21話.のしかかる重圧は、全てをねじ伏せ。
食堂から帰ると、何やら教室の中から異様な気配を感じる。
俺達が中を覗くのすらためらうほどに張り詰めている空気。
「えーっと、五時間目始まっちゃうよ!」
明治さんが切り出すも、足が一歩先から踏み出せていない。
「――俺が行くよ」
「い、伊勢崎くん」
俺が導く。
君の足が動かないのなら、俺が前に出るよ。
そう決めたんだ、ずっと前から。
教室のドアを開ける――中には、キチンと整列された机と椅子。
皆姿勢正しく座っている。
教壇には、境太郎先生がいた。
「……伊勢崎くん、戻ってきたのですか」
「は、はい」
どこまでも冷徹な瞳、それを向けられるだけで俺の背筋が震え上がってしまう。
「座りなさい」
抑揚のない声に従い、俺達は各々の席へと、まるで身体を操られるみたいに足を動かす。
「さて、これで皆さん揃いましたね」
まばらな空席を除き、健康な生徒は全員いる。
当然といえば当然ではあるが、この教室内に御伽の姿はない。
「度々非常識的な行動は散見されていたものですが、流石に今回の件は許容範囲を越えています」
どこまでも無情な声。
それは強い怒りを示すのに十分すぎるほどだった。
顔面を蒼白させる生徒が多くいる、俺も例に漏れない。
俺はある種主犯と言っても間違いはないのだから、責任を感じてしまう。
「前々からこの教室では入院措置の取られた生徒や行方不明の生徒が出ています。くれぐれも皆さん、これ以上の被害を出さないためにも行動を、慎むよう」
首が頷く。
教室中、誰もがその行動を取る。
イジメっ子もいじめられっ子も、そうでない人も、この空気の中では境太郎先生の言説にコントロールされるのだ。
それ程、先生の怒りは深くこの教室の大気に染み出している。
「では、現代文ですね」
指示されたわけでもないのに、皆一様にして教科書を取り出し指定のページをめくる。
居眠りに直行する生徒すら今日ばかりはルールに従っていた。
この時間、この教室に不真面目な生徒はいなかった。
先生の怒りは、それほど深い。
――放課後。
部活を経て、ようやく沈んだ気分が解消された。
明治さんの表情も柔らかい、本来の自分を取り戻した様子だ。
境太郎先生はのっぽで細身、身長的な威圧感は確かにあったもののそれを除けば物腰穏やかで冷静な優しい先生という印象を持てる。
そんな先生から、教室中の空気を一変させるほどの強い怒りが出てくるとは。
それほどあの虐待ショーは先生の目に余ったのだろうか。
いいや、既にショーは歯止めのきかない次元まで到達していた、あの場を沈めるためにはそれ程の中和剤が必要だったのかもしれない。
恐るべし、いや、流石境太郎先生だ。
このままイジメも根絶して欲しい。
「伊勢崎くん、大丈夫?」
「え? どした?」
「いや、また何か思い詰めてるのかなって」
「そんなんじゃないよ、ただ境太郎先生もあんな怒り方できるんだなーって」
「あー、すっごく怖かったよね! 全然表情に出てなかったのに私震えて仕方なくてさ、アハハハ!」
「本当、意外だよ」
イジメっ子達はよくあんな先生が見張っている中でイジメを繰り返せるもんだ。
イジメる方もイジメる方で中々精神が鍛えられるんじゃないか。
イジメっ子は境太郎先生に屈しないためにイジメ、俺はイジメっ子に屈しないために耐える。
そんなイレギュラーなサイクルが生まれつつあるのかもしれない……なんてな。
知らぬ間にお互いを高めあっているとでもいうのか、皮肉なことに。
「じゃあまた明日ね、バイバイ!」
「うん、また」
一緒に帰るってだけで異様に緊張していた昔が懐かしいなぁ、いまじゃこうして気軽に手を振り合えるけど。
しつこいかもしれないけれど、この笑顔があるから俺は頑張れているんだよな。
別れの挨拶のためずっと見合っているとなんだか照れ臭くなって互いにはにかんでしまった。
前を向き直る明治さんの背をただただ見守る――っと、早く玄関開けないと。
いや、もうちょっと見送っててもいいだろ、悪いことでもないんだし。見えなくなるまで見守ろう……
あれ、もう明治さんいなくなってる。
早く家の中入ろう、暗くなってきたし、何よりちょっと寒い。
「ただいま――」
「大丈夫そうで良かったわ、いっぱい食べてね」
「いやぁありがとうございますってこんなにいいんすか!? うひょー!」
え?
