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通行止めのその先に

作者: M.I

 片側三車線になって市街地を迂回して走りぬける国道のバイパス線を、ものすごいスピードで殆ど途切れることもなく次々と車が走り抜けてゆく。高架の上なのでパトカーが潜んでいそうな場所がないことと、人が歩く場所ではないという理由から、工事中にもかかわらず減速する車は殆どいなかった。そんな様子は、まるで高速道路上とあまり変わらないような雰囲気でもあった。畳一畳ほどもあろうかという赤旗は風の抵抗を受けると重たかった。でも重たい旗を振り続けることをやめると、たちまち危険が自分の身に近づくのだ。

高架橋の上での工事は一つの車線をつぶしておこなわれていた。沙希の役割は、三車線で走って来る車列を幅寄せして二車線に縮減させることだった。工事車両が何台も止められ、大きな立て看板はあったが、高架を下った場所なので、通行している車からは、高架の最上部に上がりきった時に初めて視界の中に工事の様子が見えてくるのだから、先を急いでいる車にとっては、結構突然に車線減少に行き当たるような感覚だった。沙希が立っているのは、工事区間の最先端の場所であり、そこから斜めに車線を減少させる突端にあたっていた。はっきり言えば、前方不注意の車がいたなら、真っ先に突っ込まれる極めて危険な場所だった。大きな移動用の工事看板の横に立ちながら、自分の方に向かってくるドライバー達に向けて、沙希は無心で大きな赤旗を振り続けた。工事関係者は自分達の作業に忙しく、誰も沙希の方を気にする者もなかった。一人で立ち続けている孤独感を紛らわせてくれたのは、すぐ横に立てられた、プラスチック製の工事用の真っ赤な三角コーンだった。高さは沙希の身長と同じ位だったから、考えようによっては、そこに一緒に立って、車両の誘導をともにしてくれている仲間のような気もした。

「若葉マークの警備員をこんな危ない場所に立たせるなんて、ありえないよね」

 珍しく車が途切れたところで、沙希は物言わぬ三角コーンに向かってそう問いかけた。日払いのアルバイトで入った沙希にとって、ここが初めての現場であり、その日が初出勤だった。

「そろそろ疲れただろう、かわろうか」

 後ろから声をかけてきたのは、一緒にこの現場に派遣されて来ていた森山だった。元は大きな企業のそれなりの役職にあったという話を別の人から聞いていた。そう言われれば、そう思えるように、森山の人柄は穏やかではあったが、自分を持っているというのだろうか、顔付きにも態度にも自信のようなものがにじみ出ていて、沙希にとっては頼りがいのある存在に見えた。ぶつぶつ独り言を言いながらでも立っていられるのも、後ろに父親のような森山の存在を感じている安心感からでもあった。

「ありがとうございます」

 紳士的な態度で接してくれる森山に対しては、沙希も自然と素直になれた。

 森山と入れ替わって縦に長く伸びた工事現場の中央付近に移動した沙希の立ち場所は、実際に工事をおこなっている作業員達のすぐ横だった。そこでは四人の作業員が一心に作業をおこなっていた。沙希が少し警戒しながら近づいた時に、沙希の方へ視線を向けた若い作業員が、ちょっと驚いたような表情を見せただけで、また何事もなかったかのように黙々と自分の仕事に没頭し始めていた。他の中高年の作業員達は、それこそ沙希のことになど全く関心を示さないかのような様子で、高架橋の接合部分の修復に余念がなかった。若い女だといってひやかされるだろうことを予想していた沙希にとっては、そんな現場作業員達の様子は全くの予想外であり、何だか拍子抜けするような思いではあった。

すぐに、自分のすぐ横をすごいスピードで通り抜けて行った車の気配で、沙希はそこにある現実を身にしみて感じた。そこにいる誰もが、沙希のことに関心を寄せていられるような状況ではなのだということに気がついたのだ。

 アスファルトからの夏の照り返しは想像以上に暑く、肌が焼けるような感覚を感じた。緊張感もあって、沢山の汗が顔を流れ落ちた。あまりの息苦しさのため、化粧くずれを気にする余裕もなくなり、その場に座り込んでしまいたような心境にもなっていた。

「もうこのアルバイトは今日でやめよう」

 沙希がそう決心した時、不意に後ろから肩をたたかれた。不審に感じながら振り向くと、さっきの若い作業員の日焼けして汗にまみれた、怒ったような顔があった。自分が何らかのミスをおかしてしまったのかと思った沙希に向かって

「ほら、飲みなよ。脱水症状で倒れるぞ」

 といって、ペットボトルのお茶を差し出した。沙希がためらっていると

「ほら」と言って更に沙希の方へと近づけた。自然な流れで沙希が受け取ると、若い作業員はすぐに振り向いて行ってしまった。沙希はあわててその後ろ姿に向けて

「ありがとうございます」

 と言ったが、作業員は振り返ることもなかった。相手に対して警戒心さえ持っていた沙希にとっては、予想外の出来事だったので、暫らくは不思議な現象が起ったかのような感覚にとらわれた。

もらった冷たいお茶を一気に飲むと、その日初めて、ようやく自分の気持ちが少し冷静になっていくような気がした。少し離れたトラックの日陰では、作業員達が路面に直接座り込んで休憩している姿が目に入った。皆と同じ時間を共有することによって、ようやく自分がこの現場の一員として認めてもらえたような気がして、沙希は何だか安堵感を覚えた。同時に、ここで危険な状況に身をさらして一緒に働いている作業員達の安全を見守るのは、自分しかいないのだという責任と使命感の重さも感じた。

