1、黒の偏執者
「ハァハァハァハァ…………」
傍から見ても“彼”は異常だった。
肉に飢えた獣のように歯を剥いて口内からダラダラとよだれを垂らして興奮している顔を、暗闇に光るスマートフォンの輝きが照らしていた。
その足元には中学生くらいの少女の亡骸が転がっており、そのすべての血液を吐き出したのではないかと思うほど大きな傷がその肉体の縦に走っていた。包丁やナイフで切り付けただけではこうはなるまい。
「ハァハァハァ……死体になってもかわいいなぁ……きみは。ハァハァハァハァ……でも、動かないのは……つまらないなぁ……」
パシャ。
“彼”はもはや自分の眼球とほぼ同質の存在となっているスマートフォンで己の成果を撮影した。そして写真欄をスクロールし、いくつもの少女の顔を眺めている。
「……つまらないなぁ。この辺りで一番かわいい中学生はこの子だったよなぁ。それなら、次に狙うべきなのは高校生……かなぁ」
“彼”は次の獲物は誰がいいだろうかと死体の前で考え始めていた。もはや、この骸には何の興味も無い。どうでもいい。それどころか、彼女を殺した記憶すら既に遠く。
写真さえ撮っておけばあとで簡単に思い出せるだろうという合理的な理性と、殺した者をいちいち覚えてられないという殺戮者の獣性の成せる技だ。
ぶつぶつと呟きながら歩き出し、さっきまで“彼”を包んでいた熱気の如き興奮は完全に鎮まり、殺すまでの道のりを次々と導き出してゆく様子は賢者のようだ。
しかし、“彼”はやはり異常であった。己の愉悦のために少女を追い詰めたとき、殺したとき、立ち去るとき、そのすべての場面において“彼”はスマートフォンのカメラを通じて世界を見ており、最後まで自身の目で獲物を捉えることはしなかったのである。
「ねぇねぇ、天開先輩のチ◯コめちゃくちゃデカいらしいよ!!」
「えー!? マジ!?」
「…………」
刈園高校の2年生の教室にて。あたしは友人の唐突な伝聞形態の話を聞いて何と返していいか分からなかった。先ほどまで繰り広げられていたもうひとりの友人の彼氏に対する愚痴以上にリアクションに困る内容だ。
「すごい情報でしょ!信頼出来る情報筋に聞いたからたぶん間違いないよ。朱里も今の彼氏に飽きてるっていうなら、誘ってみたら?」
「んーなこと出来るわけないよ! だってさぁ、天開先輩イケメン過ぎだし! 5秒以上目を合わせてたら照れちゃう!」
男の扱いなら一騎当千と豪語していたはずの蝋坂朱里はそんなことを言いながら明るい茶髪と大きな胸を震わせる。大山鳴動する“山”を見て「おお」と話を振ってきた焚島真衣は少しだけ羨ましそうな顔をした。
そう言えば、真衣はあまりにも胸が小さいという理由で振られたんだっけ。そのときは真衣を「女は胸じゃないよ」と慰めたのだが、こうやって見てみるとやっぱり女は胸かもしれない。
「ん……? もー、2人ともまたあーしのおっぱい見てる!」
「えっ。あ、いや、そ、そんなこと……」
「いやいや、そりゃ見るってば」
開き直った真衣ではあるが、ミニスカートから覗く白い美脚は朱里の爆乳に匹敵する武器だ。それに比べてあたしと来たら……。満足にトークも出来ず、あうあうと返すのみ。周りに流されて何となく染めた金髪も信念の無さを物語っている。これと言った特徴も無い。
誰かに告白されたこともないし、自分から動くこともない。平凡な人間だ……。
「あーあ、また夢与ちゃんがネガってる」
「よしよし。あーしのおっぱい揉みな」
「うん……揉む」
むにむにと朱里の胸に指を食い込ませながら引き続き噂話を聞いた。もちろん、その中でも特に2人が盛り上がっていたのは天開先輩のことだった。
天開終介。顔良し性格良し家良し成績良し運動神経良しの人物だ。刈園高校は偏差値を誇る進学校ではないが、周囲と比べて高い能力を持っているというのは褒められるべきことだと思う。
わいわいと賑わう教室でもひときわ大きい声を出す男の集団がいる(でも、たぶん真衣の声の方がよく響いていた)。このクラスの顔とも言えるやつらだ。けれど、どいつを見ても天開先輩と比べたら見劣りするのは否めない。
でも、この中で誰かを選ばないといけない状況に追い込まれたら、あたしは駒田を選ぶ。駒田はかなりの肥満体だが、とにかく声が良い。
彼がもしASMRを販売したら間違いなく買う。モノマネも上手いし、場を和ます言葉選びも出来る。
そういう意味でも上々の物件と言えるだろうが、クラスメイトになったことのない者からするとやはり“ない”ようだ。