ま、まさかこの声は。
「おう伊勢崎! ようやく退院したぜーい!」
「あぁ、この前ぶりだな」
「むぐむぐ……あっ、そういえばそうだったな」
退院早々タダ飯を集りにきやがってこいつは。
伊賀の野郎は、全く。どんだけマイペースなんだよ。
ちょっぴり安心している自分がいるのが憎たらしいな。
「おかえり、拓也。伊賀ちゃん、今日もいっぱい食べてるわよ」
「見れば分かるよそんな事……手洗ってくる」
しかし今日の伊賀はやけに目が輝いているな。
ずっと病院食だったから、きっと飯が染みる程に美味いんだろう。
さて、俺もいただくとするかな。
「――ちょっと、千刃。腕が当たってんの、ねぇ」
茶碗持つ腕が当たってんだよ。
首かしげてんじゃねーよ!
さて、飯も食い終わったことだし宿題に手をつけるとしようか。
そういえば中間試験もそろそろ二週間前の時期か、勉強に本腰入れなきゃいけなくなるかもなぁ。
あの教室じゃ勉強の事なんて集中できなさそうだし、尚更ここで頑張んないとな。
『明治さんからメッセージが届きました』、突然通知が飛んでくる。
横にスマホ置いてると気になっちゃうなぁ。
ベッドの側で充電させて置いとくべきだった、すごく気になって仕方ない。
気が散るだけだし、もう見てやろう。パパっと返信して宿題の続きっと――
「(画像)」
「このアイスすっごく美味しい!」
笑ってしまった。
そんなことのためにラインを寄越してきたのかい、明治さん。
いいなぁ。バニラアイスだ、俺も食べたことあるぞこれ。
でも明治さんの気持ちは若干分からなくもないな。何よりこのアイスは他と比べてとってもクリーミーなんだ、ついつい美味いと報告してしまう気持ちは分かる。
当時の俺もめっちゃ美味いってお母さんに言ってしまうくらいだったし、分かるよ。
でも今それが来るのはちょっと笑っちゃうなぁ、ずるいなぁ。
何か大事な用だとでも思ってたし尚更。
俺に報告寄越すくらいなんだ、お姉さんにも美味い美味い言いまくってるだろうなぁ。その姿が容易に想像できる。
――さてさて、宿題に集中しないと。
『明治さんからメッセージが届きました』。
今度は何だい明治さん、あぁそうだったスマホ充電しておかないと。
して、送られてきたメッセージの内容とは――単に羊のスタンプだった。
「なに笑」
「アイス!」
「食べ足りないの?」
「ちがーう!」
じゃあ一体全体どういうことだっていうんだ、アイスの一言で明治さんは俺に何を求めているんだ!?
なになに、『美味しかったの!』って。
何だろう、すごく難しい問題を提出されている気分だ。
どうすれば明治さんにとって納得のいく回答ができるんだろうか。
うーん、そのアイス美味しいよねって同調すればいいのか、はたまた……。
「じゃあ私そろそろ寝るね!」
「そっか、おやすみ」
明治さんから『Good Night』のスタンプが送られてくる。
もう少しお話したかったけれど、しょうがないなぁ。
まさか寝るなとか言えるわけもないしさ。
今更ながら通話がしたい。折角このメッセージソフトには無料で通話ができる機能があるんだし、誘えば良かったかも。
話し足りないなぁ、暇だ、何かしたい……。
つってももう11時か。俺もそろそろ寝ないとな。
明日の準備をさっさと済ませて、歯磨いて寝るとするかな――
「あ、宿題」
うわー、やらかした。完全に夢中になってた。
全然残ってるんだよなぁ、これ明日大丈夫か?
俺が必死こいて宿題を終わらせることは簡単かもしれないが、睡眠時間を削るハメになる。
とはいえ忘れていた俺の責任だ、しっかりこの現実向き合うしかない。
あれ、最初は難しかったけど割とサクサク進むな、これ。うわ10分足らずで終わった。
ページ数から相当量覚悟してたけど、蓋を開けてみると案外あっさりだな。
先生もそこまで鬼畜じゃないってことか。
朝起きるとまた我が物顔でリビングを占拠する伊賀の姿が。
「母ちゃん、もう一杯!」
「あらあら、本当に沢山食べるわねぇ、もう一杯だけよ?」
もう一杯って、コーンフレークだぞ。
牛乳とフレークがどんどん流し込まれていく。
「おう、伊勢崎おはよう!」
「……うん、おはよう」
もう突っ込む気力も失せた。
伊賀の母親って何してるんだろう、頼むからご飯を食べさせてやってほしい。
登校もこいつと一緒だ。
置いていこうかと考えたけれど流石にそれは悪い、伊賀も伊賀で楽しそうだしな。
「そういえばお前まだイジメられてんの?」
「え? うん、余裕でいじめられてるけど」
「はー、飽きねぇもんだな」
「でも心強い味方がいるから大丈夫だよ」
「……俺?」