 夕方ほっとして気が抜けたような気分で警備会社の事務所へ戻ると、経理の女性から、その日の日当の入った茶封筒を手渡された。

「お疲れ様でしたね。よく頑張ったわね」

 そう言われて改めて、自分にとっては壮絶な体験でもあった初日の勤務が終ったことを実感し、人が働くということの重さも身にしみて感じたような気がした。

 翌朝はいつもよりもずっと夜明けが早く感じられた。目覚まし時計に起こされたのは四時半だった。朝が来たことに気付くと、大学の講義の様子や昨日の道路上での出来事やらが、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていて、今日のこれからの自分の行動を考えるのに少しの時間が必要だった。まもなく思考が行きついたのは、今日もまた、警備員のアルバイトという全く嬉しくはない現実が待っているという事実だった。

五時半に部屋を出るためには、とにかく慌ただしい準備が必要だった。汗で流れるだけだと思ったから、日焼け止めだけを腕と顔にぬって、化粧はしなかった。白いヘルメットをかぶって道路に立ち、道行く人にその姿をさらすためには開き直りも必要だった。昨日よりもまた少し強くなったような自分を沙希は感じた。六時に事務所に入ったが、先輩のおじさん方は大方集まって来ていた。

「森山さん、このお嬢さんはどうだい」

 面接の時に、殆ど何も言わないまま沙希を採用してくれた部長は、人の良さそうな笑みを浮かべながら、先に事務所に入っていた森山にそう尋ねた。

「いや、いや、度胸がすわっているから、いい警備員になるよ」

 森山は結構真面目な顔でそう答えた。大学卒業を前にして必死で就職活動を続けたが採用に至らず、仕方なく始めたこのアルバイトをいつまでも続けるつもりは、沙希には勿論なかったが、あえてその場で否定することもなかった。

「昨日は必死でした。森山さんがいてくださったから無事に帰ってくることができましたよ」

 それはお世辞ではなく沙希の本音であった。

「確かにな、昨日の現場はちょっときつかっただろうな。どうしても人数が足りなくってさ、申し訳なかったよ」

 部長はそう言って笑って見せたが、沙希にとっては笑える心境ではなかった。あんな仕事が毎日続くなら、すぐにでも辞めようかと本気で考えていたのだから。

「今日はもっと楽なところへ行かせてあげられるからな」

 部長は、相変わらず笑顔だったから、沙希にしても半信半疑だった。

「但し、ちょっと遠いけれど辛抱してくれ」

 その言葉で、部長の笑いの意味も理解できたような気がした。

 その日の同行者として紹介されたのは、大田というまだ若い感じの男だった。定年退職後のおじさんばかりかと思っていたところで、いきなりまだ三十代くらいの男性を紹介されたことによる戸惑いと、その男と二人きりで遠くの現場へ派遣されるという不安感を沙希は思った。信頼できそうな森山と別々になることは残念な気もしたが、今後は様々な人と共に働くことも覚悟しなければならないと思いを改めた。

「学生なのかい?」

 車で事務所を出発するとすぐに大田は話しかけてきた。

「ええ、そうです」

 まだ警戒心のとけない沙希は、そう短く答えた。

「なかなか大変なアルバイトだろう」

「そうですね、昨日は結構暑くて大変でした」

「冬は冬で寒くて大変なんだよ」

「そうかもしれませんね」

 素っ気無くそう答えながら、沙希は、冬までこんな仕事を続けているはずがないじゃないと心の中で思った。いや、絶対にあってはならないことだと強く心を決めた。沙希があまり愛想がよくないので、大田はそれ以上に話しかけなかった。エアコンが効き始めた車内は心地よく、沙希は知らず知らずに居眠りをしていた。昨日の初出勤の緊張感がとけてきたことによって、一気に疲労も出てきたのだ。

 沙希が目を覚ました時に、車はどこかの田園地帯の中を走り続けていた。

「すいません、私居眠りしちゃったみたいで」

 大田がどういう性格なのかまだ分らないということもあって、沙希は先手を取って素直に詫びた。

「構わないさ、昨日の初出勤の疲れが出たんだろう、現場まではもう少し時間がかかるから、眠っていてもいいよ」

 二人きりでいる時の男性の優しい言葉を素直に受け取ってばかりもいられないことは、沙希も分っていたが、とりあえずは、大田が見た目通りの穏やかそうな人柄らしいことを感じて、警戒心は少し緩んだ。そんな沙希の気配は、狭い車内では大田にも敏感に伝わったから、大田はまた話し始めた。

「森山さんはいい人だろう、僕も世話になっているんだ」

「ええ、とっても親切でいい方だと思います」

「森山さんは、今日も君を連れていきたかったみたいだけれど、あそこは危ない現場だからね、今日の現場は、少しはましだと思うよ」

 大田の口調は、その人柄を示すように穏やかだった。これからの行き先が沙希には気にかかったが、今尋ねたところで引き返すわけにもいかない以上、尋ねる意味もないと思って黙った。大田もまた黙ってしまった。車窓の風景から、随分と郊外へ来ていることは分った。

「さあ着いたよ」

 大田が車を停めたのは、新しい家が立ち並ぶ住宅団地の一画に残る広い空き地だった。数台の乗用車とダンプ、そして工事用の重機があり、端の方にはプレハブ小屋が建っていた。昨日とは異なる雰囲気の現場に着いたと思うと、再び緊張感が沙希の身体をおおった。

「静かな住宅地だから、気楽にやればいいさ」

 表情が固くなった沙希の様子を見て、大田は先輩らしい気遣いをみせた。見知らぬ現場の中にあっては、沙希にとって頼れるのはこの大田だけだった。その大田は、先にたって、工事事務所のプレハブ小屋へ入った。中には、作業服を着た男達が四人いた。

「おはようございます」

 大田と沙希がそういって挨拶をすると

「オイース」という柄の悪そうな答が、どこからか返ってきた。順番に男達の顔を見渡したが、真っ黒いサングラスをかけた男もいて、どの顔も怒っているかのように怖いものに沙希には見えた。

