餓えた獣1
おかしいと初めに思ったのは、成人して二回目の満月の日だった。
成人前は昼間には毎日会えていたのに、最初の満月の日は用事があって出かけているからと言われて。昼間なのにそんなこともあるのかと、その時は純粋に思ったのだ。けれど、二回目の満月の日は違った。満月のせいで少し体調を崩したので、と言われたのだ。
「今までは大丈夫だったのに?」
そう使用人に問いかけた時、ほんの少しだけ視線が揺れたのを私は見逃さなかった。そこで確信したのだ。何か隠している、と。
だから決めた。三回目の満月の日、本人に会えないのなら別の方向から攻めてみよう、と。
* * *
「思っていた以上に、早かったですね」
昼間でいいからサーシャ様かお義母様に会いたいと使用人に事前に伝えていた私は、三回目の満月の日の昼、すんなりとお義母様の部屋に通されて。開口一番、そういわれた。何のことかと首を傾げた私に、お義母様は少し困ったように苦笑してみせる。
「あの子が…ハイルが、あなたは鋭いからと言っていたのですよ」
その言葉に、やはりと思う心となぜと思う心がぶつかってわずかに軋んだ。思っていた通りに何か隠しごとをされているのが、これで確実になったのに。それをハイルに教えてもらえなかったことが、何よりも私の心を揺らす。
「でもまだ三回目ですよ?鋭いにしても限度があります。あの子も、分かっていて念押ししていましたね…」
独り言のように小さく呟かれた言葉には、少しだけハイルに対して恨みがましい気持ちがこもっていたような気がする。けれどその容姿と相まって、少しむくれているだけのように見えるお義母様は、確実に可愛らしい方だと思うのだ。もちろん、とても美しい女性でもあるけれど。
「お義母様、教えていただけませんか?どうして満月の日、ハイルは私に会ってくださらないのか」
「あなただけではありませんよ。あの子は、あなたと婚姻の日を迎えるまで、満月の日は一日誰にも会いません」
「え…?」
どういうこと?と呟くことも出来ずに、思考が止まる。確かに満月の日は、魔力が引き出されて安定しないから夜は会えないといわれていて、これまでもずっとその日だけは夜に会ったことはない。それこそ幼いころからずっと。
けれどこちらの世界に来てから満月の日でも昼間、もっと正確に言えば月が見えるまでの間だけは、いつも会ってくれていたのに。それがなぜ急に?
「リーファ、あなたはどこまで分かっていてわたくしの所に来たのですか?全て説明いたしますから、先にそれを教えていただけません?」
わずかに微笑みながら首を傾げるその顔は、どこか母の顔をしているように見えた。
「なるほど。あなた自身の成人後からだと分かっているのですね。であれば、今からすべてお話しますから、明日以降ハイルと直接話し合った方がいいですよ」
そう前置きをしてから、お義母様は教えてくださった。私がまだ知らなかった、ヴァンパイアの世界の掟を。
「この世界において、女性が婚姻を結べる最低年齢はいくつか知っていますね?」
「十八ですよね?」
「そうです。では、その理由については?」
「肉体年齢が止まってしまうからだ、と。婚姻すら女性を人間からヴァンパイアへと体を変化させる儀式なのだとハイルから聞いています」
「そう、儀式なのです。ある意味、ヴァンパイアにとって最も神聖な」
だから、とお義母様は続ける。だから、それまでは唯一の血を飲むどころか牙を立てることさえ許されないのだと。
けれどヴァンパイアという種族は、唯一である女性が成人を迎えるとその身から放たれる甘い香りをより強く感じてしまうのだとか。普段はそれでも問題なく過ごせるらしいが、満月の夜だけは違う。もともと満月の日は昼夜関係なく、魔力が引き出されて制御が効きにくくなる。それに成人を迎えた唯一が加わると、手が付けられなくなるらしい。これは婚姻後も変わらないのだとか。
「距離が近ければ近いほど、その制御は効かなくなります。婚姻を済ませてあれば、唯一の血を摂取して落ち着くので問題はないのですが、今回のように婚姻前の成人した唯一が同じ邸内にいるとなれば…」
「制御する方法が、ない……?」
「その通りです」
しかもここ何代かのクラシカ家では、そのようなことがなかったらしい。だから昼ですらどうなるか分からないからと、ハイルは自主的に丸一日誰にも会わないという選択をしたのだとか。
