Ⅳ. 第8話 バルヴェニー(*)
『Limelight』の誰もいないカウンターのスツールに、優は腰を下ろした。カウンターからは離れたテーブル席に、男の客が二人飲んでいるだけだった。
「バルヴェニーの十二年ものをロックで」
優の注文に、榊がオールド・ファッションドグラスを用意した。
鮮やかな濃い琥珀色は、大きく丸く削られた氷により、宝石のように煌めく。
まろやかな甘味のある口当たりから、濃厚な後味に変わり、一口で変化が感じられる。カナディアン・ウィスキーやバーボンの甘味に慣れると、香りも違い、多少のスモーキーさが感じられるところは、スコットランドのハイランド地方ならではだろう。
ラベルに書かれた『ダブルウッド』という通り、バーボンに使われたオーク樽で熟成させた後、シェリー樽熟成を重ねている。
二つの樽で熟成されたならではの、コクのある、オレンジのような風味とバニラのような甘い香りと、深く、複雑な味わいには、じっくりと向かい合って楽しみたくなるものだ。
「美味いな。氷が溶けてくると、ちょっとしたスパイシーな味ものぞいて来て、変化が面白いのもいいよね」
「ああ。美味いからって、飲むペース早いよ。ちゃんとチェイサーも飲めよ」
榊に小声で言われても、優は黙って味わいながら、考え事をしていた。
奥の客が話に夢中であるのを見てから、榊が静かに語りかける。
「お前にも、とことん飲みたい時だってあるよな。どうした? 店を始める前に、蓮華ちゃんとケンカでもしたか?」
優の瞳が揺れた。
「蓮ちゃんなら正しい選択をするはずだって、信じてるから。でなきゃ、ママは務まらない」
「あの子って、年下を感じさせない豪快なオーラがあるよな。実は、ママに向いてるのかもな。綺麗で若くて、元気でかわいいママっていうのもいいかもな」
「そう思うよ。実際、彼女が仕事してるスナックにも何回か行ったけど、すごくいい感じのママになれる気がした。僕だけじゃ作れない、いい感じのバーになりそうなのにもったいなくて……。だけど、友達としては、幸せにはなって欲しいし、そうなった時は祝福してあげたいって思ってる。でも、その相手は、本当に『彼』なのかなって、今は疑問に思っちゃって」
榊には、本心を語れた。
ウィスキーの力を借りられたせいもあるのかも知れなかった。
「水城さんが、『孫には軽い気持ちでは手を出すな』って言ってたなら、軽い気持ちじゃなく、本気で想うんだったらいいんじゃないの? お前が蓮華ちゃんと付き合えば?」
「そういうことじゃないよ」
優の口調は少し強かった。
「彼女がまだ彼を想ってるのはわかるから。わかってるのに、同情とか慰めとかで無理に付き合っても続かない。特に、共同で仕事していく相手とは、そんなに簡単じゃないでしょ」
「だから、友達として支える道しかないってことか」
遣る瀬ない視線で優を見下ろすと、榊は、ふっとあたたかい瞳になった。
「要するに、お前は大事にしてるんだよな、蓮華ちゃんのことを」
「同業者としてね」
「そうだな」
「だから、彼女の判断を待つ」
まろやかなウィスキーの持つ深い味が同調しているように、優には感じられると、榊の声が穏やかに響く。
「じゃあ、俺も、一緒にやきもきしながら待つの、付き合うよ」
「……やきもきはしてないよ。信じてるから」
「ああ、そうだな」
バーテンダーが救われるのも、バーテンダーを前にした時かも知れない。
優が強がらなくてはならないのは、唯一、蓮華の前だけであり、それは、今後も変わらない。
そして、榊には、強がりは見抜かれているだろうと、わかっていた。
「なんか、バーとかで語るんじゃなくて、ここで話すのが自然になっちゃったね」
蓮華と、馬車道から近い赤レンガ倉庫の港を訪れた優は、普段よりも少しだけ緊張した面持ちになって応えていた。
「お酒抜きで話したい時は……なのかな」
「そうね。飲んだら、自制心なくして泣いちゃうかも。そうなったら、優ちゃんに迷惑かけちゃう。飲んでるお店にも! 何より、自分自身が恥ずかし過ぎるわ」
蓮華が笑う。
赤レンガ倉庫の前は閑散とし、片付け途中のものに青いビニールシートが被せてある。それが、数日続いたイベントの終わりを告げ、物寂しい風景として映る。
「楓くん、優ちゃんに随分突っかかっていったでしょ? あたしとの仲を疑う以上に、優ちゃんの音楽的な素質に嫉妬してたように見えたわ。優ちゃんが弾いた時、彼にはすべてわかったのよ。でも、認めたくなかった。曲作りはすぐに浮かぶ時もあれば捻り出しても出て来ない時もあって、〆切り間際にまだ曲数用意しないとならないプレッシャーもあって。自分が若くて経験がないせいだって焦ってる時もあってね。ゴハンも食べずにパソコンに向かって打ち込んで、自分のパートを練習する時間がなかったり……。楓くん、実は一杯一杯だったの」
蓮華が足を止め、優も止めた。
「優ちゃんから思わぬ返り討ちにあったら、しゅんとして、しばらく大人しかったわ。優ちゃんがさらっとこなしてるように見えるのは、今まで培って来たものや、影ですごく努力してるのが大きいって話したの。そんな彼も若い時には足掻いていたし、すごいことをやってのけたのにコンテストでは失格になっちゃったり、報われないこともあったのよって」
「ああ、そんなこと」
少しだけ、優が笑った。
「それからは、また練習したり曲作ったりしてたの」
蓮華は、海に背を向け、ビルの先を、街を越えたずっと遠くを眺めているかのようだった。
「楓くん、今頃、台湾に着いてるわね」
優は海を向いたまま、黙っている。
「あたしは、一緒に行かない」
静かな、凛とした声が、優の耳に響いた。
「いつかはこんな日が来るってわかってた。楓くんを傷付けてまで、ついて行くのを断ったわ。彼の音楽人生のために身を引いたというより、あたしが彼より店を━━自分の夢を取ったの。ひどいよね。自分の夢のために彼を捨てたなんて。最低なことしたってわかってる。それなのに、後悔はしてないの。彼との付き合いも、この選択も、自分で決めたということも」
濡れたように輝く瞳に気が付いた優は、蓮華に向き直った。
「あたしの居場所は応援するところ、これからお店に来てくれる人のそばなんだって、そういう覚悟でお店をやろうって決めてたしね。優ちゃんが、あたしを信じてくれたから、あたしも自分の決断を信じられたのかな」
蓮華は台湾に行かずに済み、店は予定通り二人でやって行ける。
望ましい結果のはずだった。
蓮華が楓ではなく店を選べば、自分はホッとするとでも思っていたのだろうか?
彼女の決断に、自分の心も締め付けられるとは、思ってもみなかった。
支えたい。
傷付いた彼女を包み込むことが出来たら……
ふいに抱きしめそうになるが、そんな気持ちを抑え込んだ。
「……背中、貸すよ」
蓮華の負った傷を一緒に受ける。
優が貸した背で、蓮華は声を上げずに泣いていた。
恋人を巣立たせ、そんな想いをしてまで一緒にやっていこうと決めた仕事のためなら、今後も彼女は恋に落ちることがあったとしても、店を優先させるのだろう。
そんなきみに寄り添う。
許される域の、一番近くで見守っていくって、決めたから。