「今日は新人のお姉ちゃんかい。大丈夫かい」

 一人がからかうようにそう言ってきたことに対しては

「昨日は国道バイパス線の厳しい現場を経験して来ているから、全然大丈夫ですよ」

 と、大田が答えてくれた。

「そうか、それは勇ましいな」

 サングラスの男は白い歯を見せたが、目元の様子は分らなかった。

「大田君がそういうなら大丈夫だ」

 別の少し歳のいったような小柄な作業員が笑いながらそう言った。

 大田が、既にここの作業員達とは良い関係を築いているらしいことを感じて、沙希も少し安心した。

「よし、行こうか」

 柄の悪そうなサングラスをかけた男の一言で、皆立ち上がった。時間は朝の八時丁度だった。その男は、この班の班長で山本という名だと大田が教えてくれた。山本は空き地においてあった重機に飛び乗るとエンジンをスタートさせている。別の男は既に四トンダンプの運転席にいた。他の二人は、それぞれに資材や道具を運んでゆく。大田の動きも素早かった。道の端に寝かせてあった工事中の立て看板を起こして、土嚢でつくった重りをくくりつけながら、もう一つを同じように立てるよう、沙希にも指示をだした。土嚢は想像以上に重たかったが、いざ仕事となると、たちまち別人のような動きをみせ始めた男達の中に混じっているという気負いからか、沙希の気持ちも身体も充実感に満たされてゆくような感じがした。

「八時半からは、この道を両側で通行止めにするから、君はここに立っていて。通してもいい車両は、途中の住民と、途中に用事のある車両だけ。一旦ここで止まってもらって、行き先を確認して、関係のない車両については迂回をお願いするんだ。あとはお互いに無線機を持って必要な時には連絡を取り合う、いいかな」

 大田の指示は適切で分りやすかった。とは言え、頼みの大田が、重機の移動について、ずっと離れた工事現場の方へと歩いて行ってしまう後ろ姿を見ていると、沙希は急に不安な気持ちになってきた。初めて来た見知らぬ住宅街の中で、一人で立っていなければならないのだから。

何だか落ち着かない気分でいると、学校へと向かう小学生の一団が通りかかった。

「おはようございます」

 子供たちは口々に礼儀正しく、見知らぬ沙希に向かって挨拶をしてくれた。沙希もひとりひとりに挨拶を返しながらも、何だか子供達に不安な心の内を見透かされて、励まされてしまったような妙な気分であった。程なく、ずっと遠くの方に小さくその姿が見えている大田から無線の連絡が入った。

「そろそろ通行止めを開始するので、看板を正面に出して」

「了解しました」

 不安な沙希は、大田の指示には素直に従いたいような気分になっていた。車一台だけが通れる幅を残して二枚の看板を重い土嚢で固定すると、その通路部分をふさぐようにして、沙希は道の中央に立った。古代ローマの門番か、あるいは江戸時代の関所の番人にでもなったような緊張感が体中にみなぎってきて、自分の表情がこわばっているのを自分でも感じた。

最初にそこに来たのは白い軽自動車だった。まるで沙希の様子を伺うかのようにゆっくりと、しかし確実に真っ直ぐに沙希の立っている方へと近づいてくる。

「通行止め、通行止め、誰も通しちゃいけない。いや、住民だけは通してもいい」

 沙希は呪文を唱えるようにそんな言葉を繰り返した。その軽自動車は沙希が立っているずっと手前で、どちらかといえば遠慮がちな様子で止まった。が、誰も降りてくる様子もなかった。仕方なく沙希が近づいてゆくと、窓から顔を出したのは、どこの町内に沢山いそうなおばちゃんだった。気さくな感じのおばちゃんの顔を見て、沙希はとりあえずほっとした。

「ここ通れないの?」

「ええ、申し訳ありませんが迂回をお願いしています」

 沙希は、立て看板を指し示しながら迂回路を説明したが、

「私、方向音痴だから迂回路はよく分らないわ。それにバックもできないし」

 おばちゃんは、何とかこの道を通過したい様子であった。沙希にしても弱音を吐かれると心苦しいような気もしたが、この道の先には工事現場の大穴が開いているのだから、何としても通すわけにはいかなかった。沙希の誘導で車はバックしながら空き地で方向を変えたが、確かに危なっかしい運転ではあった。来た道をゆっくり戻って行く軽自動車の姿を見送りながら、沙希は、何だか自分がひどく悪い事をしてしまったような気がして、少し憂鬱な気分になった。

 十分くらい経ったころ、次の車がやって来た。今度はすごい勢いで走ってきたかと思うと、直前で急ブレーキをかけて止まった。明らかに悪意がある嫌がらせに思えた。ドアには会社名が入っていたから、業者の車らしかった。窓を開けて顔を出したのは、三十歳くらいの男だった。

「おい、通れないのかよ」

「はい、申しわけありません」

「それならもっとずっと前の方から看板を出しておけや。ここまで来させておいて、通れないという話はないだろう」

 男は舌打ちをして沙希をにらむと、急発進で向きを変えて別の道へ向かった。沙希が止めているところは交差点であったから、そこから左右に迂回することはそれ程大変なことでもなく、男の態度は嫌がらせにしか思えず、次第に悔しさがこみ上げてきた。大田や工事関係者がいる実際の現場は、沙希の立っている場所からはかなり離れていたから、自分だけがひとり離れて取り残された場所で、苦情ばかりを聞かなければならないような不条理さを沙希は感じた。しかし、すぐに思い直した。大田は、重機やダンプがせわしなく動き回って大きな穴を掘り続けている危険な場所に沙希を立たせるのではなく、住宅地域の中の静かな場所に立たせてくれていることに気が付いたのだ。そう、車さえ来なければ、この場所はそんなに気を遣うこともないのだろうし、嫌な思いをすることもないはずなのだから。沙希は気を取り直して、赤い警備棒を持ち、道をふさぐ格好で中央に立った。妙な覚悟と緊張感が身体にみなぎってくるような気がした。