ガタガタと扉を開けて教室に男が入ってきて、こちらを睨むような視線を投げてくる。そのプレッシャーに負けて真面目な部類のクラスメイトたちは席に戻り始めた。
担任の犀山だ。
「せんせー、ここは教室なんだから“帽子”は取った方が良いんじゃないですかあ?」
と真衣が煽った。それに合わせて教室のあちこちから失笑が漏れる。犀山はハゲだ。さらに、とんでもなくバレバレなカツラを被っているのである。普通にハゲているだけでも刈園高校の民度を考えれば笑い物になるというのに、ここまで不自然な姿であれば誰だって可笑しく思うだろう。
犀山は真衣をジロリと睨むだけで何も言わない。珍しいな。いつもなら威圧するような言葉を投げてくるのに。
そしてホームルームの開始を示す予鈴が鳴り、すべての人間が自分の席に着いた……これも珍しい。もしかしたら、クラスメイトたちも彼の不審な態度を訝しく思ったのかもしれない。
「転校生を紹介する、入れ」
その言葉に教室はざわめき、教団側の扉をみな熱い眼差しで見つめた。しかし、誰も入って来ず、ガタガタと反対側の扉……つまりみんなの後ろ側だ……そちらから女の子が入って来た。
「あれ、入る方向間違えちゃいました」
そのボケ(だと思われる。犀山が先導して連れて来たはずなので方向を間違えるわけがない)に教室は盛り上がる。……あたしは。あたしは。あたしは彼女に目を奪われていた。
腰にまで届く夜空のように綺麗な黒のロングヘア。スタイリッシュな黒縁のメガネ。刈園高校のものではない漆黒のセーラー服。長すぎず短すぎない黒いスカートから見えるこれまた黒のストッキングに包まれているスラリとした細い足。
胸元のリボンと素肌の白さがアクセントになっている。
そして何より美しい。“かわいい”じゃない。すぐにでも足元に駆け寄りたい。ひれ伏したい。何もかもを支配してほしい……そんな気分にさせられる圧倒的な美であった。
「千代田区から来ました。半村ラビです。気軽にラビって呼んでください。急な転校で制服は間に合わなかったから仲間感は無いかもしれないけど、みなさんと仲良くなりたいです」
そう言ってラビさんはどこにも隙のない完璧なお辞儀をした。こんな気高いお嬢様感のある美少女がこうもやすやすと頭を下げていいのか……とあたしは目を見張るが、クラスメイトたちはやんややんやと騒いで真衣や駒田などの発言力のある人たちが彼女を質問攻めにした。
あたしはその内容をほとんど覚えていない。ただただラビさんのオーラに気圧されていた。が。
「彼氏はいるんですかー!?」
という不躾な質問で一瞬にして現実に引き戻された。ラビさんは少しだけ恥ずかしそうにしつつメガネを触り「いません」と短く答え、それだけでは不十分だと思ったのか艶やかに微笑んで言葉を付け足した。
「彼氏も彼女も絶賛募集です。あ、ひとりだけですよ?」
またしても教室中が沸いたのは言うまでもない。
ホームルームが押したためシームレスに一時限目が始まる。難しくてよく分からない数学の授業などまるで頭に入って来なかった。あたしの思考のリソースはすべて、斜め前に座ったラビさんに集中していた。
授業が終わり。ラビさんの元へ挨拶に行こうと思ったのだが、朱里も真衣も他のクラスメイトたちも、そして違うクラスの人たちまでみなラビさんに殺到していた。あまりの人気ぶりに見かねた駒田が人員整理のようなことをして制限しなければ、もし授業が始まっても自分の席に帰らない者が出て来たはずだ。
その勢いは二時限目、三時限目、四時限目が終わっても収まることはなかった。あたしのような小心者はそれだけで会話へ参加しようとする気概が失われていくものだ。
だけど、ラビさんに挨拶したい、名前を覚えてもらいたい、あわよくば友達になりたいなんていう思いが萎れることはなかった。最後には朱里と真衣に背中を押され、どもりにどもったボロボロの自己紹介をすることが出来た。
「そう、紋藤さんっていうのね。教室だとご近所さんだし、何かあったら助けてね?」
とありがたいお言葉をもらい、あたしは無事昇天した。その後の記憶はあまり無い。朱里と真衣に「よかったね」「お話できたね」と褒められたことまでは覚えているのだが。
気が付いたら五時限目も夕のホームルームも終わっており、ぼけーっとしたまま帰路についていた。
家の玄関の鍵を開けるために鞄の中を探そうとしてふと気付いた。
鞄が無い。
「え。落とした? ……いや、もしかしてあたし、教室に忘れて来ちゃった!?」
いくらなんでも呆けすぎだ! ラビさんの衝撃に我を忘れていたとは言え、これはさすがに言い訳出来ない……!
