総務の聖女、小野さん
今年総務に配属された新入社員、小野 美幸さんは、ショートカットの黒髪とくるくる変わる表情が愛らしい、聖女である。もっとも、本人は自分が聖女であることを知らないらしい。小野さんは今日も、一生懸命仕事に励みながら、自覚なく奇跡を振りまいている。
小野さんは真面目で努力家の、とても良い子なのだが、残念ながら少しどんくさい。一度言われたらすぐにこなせる器用さはなく、メモを取り、ひとつひとつ手順を確認しながら慎重に仕事を進めている。だからイレギュラーな事態に遭遇すると動きが止まり、作業中に急に別の仕事を振られると混乱する。今日も小野さんは作業中に急に仕事を振られ、そちらに気を取られて前にやっていた作業の確認手順を一つ飛ばしてしまい、課長に怒られてしまっていた。
「次からは気を付けてね」
「はい。すみません……」
課長もそんなに強く怒っているわけではないのだが、小野さんはしゅんと落ち込んでしまった。真面目な小野さんは失敗に対して必要以上に自分を責めがちなのだ。自分の席に戻った小野さんは、うなだれて固く目をつむると、自分の拳でこつんと自分の頭を小突いた。すると、
「にゃぁ」
どこからともなく現れたメインクーンが、気遣わしげに小野さんにほおをすり寄せた。小野さんはメインクーンの頭を撫でると、
「なぐさめてくれるの?」
と言って弱々しく微笑む。ああよかった、今回は猫だったか。小野さんは聖女なので、彼女が落ち込むと野生動物がどこからともなく現れて彼女をなぐさめるのだ。以前などはアムールトラが現れて大変だった。なにせ絶滅危惧種である。こちらとしてもどう扱ってよいか分からないし、何より純粋に怖い。
メインクーンの撫で心地は彼女の心を軽くしたようだ。小野さんはすっかり明るさを取り戻し、メインクーンに向かってその華奢な腕に力こぶを作るようなポーズを作ると(実際には力こぶなど全くできていなかったが)、
「ありがとう。わたし、がんばるよ!」
と笑った。よかった。小野さんが落ち込んだままだと動物が増える。メインクーンは自分の役割は終わったとばかり、ひょいっと窓から外に飛び出て、そのまま姿を消した。しまった、せっかくだから私も撫でさせてもらえばよかった。
――一方その頃。
病院の中庭で、車いすの少年が不安げな表情でうつむいていた。サッカー選手を夢見る少年は部活の練習中に利き足を骨折し、やっと掴みかけたレギュラーの座を失っていた。こうしている間にも部活仲間は練習を積み、実力の差は開いていく。膝の上に乗せたサッカーボールをにらんで、少年は唇を噛んだ。
「君、サッカーやるの?」
不意に掛けられた声に少年は顔を上げる。目の前にいる声の主が誰か、その正体に気付いて、少年は目を大きく見開き息を飲んだ。そこにいたのは、少年が憧れる、プロサッカーリーグのスター選手だった。
「は、はいっ!」
裏返った声で少年はぎこちなく返事をする。スター選手はじっと少年を見つめると、持っていたバッグから自分のサッカーシューズを取り出し、少年に手渡した。
「君にあげよう。もらってやって」
「え、えぇ!?」
信じられない幸運に、少年は口をパクパクとさせている。スター選手はニッと笑うと、少年の頭をグリグリと撫でた。
「君、いい選手になるよ」
それだけ言って、スター選手は去って行く。少年は手渡されたサッカーシューズを抱きしめ、上気した顔でスター選手の背を見送っていた。
聖女が元気を取り戻した時、世界のどこかで、サッカーへの情熱を失いかけた少年が再び希望を取り戻すのである。
小野さんはその真面目さゆえか、休憩を取るのが苦手なようだ。適度に休憩した方が実際には仕事の効率はいいのだが、そういったことを冷静に考える余裕はないらしい。まあ、まだ一年目だし、慣れてくればできるようになるのかもしれないが、とりあえず現時点では放っておくと休まずに働き続けてしまう。小野さんの隣の席にいる私は、一応先輩なので、気が付いたときには彼女が休憩するように仕向けている。今日も眉間にシワを寄せてディスプレイとにらめっこしている小野さんに、私は机の引き出しからチョコを取り出して声を掛けた。
「小野さん、チョコ食べる?」
「えっ? いいんですか?」
さっきまで難しい顔をしていた小野さんがキラキラとした瞳で私に振り向く。う、純粋な笑顔がまぶしい。小野さんは甘いものが大好きなのだ。自分のご褒美用に買ったちょっと高級なチョコレートなのだが、こうも全身で喜びを表現されるとあげてもいいかなという気になる。私は三種類のチョコを見繕って小野さんに渡した。