 沙希の覚悟をはぐらかすかのように、しばらくは何事も起こらず、歩行者が遠くの工事現場の方へ視線を送りながら通過して行くくらいで、静かな時間が続いた。

「私は、なんでこんなことをしているのかしら」

 段々と気温が上がり始めてきた夏の青空を見上げると、何だか虚しさがこみ上げてきた。大学を卒業したからといって、これといって就きたい職業も思い浮かばなかった。でも就職活動だけは当たり前のように続けてきた。何社も何社も応募したが、結果は思わしくはなかった。大学を卒業していれば、それなりに就職はあるだろうと考えて選んだ文学部だったが、現実は思いもよらない結果が待っていた。

 友人達と一緒に車に乗っている時に、郊外でたまたま女性の交通誘導員を見かけた時、

「他にいい仕事ないのかしらね、何だかかわいそうよね」

 とか

「でも水商売に入るよりは、外で働く方が健康的よね」

「すぐ日焼けして真っ黒になっちゃうわよ。それにアスファルト焼けって綺麗くないし」

 などと、人事のように言っていたものだった。それが、まさか自分がその立場になろうとは思ってもいなかったものだった。

そんな感傷感にひたる沙希の前を、手押し車を押した腰の曲がったおばあさんが横切っていった。それは静かな住宅街においては、日常的なごくありきたりな風景に沙希の目には映っていたから、さほど気にも留めなかった。だがすぐに、そんな風景は非日常の出来事に変わった。ゆっくりゆっくり移動していたおばあさんが押していた手押し車が、ひとりで動き出したのだ。持ち主のおばあさんはといえば、支えを失ったかのようにゆっくりと前かがみになったと見る間に、道路の暑くなったアスファルトの上に倒れ込んでしまった。沙希はあまりの暑さのために自分の意識がもうろうとしてきてしまったのではないかと思った。が、目の前で起こっていることが現実であることにすぐに気が付いた。辺りを見回したが、頼りにしている大田はずっと離れた場所にいて、小さく姿が見えているだけであり、他の工事関係者もずっと離れた場所にいた。通行人の姿も通りかかる車の姿もなかった。

「おばあさん、大丈夫ですか」

沙希は倒れているおばあさんに駆け寄って、おそるおそる声をかけてみたが、何の反応も示さずに動きもしなかった。仕事とは違う緊張感が身体中に走るのを感じながら、沙希は少し震える手で自分の携帯から救急車を呼んだ。二、三分ほどで到着した救急車に手押し車と一緒に乗せられるおばあさんの小さな姿を見ていると、沙希は何だか無性に悲しい気分になった。

「どこの病院に向かうのですか?」

 無意識のうちに自分でも思ってもいなかった言葉を沙希は発していた。救急隊員が教えてくれた病院を沙希は知らなかったが、頭の中で復唱して覚えた。そうしなければならないような気がしたのだ。程なく大田から無線が入った。

「救急車が見えるけれど何かあったのかい」

 大田の語気にもさすがに張り詰めたような緊張感があった。沙希は勤めて冷静な口調で、

「事故ではないのですが、通行人が急に倒れて病院に運ばれました」

 と、現状を簡潔に報告した。

「そうか、事故でなくてよかったよ」

 大田の少し安堵した様子が伝わってきた。沙希もまた大田に報告したことによって、自分の肩にかかっていた重みが随分と軽くなったような気がした。

 昼食時には看板だけを残して全員がプレハブ小屋へ戻った。炎天下にずっと居続けることは誰の身にもこたえたから、少しの時間だけでも涼をとることは必要だった。

「姉ちゃん、さっきは何かあったのかい?」

 小屋に戻るといきなり見知らぬ中年男がそう話しかけてきた。沙希がけげんそうな表情を見せると

「山本さんだよ、いきなりサングラスをはずしたから誰だか分らないのだろう」

 大田が笑いながらそう言った。確かに見るからに人相の悪そうに見えていた山本の印象とは別人のような、優しい眼差しの男がそこに座っていたのだから。

「ええ、本当に山本さんなんですか」

「そうさ、これが俺の素顔さ」

 そう言いながら笑って見せる山本の表情は、町内の人のいいおじさんのような穏やかさがあった。

「何だか別人みたいですね」

 沙希は自分の率直な感想を述べた。

「姉ちゃん、俺のことよっぽどの注意人物と思っていなかったか、まあそう思われても仕方ないけれど」

 山本は人の良さそうな笑顔を見せた。

「さっきは本当にびっくりしましたよ。いきなりおばあさんが私の目の前で倒れちゃったんですもの」

「俺達もびっくりしたよ、救急車が来るんだからな。お姉ちゃんが倒れたのかと思ったよ。でもこの暑さだからね、年寄りにはきついんだろうな」

 別の工事作業員が沙希の言葉を受けた。そんな何気ない会話の中にも、自分がこの現場の一員として認めてもらえているような気がして嬉しかった。

「でもなんであんたみたいな可愛い姉ちゃんがこんな仕事しているんだ。他にもバイトならいくらでもあるだろうに」

 また別の作業員が沙希に尋ねてきた。

「大学卒業したけど就職できなくて」

 沙希は本当のことを皆の前で言った。

「俺達はさ、もういい歳になったから今さら転職は難しいけれど、あんたならまだまだいろいろな仕事があるだろう」

 山本のそんな問いかけに何と答えたものかと沙希が迷っていると、大田が代わりに答えた。

「今は結構厳しい状況が続いていて、なかなか就職もままならないんですよ。それに彼女は根が真面目だから、バイトなら何でもいいという感じでもなくってね、皆さんと同じように汗をかいて働きたいんですよ」