今日は部活がある日だからテニス部の真衣とサッカー部のマネージャーをしている朱里に指摘されることも無かった。スカートの中のポケットを探るとスマートフォンも無かった。机の中に置いてきたに違いない。
お母さんが帰ってくるのを待てば家には入れることは可能だ。けれど、スマートフォンを半日使えないのは我慢がならない。それに鞄には財布も入っている。
「取りに帰るか……」
鞄を持たずに制服のまま学校へ向かう様子はきっと奇妙に映るだろう。というか、帰るときはもっと滑稽に見えたはずだ。時間差で恥ずかしさを覚えつつ、早歩きで学校へ向かう……が焦っていたらろくなことがない。途中で転んで膝を擦りむいてしまった。
痛む足を堪えつつ学校に着いたときには部活動がそろそろ終了するくらいの時刻であった。
休憩を挟みながら二階に上がり、教室の扉を開ける。すると教壇のところに犀山がいた。
「げ」と思わず言ってしまったが気にすることは無いだろう。鈍感な人間というわけでもないし、自分が生徒に嫌われていることは分かっているはずだ。
「……何しに来た?」
「あの、教室に鞄忘れちゃって……」
そう言って自分の席に行くと横に鞄がかけてある。良かった、ここにあった。机の中に忘れていたスマートフォンを手に取る。
「失礼しました」
「おい、待て」
犀山に呼び止められた。いやいや振り向くと彼が目を見開いている。夕暮れが差し込む教室。そう言えば、灯りがついていない。犀山は電気も付けず、ここで何をやっていたのだ?
「何でしょうか……」
「紋藤。おまえか? おまえが別班の使いか?」
「は?」
何が言いたいのか判断に困る。そして、あたしは犀山の顔が怒りで満ちていることに気付いた。彼の傍らには手紙のようなものがある。
「嘘なんだろ? 高校二年にもなって鞄を忘れるなんて下手な言い訳だ。そのスマートフォンで俺を盗聴していたんだ。そうなんだろ!?」
被害妄想の激しい中年男性と教室でふたりきり。周囲には誰もいない。この状況にとてつもない恐怖を覚え、あたしは駆け出す。教室を出ようとした瞬間、扉が吹き飛ぶ。あたしよりも大きくて硬い扉がくの字に折れ曲がり、その中心には教壇が突き刺さっていた。
「うそ、どういうこと……」
力のある成人男性なら教壇を投げ飛ばすくらいは出来るかもしれないが、それで扉を折るのは不可能だ。犀山はさっきと同じ姿勢で立っている。そのことが余計に不気味さを与えた。
……いや、さっきと違うこともあった。禿げ上がっている彼の頭に夕日が反射していた。バレバレのカツラが横に落ちている。
「盲目な狗め」
犀山が机に触れると、まるでロケットのように勢いよく撃ち出されて、あたしの後ろの壁やら窓やらに突き刺さる。散乱するガラス片やコンクリートの破片が辺りに散らばっている。
なんだかよく分からないけど、逃げなくてはいけない。そんなことは分かっているのに動けない。怖い。怖い。怖い……!
