね。」
裕子が言う。忍にとっても東洋医心研究所の所長である皆川太一郎は弓道の師であり、楓が終戦後に孤児だった男女の子供を育て、その子供達が結婚し生まれ、育てられたのだと聞かされていた。
「ええ、ええ。それはもう~私が芸能人とかに興味も示さずに医学の道を突き進めたのも楓さんを見てしまったからですよ。それ以来全く変わらず美しい楓さんは永遠のアイドル、いや女神様なんですから。一緒に暮らしている太一郎が羨ましくてもう~」
遠山が完全に脱線するのを見て楓が頭を掻きながら言う。
「あ~もう。私が悪かったわ。聡史君ってさあ、遠山君と血の繋がりあるのかな。あの子も年取るとこうなるような気がしてきたわ・・・」
今度は雫達が笑い出した。
「この話はここで終わりにしましょ。遠山君、議長続けるんでしょ。先に進みなさいよ。伊原君もお疲れなんだから早く返してあげなさい。」
楓に言われ遠山医院長は「はい。」と良い返事をして立ち上がる。
「伊原先生お疲れさまでした。明後日からアメリカの学会出席ですね。今後に向けて宜しくお願いします。お忙しい所本当にありがとうございました。準備もありますからここでご退席ください。帰国してから内容をご報告します。」
遠山は本来部下である伊原に深々と頭を下げる。伊原も立ち上がりお辞儀するが名残惜しそうな表情で退室して行った。
「さて、取り敢えず医療現場の報告は以上になります。深山さん、行政側が把握している情報の開示はお願い出来ますか?」
遠山が深山に聞き、浅井がノートパソコンから該当事項を読み上げる。
「現在把握出来ている内容につきましては、伊原先生のご説明に即して9時から16時までの交通事故件数が木曜日の平均件数に比べまして神奈川県内で約6倍、千葉県では主に房総半島南部に約4倍、静岡県に至っては伊豆半島東海岸で約8倍の件数に登っています。事故の内容で判明している原因の八割は運転手の操作ミスによるもので、多くの証言に『まるで海に潜ったように視界が塞がった。』『何かを命令するような声がして錯乱してしまった。』と発生した場所と関係なく共通に訴えているとの事です。また、相模湾を中心に海難事故も多発していまして、特に伊東市から下田市にかけての伊豆半島東側、小田原市から東の湘南エリアで顕著に発生していました。神奈川の神崎家で事態の収拾にご協力頂いていますが決定的な原因の追究に至らず、九鬼家統領の直志様に探査追及を依頼しています。」
楓は頬杖を突いて微笑みながら浅井の報告を聞いていた。
浅井は槍穂岳巳葺山の事件以来、深山の指導を真摯に受け業務に励んでいる。
「ありがとうございます。どうも同じ要因・・・これも集団ヒステリーと呼べるんでしょうかねえ。各事例の証言から、幻覚は海中か海底に関係するものが現れて、幻聴に関しては何らかの指示をされるという共通点があるものの発生している場所は広域に渡り、かつ接触性が低い。ここに来る前に伊原先生がご指摘されていましたが、こんな症例は聞いた事がないとの事ですし、病院内であれば・・・医学的表現ではなくなりますが、ある程度閉鎖された空間に思念の様な物が伝播する事もありえるのか・・・な。さて、そろそろ楓さんの出番ですが、何か掴めましたか?」
遠山は嬉しそうに両手を揉みながら楓を見て発言を待った。
楓は寛美を一度見てから隣の雫に笑顔を見せてテーブルの上に出ている雫の手の上に自分の右手を重ねる。
「成程ね。三人共凄い能力持っているのね。もう少し時間が有れば忍ちゃんも加わっていたのかな。遠山君。今回の件、規模は伊豆を含んだ南関東限定で起きているけど過去に同じ内容が世界規模で起こった事があるのを彼女達が解明したわ。麗香ちゃんが発表する?」
自身に視線が集中するのを麗香は手を振って笑った。
「私は冒頭部だけを読んだに過ぎませんから。寛美と雫が全容を把握しています。」
麗香が慌てて発言するのを見もしないで寛美が静かに言う。
「自分の才能隠すのもいい加減にしなさいね。さっき資料を戻す時に全部読んでいたでしょ。全容を把握しているのは三人全員よ。最も良識を備えているあなたが話すのが一番適しているわ。それで楓さんはあなたを指名しているのよ。読み飛ばした所はサポートするから麗香の良識の範疇で最適解を教えて。昔から、あなたが私達のリーダーよ。」
寛美の発言に忍は麗香を見る。小さく溜息をついて苦笑している姿を見て森澤麗香という人物に大きな感動を覚えた。
雫が麗香を覗き込み微笑む。
「私達って言っていい事悪い事あまり考えずに、得た知識を広げちゃうからね~深堀する議論は楽しくなっちゃうけどこういう場は麗香が必要最低限で話してくれた方が皆も分かりやすいし時短出来るからさ。お願いね~」
雫に笑顔で返事をすると、麗香は右手で一度だけ髪の毛をかき上げ目を瞑り、大きく息を吐いてから真っ直ぐ前を向き話し出す。