「それは感心なお姉ちゃんだな」

「自分で弁当も作れるのか、益々感心だな」

「大田君、いっそのこと嫁にしてしまえばいいだろうが」

 山本達は口々にそんな好き勝手なことを言ったが、認めてくれているという感じは沙希にとっても悪い気はしなかった。

 午後からの日差しはいちだんときつくなった。ずっと同じ場所に立ってアスファルトの照り返しを受けていると、時々めまいを感じることもあった。ただ仕事だと思えば我慢するしかないと思った。山本達だってこの炎天下ではたらいているのだから。

「おおい、大丈夫か?」

 反射的に振り返った沙希の視界に人の姿は無かった。

「山下さん応答せよ」

 不意に自分の名前を呼ばれて、沙希の意識も覚醒した。声は、肩から下げた無線機の中からだった。

「はい山下です」

「どうだい、暑さは大丈夫かい?日陰に入っていないとかなわんぞ」

 辛い状況で孤独感を感じ初めていたところで聞こえてきた、そんな大田の声は優しいものに感じられた。

「ええ、大丈夫です」

 そう答えながらも、辛いという本音を言い出せない虚しさを沙希は感じた。バイト二日目にして弱音ははきたくはなかったのだ。工事現場をはさんでずっと向こうに、確かにこちらの方を向いている大田の立ち姿が見えていた。

「何かあったらすぐ連絡してや」

「はい了解」

 沙希は、自分の気持ちの中で大田に対する警戒心が薄れて、友人のような親近感を感じていることに気が付いた。

 一人で立ち続けている時間は、果てしないもののようにも思えて来た。時々疲労と眠気で意識が途切れそうになったりもした。そんな時には意識的に中央の現場で重機の横についている大田の方へ視線を送った。ただ立っているだけの自分よりも、もっと責任ある位置に立っている大田の苦労を思う時には、仕事に対する自分の意識の甘さを感じて反省の思いが湧いてきて、体の苦痛も耐えられそうな気がするからだった。

 幸いなことにその日はあまりにも気温が高いことから、現場自体が早じまいすることになった。大田と共に挨拶かたがた日誌にサインをもらうために事務所へ向かうと、山本が笑っている。

「早く終わったからといって二人で寄り道しないで真っ直ぐ帰れよ」

 疲労の極致にある沙希には山本の言ったざれ言の意味を考える余裕すらなかった。警備会社の事務所までは片道一時間弱の道のりであった。クーラーのきいた車内で暑さと緊張から解放された沙希は、自分では気付かないままに居眠りをしていた。大田に起こされた時には警備事務所の前だった。

「すいません、すっかり居眠りしてました」

 二日目にして先輩社員に運転させておきながら、自分が眠ってしまったという不覚を、沙希は心から詫びた。

「いいよ、今日は大変だったからな。また明日も早いことだし、休める時に休んでおかなきゃ」

 大田は淡々とした口調でそう言っただけで、他には何も言わずに先に車を降りていった。沙希としては、帰り道の車の中で大田と二人きりで話せることを少し楽しみにしていただけに、何も話さないで眠っていたことが後悔された。

事務所へ入ると既に翌日の現場の配置ができていて、ホワイトボードに記されていた。少しドキドキしながら確認した沙希の気持ちは高ぶったが、表情に出ないように意識した。周囲はおじさん達ばかりだったから、どんなことでからかわれることになるかもしれないのだから。

翌日の沙希の配置先も今日と同じであり、同行者は同じく大田だった。新人の沙希であっても、その状況からは、大田が決して自分のことを仕事ができない女だとは思っていないらしいことだけは伺えたから、沙希としては嬉しかった。

いくら若いとはいえ、翌朝も疲労感はあった。が、また大田と一日を共に過ごせることに思い至ると、急に元気が出て来た。

そんな沙希の期待感に反するように、現場へ向かう大田は何を思うのか無口だった。これから現場へ向かおうという時に、沙希の方から何かと話しかけることはさすがにためらわれたから、沙希も黙ったまま時間が過ぎた。

「おぃーす、またこの姉ちゃんが来たのか」

 相変わらず人相の悪く見える、真っ黒なサングラスをかけた山本が笑いながらそう言った。山本が自分の仕事ぶりをどう評価しているのかは分からなかったが、もう来るなとか言われることもなく、とりあえず苦笑であったとしても笑って迎えてくれたことで、沙希は安堵した。他の現場作業員たちの表情にも、沙希を敵視するような様子は見えなかった。

「よし、始めるか」

 山本の声を合図に、作業員達はそれぞれの持ち場へと散った。

「じゃあ、昨日と同じように」

 短くそう言い残して、頼りの大田は山本のあとを追って現場へと走り出している。沙希は道端に倒してあった通行止めの看板を起こして、重い土嚢で固定した。白いヘルメットをかぶって警備棒を持つと、もう甘えは許されないと自分に言い聞かせてみたが、一人で現場から離れた場所に立つことはやはり不安が伴った。

 何事もないまま、朝の一時間が過ぎた。少しの曇り空が幸いしているが、夏の暑さにはかわりなかった。沙希にとっては、例えようもないような苦痛の長い時間は始まったばかりだった。

 沙希の視界の中に、静かな住宅街の中ではたまにしか通らない人の姿が入ってきた。昼の住宅街においては全く珍しくない、普通の姿の中年女性が歩いて来る。手にはレジ袋を下げている。沙希の前に到達した時に、不意に声をかけられた。