「ありがとうございます!」
心底幸せそうな顔で、小野さんはチョコを口に入れた。小野さんが本当に喜んでいることは、花瓶の花を見ればすぐに分かる。小野さんは聖女なので、小野さんが幸せを感じるとしおれかけた花が元気になるのだ。だから私は花がしおれ始めると小野さんにお菓子をあげる。
「おいし~い!」
頬に手を当て、小野さんは幸せのため息を吐く。ちょっとだけ、小動物を餌付けしている気分。一度散った花瓶の切り花が再び咲き始めた。
――一方その頃。
路地裏にある小さな洋食屋で、店主である夫とその妻が、悲痛な面持ちでうなだれていた。もうすぐ昼時だというのに、客の姿は一人もいない。そしてこの光景は今日だけのものではなかった。夢だった自分の店を開いて一年。厳しすぎる現実は、この若い夫婦をさんざんに打ちのめしていた。
「……今月で、店を閉めよう」
夫が呻くように言葉を搾りだす。独立前に夫婦で用意した貯金は底をつき、もはや店を維持することも難しい。妻の目から涙がこぼれた。
――カランカラン
来客を告げる鐘が鳴り、妻は涙を拭った。入ってきたのは三十代半ばの、スーツに身を包んだビジネスマン風の男。男は日替わりランチを頼むと、背筋をぴしゃりと伸ばした姿勢のまま、微動だにせず料理を待った。
「日替わりランチです。ごゆっくりどうぞ」
この店での最後の客になるかもしれない男に対し、夫は自分の持てる精一杯の料理をぶつけた。男は一言も発することなく、料理をすべて平らげる。そして満足そうに軽く息を吐き、男は店主である夫に話しかけた。
「この店に客が来ないのは、なぜだと思いますか?」
「え? それは……私の料理が、皆さんの口に合わないのでしょう」
夫は自嘲気味にそう答える。男は呆れたようにせせら笑うと、厳しい瞳で夫を見据えた。
「だからこの店には客が来ないんだ」
男の無礼とも思える言葉に、妻が怒りの声を上げる。
「いくらお客様でも、夫を侮辱するのはやめてください!」
「いいえ、はっきりと言わせてもらう! この店に客が来ないのは料理がまずいからではない!」
妻の怒りをかき消す大声で、男はある種の怒りと共に叫んだ。男の言葉の意味を計りかね、夫婦が顔を見合わせる。
「この店に客が来ないのは立地と、宣伝力のなさゆえだ。あなたの料理は率直に言って素晴らしい。原因を見誤っていては、いつまでたってもこの店に客は来ない」
困惑する夫婦に、男は立ち上がって近づき、名刺を差し出した。名刺には『グルメキングダム・コーポレーション 東アジア担当マネージャー』の文字がある。
「グルメキングダムって、世界の主要都市に店舗を構える、会員制高級レストランを運営している……?」
信じられない、という表情を浮かべ、夫が呆然と呟く。男はうなずくと、強い熱のこもった口調で、挑むように言葉を放った。
「私は今、既存の枠にとらわれない全く新しい料理を提供する、創作料理の店を立ち上げる準備をしている。中途半端なものはいらない。私と共に、頂点に挑む覚悟はありますか?」
男の言葉が、呆けていた夫の顔を覚悟と決意の色に染めていく。男が右手を差し出した。夫は男の手を固く握ると、
「よろしく、お願いします……!」
そう言って深く頭を下げた。妻の目から、先ほどとは違う色の涙がこぼれた。
聖女が幸せをかみしめた時、世界のどこかで、夢破れかけた料理人が新たな決意と共に頂点を目指して一歩を踏み出すのである。
小野さんは、同性の私が言うのも何だが、とても『綺麗』な女の子だ。それは顔のパーツが整っているとか、くるくる変わる表情豊かなところが愛らしいとか、そういう外形的なことではなくて(いや、容貌は奇跡のように整っているし、にもかかわらず愛嬌もあってもはや卑怯なレベルなのだが)、おそらく、なんというか、魂が『綺麗』なのだ。何気ない、例えば仕事中の真剣な横顔に、思わず見惚れてしまって気付けば十分経過していた、ということがよくある。同性の私ですらそうなのだから、男どもは言わずもがな。用もないのに総務を訪れてはコソコソと小野さんを見ている輩がうじゃうじゃと湧く。そういうヤカラを見つけると私はシャーっと威嚇して追い払うようにしているのだが――
「小野ちゃんごめ~ん。これ、今日中に片付けといて」
でやがったな総務部主任、宮下一郎。この男は私の威嚇にも動じることなく堂々と小野さんに近付き、しょっちゅう仕事を押し付けるのだ。聖女である小野さんは誰かの頼みを断らない。宮下はそれを知っていて、小野さんの優しさに付け込む人類史上例を見ないゲス男である。宮下は一冊のキングファイルを小野さんの机に置いた。