けれど…。
「会えない理由は、分かりました。けれど、それならばハイルはどちらに行かれたのですか?今のお話の流れから察するに、お義父様もノエル様も満月の夜は唯一の女性とお過ごしなのでしょう?そうなればハイルを抑えられる人などいらっしゃらないのではありませんか?それとも、一人籠れるような場所が存在するのですか?」
「…………リーファ、あなたは……本当に、察しがよすぎます……」
片手で顔を覆って、はぁ…とため息をつくその姿は、ハイルにそっくりで。あぁ、彼のあの癖はお義母様譲りだったのねと、関係ないのに妙に納得した。
「どのヴァンパイアの家にも、対策用の場所はあります」
「どこに、ですか?」
その浮かない顔色から、あまりいい場所ではないような気はしていた。人間の貴族としての考えから行けば高い場所か低い場所のどちらかが有力だが、どちらも自主的に籠るためというよりは、罪人やそれに近い者を閉じ込めておく場所なのだ。そして、今回の件はどちらかといえばそれに近いような気がする。力の制御が効かない者を閉じ込める場所。そう、例えば……
「地下牢です」
予想していた答えに、あぁと納得してしまう。やはり地下になるのか、と。けれど今お義母様は、牢と言った。それは、つまり…。
「閉じ込めるだけではなく、繋いでいるのですか?」
「っ…どうしてそんなに鋭いの…!!」
どうして?だって閉じ込めるだけでいいのならば地下でなくてもいいし、ましてや牢だなんて使う必要がない。それなのにそんな言葉が出てくるということは、そういうことではないか。しかも彼に至っては、自ら望んで一日牢に繋がれているというのだから。
「私が、このお邸にいるせいですよね…」
距離が近ければ近いほど制御が効かないならば、同じ邸にいなければ多少は制御できるのかもしれない。もし可能ならば、その日一日だけどこか別の場所に移動できないかと思った私の考えを読み取ったらしいお義母様が、焦ったように言葉を重ねる。
「あなたがここから出ていってしまったら、本当にあの子は手が付けられなくなります…!!あなたを追ってどこまででも行ってしまう!この邸内にいると安心できるから、あの子は自分をぎりぎりで保っていられるのですよ!?そうでなければ今頃あなたは…!!」
「お、お義母様落ち着いてくださいませっ…私はどこにも行きませんから。むしろ可能であれば今すぐにでもハイルに血を差し出したいくらいなのですっ…!!」
「そんなことできるわけないでしょう!?それではあの子が必死に耐えている意味がなくなってしまうではないですか……」
悲しそうにそう告げられて、はっと口元を手で覆う。
そうだ、彼は私を傷つけないように、あえて自分から繋がれるという手段を選んだのだ。そんな選択をした息子のことを思っているお義母様の前で、何という無神経なことを口走ってしまったのだろう。自分の配慮のなさに嫌気がさす。
「リーファ?あなたが一日でも早くあの子に嫁ぎたいと思ってくれているのは、わたくしとしては喜ばしいことなのです。そこだけは間違えないで下さいな」
「…はい、お義母様」
伸ばされた手が、優しく頭をなでていく。あぁ、きっとこれが母の愛というものなのだろう。それがまだ婚約者という立場でしかない私にまで注がれていることに、胸の奥がほんのりとあたたかくなる。本当に、ハイルは愛されているのだと実感した。
「ねぇ、リーファ?もし二人で話し合って、何らかの結論が出たその時は…わたくしにできることがあれば、なんでも言ってくださいね?もしも満月の夜にわたくしが必要になれば、夫には早めに血を飲ませて動くことも可能ですから」
「いえ、あの…流石にそこまでしていただくわけには……」
仮にも、この世界の王である人に対してそんなことはできないと思ったのだが。ころころと目の前の美しい女性は軽く笑うと、
「あの方も、たまには満月の夜につらい思いをなさればいいんだわ」
そう、妙に実感のこもった声でおっしゃられた。
何だろう、この逆らってはいけない雰囲気は。と、いうか……一体満月の夜、ヴァンパイアの夫婦には何があるというのか…。知りたいような知りたくないような、微妙な気持ちを抱きつつ。とりあえず今は聞くべきではないと判断した私は、きっと間違っていなかったと思う。