「昨日もここにいらっしゃいましたか?」

「ええ、昨日もここに立ってました」

女性の笑顔の意味が沙希には全く分からなかったが、問いかけられたことにだけは誠実に答えたつもりだった。

「会えて良かったわ」

「何かありましたか?」

 沙希としては、何らかの仕事上の対応を求められているのだろうという気がしたのだ。

「昨日、この辺りでうちの母親が倒れた時に、救急車を呼んでくださった方でしょう」

 この言葉を聞いて、ようやく沙希は事の成り行きが理解できた。

「ええ、たまたまここに立っていたら、おばあさんが不意に倒れたから、もうびっくりしちゃって」

「お陰様でね、搬送が早かったから命に別状はなさそうだと病院では言われていいます。本当にありがとうございました」

 女性は丁寧にお辞儀をすると、冷えて水滴がついているお茶と菓子を差出した。おばあさんが無事だったことは勿論だが、その時の沙希にとっては冷たいお茶が何よりも嬉しく思えた。

 その日の午後、学校帰りらしい小学生の女の子が、沙希が立っているすぐ前のビルの裏口の石段に腰かけて、沙希の方へ視線を向けているらしいことに気が付いた。女のガードマンが珍しくて見ているのだろうから、そのうち飽きて帰るだろうと沙希は思った。

 時々自分のカバンの中から教科書のようなものを取り出して開いている様子だが、小学生が一人でいつまでもそんな場所に居ることは、いかにも不自然だった。いくら静かな住宅街だとは言え、時々は通行人が通りたいと言ってきたり、通行止めでバックする車の誘導などもあったから、沙希としてもその子のことばかりに気を取られているというわけにもいかなかった。

 やがて終業の時間が来て、沙希が通行止めの看板をかたずけ出した時にも、その女の子はまだそこに座っていた。沙希が帰ろうとしていることに気付くと、沙希の方を注視し始めた。何か言いたそうな気配にも見えたが、現場事務所へ挨拶に行って帰路につかなければならない沙希の立場としては、それ以上その場にとどまることはできなかった。沙希は後ろを振り返ることはしなかったが、ずっと後ろが気になっていた。

「今日は、ちょっと気になることがあったんですけれど」

 帰りの車の中では、大田はまた無口であったから、沙希の方から話しかけてみた。

「何だい?」

 大田の口調は穏やかだったから、沙希は話を続けた。

「私が立っていたあたりで、学校帰りの小学生の女の子がずっと座ったままで、家に帰ろうとしない様子だったんです」

 大田はすぐには答えず、少し間を置いてから尋ねてきた。

「気になったのかい?」

「ええ、何だか家庭に事情がありそうな気がして」

 大田はそのまま黙ったままだった。沙希は運転している大田の横顔を見たが、なんとなく考え事をしている様子に見えていた。

「家庭に事情がある子供は沢山いるよ。今の時代には」

 当たり前のように大田はそう答えたが、沙希にとっては、大田が子供達の事情に詳しいような言い方をしたことが意外だった。

「そうなんですかね」

「子供のことが気になるのかい?」

「大人なら自分の責任で何とかするでしょうけれど、子供は自分の力ではどうにもならないこともあるから、何だか心配で」

 大田はそれには答えずに黙ったままだった。沙希にとってはそんな大田の反応もまた不可解だった。子供の事情については関心がないだろうかという気もしてきたから、もうそれ以上そのことを話題にするのはやめようと思った。

 沙希は自分の心の中で、さっき見た女の子の表情を思い返しながら、女の子の心の内を想像してみようとしたが、何かを話したわけではなかったから、想像することさえ難しいことに気が付いた。今朝、現場に向かう時には、大田と二人で車の中にいることを嬉しく思っていたのだが、帰路では、女の子のことが気にかかって、自分が楽しいという気持ちにはなれなかった。

 警備事務所に着くと、沙希は真っ先に翌日の予定表を見に行った。翌日もまた今日と同じ現場へ大田と二人で行くようになっていた。ともかく明日もあの場所へ行けることが分かって、沙希は安心した。と同時に仕事に関してのある思いも浮かんできた。何か急ぎの用があるのか、大田は既に帰っていた。沙希は思い切ってその場にいた部長に尋ねてみた。

「明日で同じ現場に三日目なんですけれど、私みたいな新人でいいんですか?」

 他の人の配置を見ていると、適材適所で現場が変わるケースも少なくない中で、自分が同じ現場に配属されることは思いがけないことでもあった。もっとも初日の国道の現場は、あまりにも交通量が多すぎて、自分には荷が重いことは確かなことではあったが。