ペタンと尻餅を突いてしまう。そのときに手がガラス片で切ってしまった。ここに来るまで擦りむいた膝の怪我もその傷もどうでもいい。痛みよりも恐怖が勝っている。
「やだ、やだ、誰か助けて……!」
殺される。ひゅっと息を呑んだ。けれど。
「はいはーい、もちろんですよ」
そんな優雅な声が廊下に響き渡る。右側からラビさんがやって来たのだ。この異様な状況に彼女は落ち着き払っており、さらに右手に抜き身の日本刀を持ち、悠然と微笑んでいる。
「あら、犀山せんせー? お“帽子”は被らなくてよろしいんですか?」
ラビさんはくすくすと笑う。その美しい顔に見惚れている場合じゃないのは理解しているのに何故か安心感に包まれつつある。
彼女の言葉は真衣が犀山に言ったものをなぞったのだと分かる。……でも、そのときラビさんはいなかったはずだが。
「くっ、盗聴していたのはおまえか!」
え? ラビさんが盗聴? 何を言ってるのだこいつは。でも、ラビさんは静かに頷き、溜め息をついた。言葉を聞かなくてもそれが失望によるものだということが伝わる。
「……犀山瞋恚地郎、あなた錆びましたね。かつては特務捜査課の鬼と呼ばれていたのに、その体たらくとは。自己紹介のときに申し上げたはずですよ。私は“千代田区”から来たと」
「公安の狗め! 騙しておきながらのうのうと」
「あなたも公安の狗でしょうに。いや、元、なんでしょうけど。でも、こんな状況ですがまだ戻れますよ。ギリギリで誰も殺さず、踏み留まっている。今なら間に合います。投降しなさい」
「断る。あそこにいても死ぬだけだ。使い物にならなくなったら殺されるような職場に誰が戻りたい? ……俺は公安の道具じゃない!」
わめくように声を張り上げた犀山が再び机や椅子に触れる。放出された大きな弾丸が教室の壁を軽々と破壊し、貫通し、空間が薙ぎ払われてゆく。それらを回避しながらラビさんは日本刀を捨て、素早くあたしを抱きかかえた。
「わあ! ラ、ラビさん。か、刀!」
「あとで拾えばいいのよ!」
あたしの存在が枷になっている。52キロの怪我人を守りながら戦うのは相当なハンデだ。けれど、ラビさんはそれをもろともせずに廊下を駆け抜けていく。
揺れる黒髪の間から形の整った耳が見え、無骨なインカムが嵌められているのが分かった。彼女は走りながらポケットからインカムを取り出してあたしに握らせてくれたので、耳に着けると艶みのある声が聞こえて来た。
だが、ガムでも噛んでいるのだろうか。少し聞きづらい。
『こちらの作戦に巻き込んで申し訳ない。オレたちは警視庁公安部特務捜査課別班だ。とりあえずは警察の人間だと理解してくれていたらいい。きみにも協力を願いたい』
「え、え、協力って。何をすれば!?」
『今回のことを口外しないだけでもオレたちとしては助かる』
「そんなことでいいのなら」
とは言え、こんなことを他の人に言ったって信じてくれないだろう。
『一階にはまだ教職員が残っている。羽常が音を掻き消してくれているが、状況次第では隠蔽が難しくなる。二階、あるいは三階で対処しろ。犀山の異能は【肉の盾神話】。触れたものを直線上に弾き出し、なおかつ弾き出している間は肉体へのダメージがゼロになるというものだ』
「トリガーはお“帽子”を外すこと、ね。それが分かっているのだから対処は難しくない。出来れば接近したいのだけれど」
『おまえの異能なら容易い』
「ふふっ、滾るわね」
後方から飛んで来た幾つもの机が天井スレスレを走り、行く先に降り積もる。ラビさんは落ちた机の上にあたしを優しく下ろしてくれた。そしてメガネを外すとあたしの手のひらにそっと収めた。
メガネを着けていないラビさんは表情に神秘性が増しており、さっきとはまた別の良さがある。
「そこで私の活躍を見ててちょうだいね」
あ、と声が漏れそうになるくらいに勢いよく、机や椅子やコンクリート片が殺到する。動きを止めたラビさんの背後から攻撃する形だ。しかし、突然現れた黒い蛇のようなものがそれらを防ぎ、横に逸れていく。あれは……矢印?