翌日のお昼過ぎごろ、使用人たちが眠ってしまっているので直接訪ねてきたハイルに備え付けの応接室でお茶を淹れつつ、どう話を切り出そうかと迷う私に声がかけられる。
「おや、茶葉を変えましたか?」
「えぇ。今まで愛用していたお店の新作なのですって。私は香りが気に入っているのだけれど、ハイルはどうかしら?」
「とてもいいと思いますよ。強すぎずふわりと鼻を抜けていく香りが、今までのもの以上に上品なものになっていますし」
柔らかく微笑んで、私のお気に入りの茶葉をそう評価してくれる。こんな風に喜んでもらえるたびに、お茶を淹れる勉強をしていてよかったと思うのだ。令嬢としてはあまり喜ばれなかったけれど、二人きりでしか会えない誰も知らないこの人と、いつか一緒にティータイムを楽しめたらと思って始めたのだから、その甲斐はあったといえるだろう。
「……母上から、聞きました」
そんな穏やかな時間を一瞬で塗り替えるような言葉が、彼の口から発せられる。思わず手をぎゅっと握りこみつつ、ゆっくりと息を吸い込んでから口を開いた。
「確かにお義母様と昨日お話しましたが、直接ハイルと話し合うようにと言われているのです。きっと全てをお話してくださったわけではないのでしょう?」
確信があったわけではないけれど、あながち間違ってもいなかったのだろう。昨日のお義母様とやっぱりそっくりなため息をついて、困ったように彼が苦笑したから。
「やはりあなたは鋭すぎます。できることなら、ずっと知らぬまま婚姻の日を迎えて欲しかったのに」
「あら、随分とひどいことを言うのね。妻となる相手に隠し事をしていたかった、なんて」
「隠し通せないと分かっていたので、ただの願望です」
「それでも、よ」
愛する人に「あなたには隠しておきたかった」などと言われて喜ぶような方は、人間どころかヴァンパイアにだっていないだろうに。
「分かっています。分かってはいるのですが……それでも、あんな醜い姿の私の存在など、知らないでいて欲しかったのです」
「醜い…?ハイルが…?」
こんな、絶世の美貌をもったこの人をして、醜いなど。本人と他人とでは、大きな認識の違いがあるのではないか。
そんな私の予想を嘲笑うかのように、自虐にも似た表情でハイルは語る。
「あの姿を見れば、嫌でも分かりますよ。ただただ血を求め、理性のかけらもない…餓えた獣のような姿を見れば、ね」
「獣……」
「私も母上も、伝聞では知っていても本当に何が起こるのかなどは知らなかったのです。だから念には念をと地下牢に鎖でつながれることを選んだのですが…満月の夜が終わって、あれほど自分の選択に安堵するとは思いませんでしたよ。もしもあんな醜く卑しい獣の姿で貴女を襲っていたらと思うと……きっと後悔などという言葉では足りなかったでしょうから」
そう言って伸ばされた手に、私は無意識のうちに頬を寄せる。優しく親指でするりと頬を撫でて、その動きの延長で唇まで撫でたと思えば、次の瞬間には顎をとらえられ唇を塞がれていた。
「ふ、っぁ……」
優しいだけではないそれは、満月の夜の衝動の残りなのか。いつも以上に激しく求められて、座っているのに体が支えられなくなりそうで。無意識に彼の胸元に縋りついていた手から、徐々に力が抜けていく。それでもまだやめる気はないようで、強く抱き寄せられたと思えばさらに深く探られる。
「んふ……んっ…ぁ……」
「リーファ……」
ようやく解放されたと思えば、せつなそうに名前を呼ばれて。ちろりと赤い舌先が私の唇を舐めたかと思えば、少し体を離したハイルがまっすぐに私を見ながら自分の口元に先ほどの親指を添えて、今度は濡れた自分の唇をゆっくりと舐めた。
その、あまりにも強すぎる色気に。先ほどまでの行為で早鐘を打っていた心臓が、どくりと跳ねる。落ち着く暇も与えられないまま、今度は違う要因で早鐘を打ち続けさせられる。
「貴女がおかしなことを言い出す前に、見せてあげますよ。貴女だけをひたすらに求めて、理性すら吹き飛ばした正真正銘の獣と化した私の姿を」
どういう意味で?とは、聞けなかった。精神的にではなく、肉体的に。
いつも"味見"と称して伸ばされる舌が、今日もまた彼曰く「甘い蜜」を存分に味わっていったから。
後日。
この日もまた"味見"されて、くたりと彼の胸に体を預けていると。
「次の満月の夜は、母上にお願いしてありますから」
そう言われて、ようやく「見せてあげます」の意味を私は理解した。