「いいも何も、現場の山本さんからは、今日のお姉ちゃんをまた頼むわと連絡が来たよ。大田君も真面目によくやっていると言っていたから、現場を変える理由は何もないさ」

 毎日暑さでふらふらしながら立ち尽くしていた沙希にとっては、そんな風に周囲が思ってくれていることは、涙が出るほど嬉しいことに思えた。

 翌朝の車の中では、珍しく大田の方から話しかけてきた。

「就職はまだきまらないのかい?」

「ええ、全然。それに今はこの仕事で疲れ切って、とても探しに行こうとも思えません。この仕事は日払いで給料くれるから、このまましばらく続けようかと思い始めています」

 本心では、このまま大田と同じ現場に行けるのなら、という条件を付けていたが、言葉には出せなかった。

「そうか、それもいいかもしれないな」

 大田は真顔でそう言った。そこで会話は一時途切れた。ふと思いついたように大田が言葉を発した。

「子供が好きなのかい?」

「好きというか、気になるという方が当たっているかもしれません」

 大田が、昨日の出来事をもとにしてそう言っているらしいことは察しがついた。

 沙希が答えたにもかかわらず、大田は何も言わなくなった。

 幸い曇り空で、直射日光にさらされることもなく、その日の午前中の現場は穏やかな時間が過ぎた。休憩所での昼食時に山本が大きな声で話しかけてきた。

「姉ちゃんよ、就職が決まらないなら、俺たちと一緒に働かないか?」

「私にできる仕事がありますか?力はないし」

 適当にかわすつもりでそう言った沙希であったが、山本は嬉しそうに言った。

「おう、やる気になってきたかい。ダンプの運転なら力が無くてもできるぞ。二トンのダンプなら、姉ちゃんでも乗れるだろう」

「ガードマンみたいに暑い所で立っていなくてもいいし、稼ぎもずっといいはずだ」

 他の作業員からもそんな声が上がった。現場の人達から仕事ができないと言って拒絶されるのではなく、こうして受け入れてくれていることは嬉しかった。

 午後からは、沙希はあの女の子のことだけが気にかかっていた。三時を過ぎた頃、女の子はまた姿を見せた。前日と同じ石段にまた腰かけて沙希の方を見ている。

 人も車も来ていないことを確認して、沙希は看板の前を離れて、女の子の方へ近づいた。

「家に帰らないの?」

 沙希の問いかけに、女の子は

「うん」

 と短く答えて頷いた。近くで見ると小学校の低学年くらいに見えた。

「お母さんが心配しないの?」

「家にお母さんはいないから」

「そうなんだ、お母さんはどこにいるの」

 どこまで問いかけていいものかという迷いはあったが、ここでやめるわけにはいかないような気がしていた。

「病院」

 女の子は短く答えて、沙希の反応を見極めるかのような表情になった。笑ってはいなかった。

「家には誰かいるの」

 女の子は首を横に振った。

「お父さんは?」

「仕事」

「帰りは遅いの?」

 女の子は大きく頷いた。沙希はそれ以上には何も言えなかった。これ以上尋ねたところで、今の自分にできることには限りがあることははっきりしているのだから。

 帰りの車の中で、沙希は大田に話かけてみた。

「現場近くの女の子のお母さんが入院していて、お父さんは仕事で帰りが遅いんですって。だから家に帰らずにあそこのビルの裏口の石段に座っているんですって」

 一気に言ってしまった後で、沙希は大田の反応を伺った。

「それぞれの家庭の事情は、外から見ていても解らないことが多いからね」

 思いがけず大田が反応を示してくれたことが、沙希には嬉しかった。

「家に帰らないからどうしたのかと思って聞いてみたら、お母さんは入院していて、お父さんは仕事で帰りが遅いんですって」

「そうか、かわいそうだけれど、ガードマンをやっている俺達にはどうすることもできないしな」

「そうなんですよね」

 沙希は小さくため息をついた。

 翌日の勤務もまた同じ現場への配属だった。あの女の子のことが気になりだした沙希にとっては、もう自分の仕事の辛さは問題ではないような気がしていた。

「よう、姉ちゃん、そろそろダンプに乗る練習を始めるかい」

 朝から山本の機嫌は良かった。このところ晴天が続いていて工事の進み具合が順調なことからくるらしかった。勿論沙希にとっても、山本の機嫌がいい方が仕事はしやすかった。

「そうですね、とりあえず一人前のガードマンになって、山本さんに迷惑をかけなくなってからにしますよ」

 そう言って、山本の言葉を適当にかわしながらも、心の中では、もしも本当に就職先が見つからなかったら、工事現場でダンプに乗ることも、にわかに現実味を帯びてくるような気もし出していた。

 午後からは、いつも暇なはずの現場がにわかに忙しくなってきていた。沙希が通行止めをしている道路の奥の家での引っ越しっ作業が始まったのだ。沙希が立っている交差点は広くなかったから、引っ越し用の大型のトラックが入ることができずに、代わりに軽トラックが何度も通行止め区域を行き来することになった。道路をふさいでいる立て看板と三角コーンをそのつど移動したり、時には地元住民の車両の誘導もあった。時間はあわただしく過ぎていった。ほっと一息付けた時にはもう終業の時間となっていた。

「姉ちゃん、今日はよく頑張っていたな」

 ガラの悪い真っ黒なサングラスをはずすと、妙に優しい表情に見える山本がそう言ってねぎらってくれた。大田もまた同じような声をかけてくれた。その時の沙希にとっては、せっかくの周囲からのねぎらいの言葉も、どこかうわのそらで聞いていた。あの女の子のことを自分が気にして見てあげられなかったことが気にかかっていたからだった。

その日には、女の子の姿を見かけてはいなかった。自分がいない間にそこに来ていたことも考えられたが、現場を離れたのもそんなに長い時間ではなかったから、やはりその日には、あの女の子は姿を見せていなかったと思われた。

「今日は、あの女の子来ていなかったみたいなんですよ」

 帰りの車内で、沙希は大田にそう告げた。

「やはり気になるのかい?」

「ええ、子供は自分の力だけでは対応できないこともあるだろうから」

 大田はすぐには何も答えなかった。沙希もそれ以上には何も言わなかった。やがて事務所が近づいてきたところで大田が言った。

「明日も同じ現場に配属されたなら、その子の様子をよく見てあげてな」

「分かりました」

 そう答えながら、大田という人間は、自分が思っていた通りの優しい人だったと沙希は思った。

 しかし、翌日も女の子は姿を見せなかった。日曜日を挟んだことと雨の日があったため、バイトは二日間の休業となった。その間冷静になってみると、いくら心配したところで、社会的に見たら何らの影響力も持たない今の自分が、あの女の子にしてあげられることなど、何もないのだという現実だけが重くのしかかってくるような思いにもなった。