「ちょっと宮下さん! 小野さんに仕事を押し付けるのはやめてください!」
「オレは小野ちゃんに言ってるの。オレ、これから取引先に行って直帰だからさ。頼むよ~」
へらへらと軽薄な笑いを浮かべて、宮下が小野さんを拝む。小野さんは優しく微笑み、「わかりました」と了承の意を伝えた。
「さっすが小野ちゃん、マジ聖女! じゃ、よろしく~」
言質を取った宮下は、もう用はないとばかりにご機嫌で去って行った。おのれ宮下、いつまでも調子に乗っていられると思うな。ああ、都合よく私に邪眼が目覚めて奴を縊り殺せないだろうか。怒りに燃える私にちょっぴり怯えた様子で、小野さんは私をなだめるように言った。
「大丈夫ですよ。わたし、頑張りますから」
小野さんの健気なガッツポーズに軽くやられた私は、心を落ち着かせるために深呼吸をすると、宮下の置いたキングファイルをばんっと叩いた。
「あんな奴に押し付けられた仕事で残業なんてバカバカしいよ! 私も手伝うから、定時内に片づけちゃおう!」
「え? で、でも……」
私に手伝わせるのがためらわしいのだろう、小野さんが戸惑いを顔に浮かべる。しかし私は有無を言わさず、ファイルを開いて書類を二つに分けた。
「私はこっちをやるから、小野さんは残りをお願い。時間無いよ、さっさと取り掛かる!」
「は、はいっ!」
勢いで小野さんを押し切り、私たちは作業に取り掛かった。現在午後三時八分。定時までにはなんとか終わるはずだ。
終業を告げるベルが鳴る。と同時に、
「……終わった」
「こちらもチェック終りました」
私はぐったりと椅子の背に身体を預けた。椅子が抗議するようにギシギシと音を立てる。まあそう怒るな椅子よ。今日の私は頑張った。小野さんは処理済みの書類をキングファイルに整理して閉じ直すと、
「先輩」
居住まいを正し、
「ありがとうございました」
私に最高の笑顔をくれた。私はその笑顔に見惚れてしまって、きっとずいぶん間の抜けた顔を晒していた。
――一方その頃。
海を臨む公園のベンチに、老夫婦が一組、夕日を眺めながら座っていた。夫は、先日長年勤めた職場を退職した、趣味もなく、仕事一筋に生きてきた男だった。二人は無言で沈む夕日を見ている。やがて夫はゆっくりと口を開いた。
「……ずっと、苦労ばかり掛けてきたな」
夫はわずかに身体を妻の方に向け、そしてやはり少しだけ頭を下げた。
「……すまん」
妻は苦笑気味に言葉を返す。
「いまさら私に謝るの?」
「……そうだな」
夫は背を伸ばすと、しっかりと身体を妻の方に向け、
「……ありがとう」
深く、頭を下げた。妻は驚きに目を丸くする。
「ありがとう、なんて、初めて聞いたわ」
夫は顔を上げ、軽く眉根を寄せる。
「……そうだったか?」
「そうですよ」
妻の目から涙がこぼれる。
「……うれしい」
ハンカチで涙を拭いながら、妻はつぶやくようにそう言った。
聖女が感謝を口にした時、世界のどこかで、口下手で不器用な男が長年連れ添った妻に初めて『ありがとう』と伝えるのである。
翌朝、出社した私を迎えたのは一つのニュースだった。総務課の宮下主任が東京地検特捜部に連行され、取り調べを受けているというのだ。だが私は驚かなかった。なぜなら、予兆はあったのだ。昨日、宮下が小野さんに仕事を押し付けた直後から。
昨日、午後三時三十分。衆議院予算委員会で一つの議案が審議された。宮下主任は小野さんを都合よく利用しているのではないか――俗にいう、『宮下調子に乗ってんじゃないの問題』である。国会は宮下の態度をかねてから問題視していたのだが、この日さらに宮下が小野さんに仕事を押し付けたことで緊急動議が提出され、集中審議の結果、全会一致で『宮下は調子に乗っている』との決議が採択された。それを受けて東京地検特捜部が今朝、宮下を連行したのだろう。聖女に関わる事案について、東京地検の動きは素早いのだ。
愚かなり、宮下一郎。他人の優しさに付け込み、他人を利用して恥じぬ醜い心がこの事態を呼び寄せたのだ。後悔してももう遅い。己の痴れた性根を悔やみながら歴史の影に消えてゆけ。
「おはようございます」
小野さんが清しい声で出社を告げる。私は邪悪な笑みを収め、さわやかな笑顔で小野さんを迎えた。
総務部の小野さんは聖女である。彼女の持つ力は本人の意図を越え、世界のどこかで誰かをそっと幸せに導く。彼女は今日も、野生動物と、同僚と、公安と国会と東京地検に見守られつつ、日常に小さな幸せを見出しながら、総務の仕事に励んでいるのである。
聖女ってこんなんでいいんでしたっけ?