「伊賀もそうだよ」
屈託のない笑顔を向けるんじゃない。
いや、向けてもいいけど。照れくさいだろう。
教室の扉を開けると、伊賀は俺の前の席に着く。
ずっと一つ前は空席だったから安心感がある。
しかし、俺が着席すると同時に熾烈なるイジメ地獄は蘇るのだ。
境太郎先生に昨日叱られたのを忘れたみたいに色んな野郎が俺に殴る蹴る雑巾食わせる便器の水かけるを繰り返す。
そして――奴が現れた。
「みんなー! 座布団チャレンジいくよー!」
出席番号29番・高天ヶ原月花。
そばかすにおさげが特徴の女生徒、特筆すべき点はその体型。
バランスボールそのまま飲み込んでみましたとでも言わんばかりのまんまるっぷりはどんな人でも初見驚くほど間違いなしだろう。
こいつはその自身のアイデンティティを活かして座布団チャレンジなるものを俺に課す。
座布団チャレンジとは、字面からも分かる通り俺がこいつの座布団になるわけだ。
俺が10秒間こいつの重さに耐えきることができればクリアだがその間につぶれてしまえば失敗、そのまま皆の気が済むまで重圧地獄に苦しまなければならない。
ちなみにだがこいつには若干の愛嬌がある。陰湿なイジメっ子野郎共が多い中でこいつは――こう言うのはおかしいところがあるが、ポジティブなイジメ方をしてくるのだ。
俺に対して嫌がらせを食らわしてやろうという魂胆でなく、チャレンジに直向きな姿勢を取る。
そのおかげで座布団チャレンジは一種のスポーツに似た精神で臨むことができるのだ。
「伊勢崎くん、そこに四つん這いになって!」
「伊勢崎ィー! やれぇー!」
教室の隅ではチャレンジが失敗するか成功するかの賭けが始まる。
とはいっても俺は座布団チャレンジに成功したことがないので半分お遊びだ。
俺は高天ヶ原の指示通り、椅子から立って机の横で四つん這いになる。
奴が思っきし腰を下ろしゲームスタート――
「――ぐえっ!!」
結果は瞬殺だ。
申し訳ないが、こんなの耐えられるわけがない。
初動を耐えればあるいはいけるかもしれないが、この時点でもはや圧倒的に抵抗不可能なエネルギーをぶつけられてしまっているのだ。
潰れてからが本番なんだ、この体重爆弾に乗られたまま耐えるのがつらい。
下手すれば肋骨が折れてしまうんじゃないか。
「伊勢崎くん、座布団チャレンジしっぱーい!」
「てめぇ何失敗してんだゴラァァァ! 伊勢崎ィ! 俺はお前のこと信じてたのによォ!」
顔を真上から踏みつけられる。
こいつは俺が成功する方に賭けたらしい、しかしそれは単にこうして俺に罪悪感を植え付けるためだけのお芝居。こうなることは分かってて成功の方に賭けている、その精神は見え透いているのだ。
全くムカつく事を考える。
「伊勢崎くん、罰ゲーム! ぎゅーぎゅーさんいっくよー!」
高天ヶ原は俺の上で上下に揺れ出す。
重すぎる奴の体重に俺の全身が悲鳴を上げている、肋骨からミシミシといやな音も鳴り始めた。
「はいっ! 伊勢崎くん! 一緒におうたをうたいなさい! ぎゅー! ぎゅー! ぎゅーぎゅーさんっ!」
こいつ、俺が復唱するまで絶対に終わらせるつもりはない。
「……ぎゅー、ぎゅー、ぎゅーぎゅーさん」
「気持ちが乗ってないよ、伊勢崎くんっ! ぎゅーぎゅーさんもっともっと追加しまーす!」
体重が更に込められて――
「ギャアアアアアアアアアアアアアア!!!」
ギャハハハハハハハハハハ!!!
口から漏れ出る悲鳴、教室中に大爆笑が巻き起こる。
「ほらっ! 伊勢崎くん誠意を込めてうたいなさい!! ぎゅー! ぎゅー! ぎゅーぎゅーさん!」
「ぎゅううう! ぎゅうう! ぎゅうぎゅうさあああん!」
俺の必死の歌唱にもまた笑いの渦が生まれだす。
最悪の恥辱責めだ、こんな事されるなら素直にイジメられた方がマシなのである。
何度も何度も肋骨が悲鳴をあげるも、いよいよ高天ヶ原は腰をあげてくれた。
「罰ゲーム終了、お疲れ様っ!」
こちらに手を伸ばす高天ヶ原。俺はそいつを受け取りフラフラと立ち上がる。
「てめぇ伊勢崎コラッ!」
――立ち上がった俺は、渾身のラリアットでまたも地面に叩きつけられた。
「俺が賭けに負けちまったじゃねーかよゴラアアアアア!!」
何度も殴る蹴るのリンチを追加でもらう。
しかし何とか地獄のような時間を切り抜け、ホームルームまで持っていった。
教室にやってくる境太郎先生、皆すでに礼儀正しく席についている。
……よく持ったもんだな、俺のあばら。
高天ヶ原月花、このままやられっぱなしだと思うなよ。
今度こそ俺が座布団チャレンジの勝者になる、その時を楽しみにしておくんだ。