 休業明けの午後、女の子の姿は、またあの石段のところにあった。

「お母さんの具合はどう?」

 自分の無力を知りつつも、沙希はそう声をかけずにはいられなかった。

「あまり変わらないわ」

 女の子は表情を変えないままそう言った。

「お父さんのお仕事は忙しいの?」

「お父さんね、今度転勤になるんだって」

「転勤っていったら、お母さんと離れちゃうってこと?」

 驚いた表情で問いかけた沙希に対して、女の子は無言でうなずいて見せた。

「あなたは、お父さんと一緒に行くのかな?でもそうなったら、お母さんのお見舞いに行けなくなっちゃうかもしれないわね」

「私は行かないわ。病院に行かなければならないし、学校にお友達もいるし」

 この答えには沙希も納得できたし、また安心もした。

「そうよね。でも一人で暮らしていけるの?」

 そんな沙希の問いかけには、女の子はまた無言で首を大きく横に振った。

「お父さんの転勤はいつなの?」

「十一月から」

 転勤にしては中途半端な時期にも思えたが、ともかく三ヵ月間の猶予はあるようだった。

「あの子のお父さんが、十一月から転勤なんですって。何とかしないといけない状況になりつつあると思うんですけれど、今の私には何をしてあげることもできません」

 自分と同じ立場にある大田に向かってこんなことを言っても仕方がないとは思いつつも、自分一人の心の中にとどめておくだけでなく、誰彼となく話すことによって、何らかの影響力がある人の耳にも届いて、何らかの動きが起きないかという、およそあり得そうにもないような淡い期待を持っての行動であった。

「ところで話は変わるけれど、就職は決まったのかい?」

 大田からの唐突な問いかけではあったが、自分の先行きさえ見えていないのに、他人のことを心配する余裕があるのかいということを、大田は言いたいのだろうと沙希は感じ取った。

「いえ、まだ全然。もう少しこのままお世話になることになりそうです」

「君はどんな仕事をしたいんだい?」

「人の役に立てる仕事がしたいんです。特に社会的に弱い立場にある人の」

 このことについては、いつも沙希自身の心の中で自問されていたことであったから、答えに迷いはなかった。

「その女の子のようにかい?」

「そうです、誰かの助けを今必要としている人の為に働きたいです」

 自分と同じように日払いのアルバイトをしている大田に向かってそんなことを言ったところで、大田だって答えに困るかもしれないとは思いながらも、話の流れの中で自然と出てきた言葉であった。

 大田は、時々そうするように黙ったままだった。沙希もまた無力感を感じながら黙った。流れていく夕方の街の様子を目で追った。足早に家路につく人、バス停に並ぶ人の姿を見ていると、どうして自分だけ就職ができないのかという虚しさに包まれた。

「君さ、まだ就職が決まる目途がないなら、うちで働くかい?」

 突然の大田の言いように、沙希は運転している大田の横顔を見たが、冗談を言ってる風ではなく、笑ってもいなかった。

「うちで働くかって言ったって、この人だってただのアルバイトのはずだし、警備会社の息子だとか経営陣だとかいうことも聞いたことはないわ」

 そんな当たり前の疑問が沙希の心には浮かんでいたが、そのままは言葉にはできなかった。

「うちって、どちらのことですか?」

 大田の真意を探るように小さな声で、沙希は尋ねてみた。

「そうか、まだ話してなかったか。俺さ、今年いっぱいでこのバイトはやめるんだよ」

「ええ、そうなんですか」

 沙希にとっては、大田自身がこのバイトを辞めることによって、もう大田と会えなくなるのだという目の前の現実が、衝撃的な出来事に思えていた。

「辞めちゃってどうするんですか?」

 今度は、少しずつ心惹かれるものを感じ始めている大田の先行きが気にかかる沙希であった。

「自分で事業を始めるんだよ、来年から」

「何の事業ですか?」

「子供の福祉事業。今までの言い方だと児童養護施設かな。でもそれだけではなくて、学習支援なんかも含めて総合的に考えたいと思っているんだ」

 この人は本気で言っているのだろうか、あるいは自分をからかっているのだろうかという思いが沙希の心を占めた。ただ、今まで見てきた大田の人柄から考えて、自分のことをからかうことは考えにくかったし、温厚で常識人だと思って見てきていたから、単なる妄想を述べているとも思えなかった。

「信じられないといった顔をしているな」

 大田には沙希の心の内は既に読まれているようだった。

「まあ、それも仕方ないか。日払いのバイトをしている男がいきなり事業を始めるなんて言って、信用する人の方が少ないだろうからな」

 大田は横顔に小さな笑みを見せている。

「申しわけないですけれど、今まで私も信用していませんでした。でも、今は信じています」

「随分短い時間に心変わりだな」

 大田は笑った。

「私がどう思っていたとしても、やる人はやる訳で、それを見抜けなった私には、人を見る目がなかったということだけですから」

「もしその子が本当に困っているのなら、俺も一度会ってみようかな」

「きっと困ってますよ。でも事業開始は来年からなんですよね、あの子のお父さんの転勤は十一月なんですよ」

「場合によっては、事業開始を前倒しして、その子のことを支援することもできるかもしれない」

 沙希は驚いて大田のほうを見たが、確かに冗談を言っているような横顔には見えなかった。この大田の言葉が本心からなのであれば、あの子にとっては大きな助けになりそうな気がした。

「で、君はうちで働く気持ちがあるのかい?」

「勿論です、良ければ是非使って下さい」

 結果的には、大田という人間の本質的な部分が全く見えていなかった自分の、社会人としての甘さを思い知るような思いがあった。それに比べて、自分の置かれている運命を受け止めて、先行きの見えない状況を耐え忍んでいるかのように見えていたあの女の子の方が、自分よりも大人のような気もした。そして、あの子は、子供なりの視点で、自分がそれ程頼りがいのない大人だということを見抜いていて、あまり多くを語ってくれなかったのかもしれないという思いにも至った。





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