ミラージュ大教会にて〜Part2-Ⅲ
さすがにそれにはイアンもディエゴのほうへ視線を向け、ダイアナは目を丸くしている。
「ミラージュ大教会の管理に刺繍やお菓子作りといった淑女の嗜みが絶対条件だとはわたしは思っていないよ。ダイアナ嬢」
「で、ですが…。皇后さまも刺繍やお菓子作りがお上手でしたわ。その前の大后様も…」
「わたしは絶対条件だとは思わないといっているだけで、必要ないと言っているわけではないよ。ダイアナ嬢。あなたの淑女としてのすばらしさはわたしも知っている。だからこそミラージュ大教会を今まで何の問題もなく管理してくれていたのだろう。それは心の底から感謝しているよ。今改めて礼を言いたい。ありがとう」
ディエゴが深々と礼をとったので、ダイアナはあたふたと慌てふためている。
イアンは茫然としていた。
「で、殿下。お顔をお上げくださいませ。わたくしなどのために…恐れ多いことでございますわ」
「いや。皇太子妃がいない間は適任者を選別し、管理を任せることとするという条項にはあなたがぴったりだと思ってお願いしたのだが…。まことに見事に管理をしてくれて本当に助かったよ。これで滞りなく皇太子妃に引き継ぐことができる」
そこまで言うとディエゴは顔をあげた。
皇太子にここまで言われて、もうダイアナは何も言えなかった。
おまえに任せたのは皇太子妃にと考えていたわけではなく、条項に書かれている通り、適任者と思われていただけなのだと暗に示されたことになる。過度の期待はするなと。そして速やかに皇太子妃にミラージュ大教会の管理責任を返還せよと。
半ば、皇太子命令だ。
「そ、そうですわね。わかりましたわ。お返しいたします」
その言葉を聞くや否や、ディエゴが目で合図し、イアンが書類を机の上に出した。
「ダイアナ。ではここにサインを」
返還同意書。
ダイアナは何も言えず、そのままサインをするしかなかった。
と…
その時だ。
扉の向こうでガヤガヤと声がする。
「館長様!」
と切羽詰まった声。
館長は「すみません」と席を立った。
「どうしたのです?今は重要な会議だと言ったでしょう?」
少し怒り気味の声で扉の向こうの人間に言っているが、どうやら緊急事態らしい。
「けれど、ボイドが暴れてどうしようもないんです。もう手が付けられなくて、厩が壊れてしまって」
「厩が?」
ボイドって馬なのかしら?
「どうかしましたか?」
ファビアが初めて口を開いた。
「何があった?厩が壊れたと聞こえたが」
ディエゴが言うと、館長がこちらに向き直り、扉の向こうにいた少年にもこちらに入るよう指示した。
「ボイドという馬がおりまして、こちらで移動のために飼っているのですが、その馬が朝から暴れて言うことをきかないのです。さきほどは厩をついに壊し始めて…」
「昨日まではおとなしくしていたのですか?」
ファビアが言うと、その少年はファビアのほうを向いた。
「はい。日頃はとても大人しい馬なのです」
「わかりました。わたくしが会ってみましょう」
「ええっ!失礼ながら…」
ファビアの事が誰だかはわかっていないその少年にもさすがに身分の高い貴族だということくらいはわかった。
ミラージュ大教会の粗末な馬に貴族の令嬢が会うなど…。
「大丈夫だ。ファビアに任せておけ」
ディエゴのお墨付きがあってはどうすることもできず、館長が厩に案内した。
ファビアは暴れている馬に心の中で話しかけた。
『聞こえる?ボイド。聞こえたらこちらを向いて。そしてわたしを乗せて運んでくれない。静かなところで話しましょう』
ピタリとボイドの動きが止まる。
そしてファビアを、その馬は見つめた。
『僕の言葉がわかるのか?』
『ええ。でも他の人間に聞かれるとまずい。散歩に出ましょう』
『わかった。乗って』
ファビアはそっと近づくと、馬のたてがみをなでつけた。
大人しくなった馬に、さすがに少年も館長も驚いている。
一緒についてきたイアンとダイアナも目を丸くしていた。
ファビアはボイドにまたがるとディエゴには目で合図してそのままミラージュ大教会を少し離れ、河原まで散歩に来た。
『何があったか話して』
『僕たちを盗んで売り飛ばす男が教会にやってきた』
『どうして売り飛ばすとわかるの?』
『僕はいつも大きな買い物のときは街に出る。そこでいつも馬を盗んで売り飛ばしていた男が教会に昨日から住んでいる』
『わかった。教会に帰ったらその男が誰なのか教えて。対処するから。だからお願いだからもう暴れないであげて。教会の人たちが悲しむ』
『わかった。ごめん』
ボイドは最後はシュンとしていた。
ファビアは教会に帰ると、ボイドからその男を教えてもらい、ディエゴにこそっと耳打ちした。
ディエゴはうなずき、護衛騎士に指示していたから、数日後にはおそらくその男は逮捕されるだろう。
「ボイドは少し体調が悪かったみたいですわ。馬だって人間と同じで風邪もひきますから」
すっかり大人しくなったボイドを見て、ミラージュ大教会の人たちは茫然としていた。
この皇太子妃は馬をも手懐けるのかとびっくりした表情だ。




