餓えた獣 プロローグ
ガチャンと、重く無機質な音が響く。
「あとはお願いしますね、母上」
「えぇ……」
鍵を握ったまま、何か言いたそうに見つめてくるその表情に、ハイルは苦笑で返す。
「私の唯一を守るために必要なことなのです。どうか、そんな顔をしないで下さい」
「分かっていますよ。分かっていますけれど……」
「ここが今まで使われなかったのは、単に運がよかっただけなのです。本来の形としては何も間違っていませんから」
「それは、そうですけれど……だからと言って、ハイルあなたが…!!」
「リーファをお願いします」
息子の強い瞳に何も言えなくなって、彼女はぐっと唇をかみしめる。
「母上にしか頼めないのです。ですから、そんな顔をしないで下さい。私のせいで母上に血を流させては、あとで父上に叱られてしまいますから」
今度は困ったように苦笑しながらも、そんな風におどけてみせる。そんなハイルは冷たい印象を与えるような色彩を持ちながら、本当はとてもやさしい子なのだと彼女は知っていた。優しいからこそ、自分を犠牲にしてしまうところもあると。
「どちらかといえば喜ばしいことだと思うのですが…ようやく彼女が成人を迎えて、また一歩婚姻の日が近づいたというのに。母上は喜んではくださらないのですか?」
「リーファが成人を迎えたことも、あなたの婚姻に関しても喜んでいます。とても喜ばしいことですが、それとこれとは別物でしょう…!!」
耐えきれずに言葉にすれば、目の前の息子はさらに困った顔をして母を見つめる。
「別では、ないんです。私にとって最も大切な女性を、私自身の手で傷つけないために必要なのです。たった二年ですから、大丈夫ですよ」
「あなたは、いつもそうやって…!!」
「いつもではありませんよ。私にとって本当に大切な存在が関わらない限り、私自身が動くことはありません。どちらかといえば、手も口も出さない方ですよ?」
「その大切な存在が、この家の中にはたくさんあるでしょう!?」
「むしろ、自ら動こうと思える存在は外に存在していませんけれどね」
ポンポンと交わされる軽口のようなやり取りは、二人の間にあまりにも温度差がありすぎた。張本人はあっけらかんとしているのに、それでも心配してしまうのは母の愛なのだろう。
「母上」
呼びかければ、真剣な表情をした美しい女性と視線が交わる。ふと、この人の身長を追い越したのはいつ頃だっただろうかと何の脈絡もないことを考えた。
自分たち兄弟の母でありながら、若く美しい外見のその人は、現王の最愛の妻。ヴァンパイアの感覚で言えば、強い者の伴侶が美しいなど当たり前だった。だがそんなこともまだ知らない幼かった時ですら、周りの使用人たちとは比べ物にならないほどにこの人は美しかった。そしてそんな母を溺愛している父を見て、いつか自分もと思ったのだ。
その、唯一が。今はすでにすぐそばにいる。
それならば、何も迷う必要などない。
「リーファは、とても鋭い女性です。何度も同じことが続けば、彼女はすぐに気づいてしまうでしょうから、その時はお願いします」
「……知らせない、つもり?」
「できる限りは。どんな形であれ、彼女を傷つけたくはありませんから。ただ……隠し通すことも出来ないと思っています。なので、もし彼女が真実を知りたがったその時は、話していただいて構いません」
きっと、すぐに彼女は真相にたどり着いてしまう。そういう女性だと、よく知っている。
だからせめて、ほんの少しでもいい。一回でも多く、彼女に気づかれないように。"例の姿"を、見られずに済むように。
いつか知られてしまうと確信を持ちながら、それでも矛盾した願いを抱かずにはいられなかった。
どうか、知らないままでいて欲しい、と――