ラビさんは反転し、犀山の方へ走った。いつの間にか右手には日本刀、左手には犀山のカツラを持っている。
『安心しろ。今まではきみを巻き込んで殺さないようにラビは異能を使っていなかった。こうなったら、犀山に勝ち目は無い』
「何なんですか……あれ。てか、あたしに所属を話してくれたということはあの超能力みたいなものも説明してくれるんですか?」
『……あれは異能と呼ばれる特殊な力だ。何らかの動作、あるいは状態がトリガーになって発動する。ラビであればメガネを外すことで発動条件を満たすことが出来る。公安ではその異能を使う者を執着者と呼んでいるんだ』
教室で犀山が教壇を吹き飛ばしたとき、横にカツラが落ちていた光景を思い出す。
「じゃあ、あのカツラって」
『犀山のトリガーだろう。彼の場合はカツラを外すという動作で異能を使うことが可能になる。逆に言えば、自身に似合わずとも普段からずっとカツラを着けている必要があるというのが不憫な点だな』
それは確かにだいぶ可哀想だ。しっかりとしたカツラは一瞬で外すことが出来なくなるかもしれないから、適当な造りのものを着けなくてはならない。
今まで失笑していた自身を恥じる。
『ラビの異能は【裸針盤】。黒い矢印を走らせて、それに触れたモノを任意の方向に移動する強烈な力を付与する。まぁ、つまり押したり引っ張ったり弾いたり出来るわけだ』
「なるほど。というか、説明を聞いている限りだと犀山の異能と似ているような……?」
『いや、犀山の方には物体を弾いている間は無敵になるという明確な差異がある。ラビの矢印の方が汎用性は高いが、向こうの方が異能としては強力だろう』
「え。無敵ってことは何も効かないってことですか? それじゃあ、ラビさんの矢印も通じない。接近しても意味が無いんじゃ……」
『問題無い。オレの異能である【鯨因】を使って犀山のカツラをラビに渡しておいた。どんな攻撃も効かない犀山だが、カツラを無理矢理被らせてしまえば、異能は使えない』
目の前(のように見えるだけ。これもまた【鯨因】の力らしい)のラビが刀を流麗に振るう。刀の周りには矢印が蠢いている。
犀山はその斬撃を地に伏せて躱し、ついでのように足元のガラス片に触れる。雨霰の如く降りかかる攻撃はすべて矢印が防いでいく。じりじりと犀山は後ろに下がらざるを得ない。
ラビさんは攻略のキーになるカツラを左手に……持っていない。よく見ると犀山から死角になっている天井付近で上を向く矢印に貫かれてふわふわと浮いている。
そしてその下の位置に後退した犀山の頭にポトリとカツラが落ちる。その感触で気付いたのか彼が頭に手をやる刹那、ラビさんの剣閃が走る。磨き抜かれた銀色の刃が左手首を斜めに斬り落とし、そのままの勢いで袈裟懸けに薙いでいき、大量の血液が噴き出た。
距離が遠のく。犀山の血があたしにかかる……と思った瞬間、ラビさんたちが遠くなったのだ。通信の向こうの声が『すまない。嫌なものを見せたな』と謝る。
あたしは何も言えず、ただ自分の顔を触った。とんでもない臨場感だった。
ラビさんは遠くで犀山に対して何かを言っているようだが、ここからは聞こえない。
「犀山先生は……死んだんですか」
『あの攻撃の時点では死んでいなかったが、いまラビがトドメを刺したよ。公安が管理できない執着者は一般人を危険に晒す』
またしても何も言えない。犀山の殺意を直接向けられた身としてはその判断が当然だろう。でも、思わず目線を下に落とした。命を懸けて戦ったラビさんに何と声をかければいいのか。ラビさんに幻滅してしまわないだろうか。そんな見当違いの心配をしているうちに少し時間が経っていたようだ。
「紋藤さん、大丈夫?」
「え、あ」
その声で視線を上げ、まさにいま人を殺してきたラビさんを見た。彼女の顔には返り血が飛び散り、黒に包まれた外見に鮮烈な赤の差し色が入っているようにも見え。
「綺麗……」
そんなことを口走っていた。
「……ふふっ、予想外の言葉。紋藤さん、怪我してたわね?右手と左足。傷を見せてくれるかしら。簡単な手当てをしておくから、家に帰ったらちゃんと消毒してね」
「あの、ありがとうございます。ラビさん、あのメガネ」
「ちゃんと持っててくれたのね」
ラビさんは少し震えるあたしの手をぎゅっと握り、受け取ったメガネをかける。……やっぱり、ラビさんはメガネをかけていた方が美しいな。
「私の“本気”見ててくれた?」
「はい! かっこよかったです!」
「明日からも学校で仲良くしてくれるかしら?」
「もちろんです。でも、あの。ラビさんは犀山先生を倒すために転校して来たんじゃないんですか? お仕事はもう終わっちゃったのでは?」
ラビさんはフルフルと首を振った。美しい顔から繰り出されるかわいい仕草が胸を打つ。
「そうだったら楽だったんだけれど。まだまだ仕事は残っているの。それに私は刈園高校に潜入しているとは言っても本当に17歳だから、学校には通っておかないとね」
「大変なお仕事ですね……。あの、さっき言ったようにあたしはラビさんに協力します!小心者で緊張しいのあたしですけど、出来ることなら何でも……!」
「へぇ、何でも?」
「何でも!」
抱かれてもいい……というか抱いてほしい。そんな感情を抱いたのは人生で初めてのことかもしれなかった。そんな気持ちが伝わったのかそうでないのか、ラビさんはニッコリと笑った。
「じゃあ、私の彼女になってくれるかしら?」
と夢みたいなことを言い出したのだった。