Ⅳ. 第7話 障壁(*)
※2019.3.14 写真画像変更しました。
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マンションに帰ってきた楓は、おぼつかない足取りでベッドに倒れこんだ。
仰向けになると、頭に優の言葉が蘇る。
『もっと蓮ちゃんを大事にしてあげて。それが出来ないなら、返してもらうよ』
『彼氏だからって、何でも許されるわけじゃないからね』
なんだよ、アレ。
偉そうに!
カノジョにとってはカレシが一番なはずだ。
なのに、何で、たかが仕事仲間が威張ってんだよ。
たかが仕事仲間なら、自分もこんなに嫉妬しなかったかも知れない。
ただのバーテンダーになら。
腕を、目を隠すように乗せた。
電灯が眩しいだけではなかった。
あいつは、音楽の道を途中で断念した、音大中退の負け犬じゃないか。
プロを目指してる僕の敵なんかじゃない。
そうは思ってみるものの、以前、優が弾いてみせたピアノを聴いた時、衝撃が走ったのをはっきりと覚えている。
音楽への情熱が感じられた。音楽への想いまで捨て去ってしまったわけではないことを知った。
もし、彼が、音楽を続けていたら、天才ジャズピアニストになっていたかも知れない。自分とは違う路線であったとしても、同じピアノを弾く身である自分は、かなり脅威を覚えたのではないだろうか。
「ただいまー。楓くん?」
スナックの仕事から帰ってきた蓮華が目を留め、近づいていく。
「……泣いてるの?」
静かに声をかけた蓮華の腕を掴み、胸に抱き寄せた。
「……どうかした?」
「なんで、あの人はあんなに余裕なんだよ。こっちは、無理して足掻いても越えられない壁があるっていうのに」
蓮華の目の端に、床に散らばった五線紙が留まる。
「優ちゃんに会ったの?」
「向こうが勝手に来たんだよ、『Something』に」
「『Something』は優ちゃんの古巣なんだから、しょっちゅう来るのは当たり前でしょう?」
「知ってるよ!」
ベッドの上で起き上がった楓が、蓮華を強く抱きすくめた。
「どうせ敵わないよ! 何をやってもあの人の方が上なんだよ、音楽でも、蓮華さんのことでも!」
「ちょっと、何を言ってるの?」
「見捨てないで!」
蓮華を抱きすくめたまま、楓は嗚咽していた。
しばらくじっとしていた蓮華は、身体を離し、楓の両肩に手を置いた。
「だったら、逃げないで。苦しくても」
静かに凛と言い放つ声に緊張するように、楓は彼女を見つめた。
「誰かと比べたり、誰かに勝てないと思ったり、そんなこと言い訳にしてるうちは、その誰かには、自分から負けてるってことよ。負けを認めてるのは、自分なのよ」
言い返しそうな楓に、「聞いて」と遮り、蓮華は続けた。
「優ちゃんが挫折を知らないと思う? モテモテだし、いつも飄々としてるからって、努力とか苦労って言葉とは無縁だとでも思ってるの? そんな人はいないわ」
蓮華が立ち上がるのを、楓の目が追った。
「キーボードに向かうのよ、楓くん、ひたすら。そうするしかないじゃない」
蓮華の差し伸べた手に、おずおずと自分の手を乗せた。
*
「楓くんのバンド、デビューが決まったの」
馬車道からたどり着いた港の前で、蓮華から打ち明けられた。
楓との間には、だんだん緊張感がなくなっているという。彼が今までしていた分の家事もせず、ピアノもあまり弾かない時もある。時々、小遣いまでせびるようになっていた。
「そういうものは、あたしの稼いだお金から、あたしがしてあげたくてやっていたことで、出来る範囲のプレゼントもしていただけ」
心配する新香の言葉が、優には思い出された。
「このままじゃ、楓くん、ダメになっちゃう。ダメダメの最低男の道まっしぐらでミュージシャンにさえなれなかったら……! って思って、こんなことじゃダメだよ! って言って、ケンカになりながらもけしかけて、練習させたり、曲作りも協力してたの。そんな時に、あのボーカルの台湾人とのハーフの子を通じて、台湾の音楽事務所から声がかかってね、向こうでデビューの話が出て、ゆくゆくはアジア方面にコンサート・ツアーの企画もあるんですって」
蓮華が笑顔になった。
「すごく嬉しかった。彼らの才能が認められて。楓くんともまた仲良く戻れて」
優が静かに蓮華を見つめるうちに、蓮華の表情が曇った。
「台湾に行ったら、長期間こっちには戻って来られなくなるわ。もしかしたら、ずっとかも……。だから、楓くんからは、台湾についてきて欲しいって、言われてるの」
蓮華は、優の顔を見ずに、視線を海に移動させる。
夢と恋人、どちらを取るか。
それを見守る相棒は、どうすべきなのか。
初めてぶつかった障壁を前に、二人は互いに視線を合わせることなく、穏やかな波を見ていることしか出来ないでいた。
人間だから、人を好きになる気持ちは自由で、封じる必要もない。
その時たまたま、偶然か、必然か━━
恋をしたことを責めるものでもない。
恋に落ちる瞬間は人それぞれであり、蓮華にも自分にもそれぞれに、今後そういうことは訪れるのかも知れない。
優も、おそらく蓮華も、同じような考えをめぐらせていただろう。
「僕に遠慮することはないよ。お店は、ひとりでも出来るものだから」
優は、そんなことを口走っていた。
彼の方をまだ見られずにいる蓮華の口元が、ふっとほころんだ。
「……そうよね。優ちゃんなら、例えひとりでもお店は出来るもんね」
「蓮ちゃんのことを必要ないって言ってるんじゃないよ。蓮ちゃんはママとしてお店には必要だよ。でも、だからって、自分を犠牲にすることはないと思う。ママである前に一人の人として、……彼のことが本当に好きだったら付いていく、そういう選択もあると思うよ。僕には気兼ねしないで」
「優ちゃんなら引き留めないで、そう言うと思った」
蓮華は、淋しく笑うと顔を上げた。
口を引き結んだ優の瞳は、まだ何かを語りたげに蓮華を見つめている。
蓮華は、わかっていると言うように見つめ返した。
「もう心は決まってるけど、もう一度、ひとりでよく考えてみる。もし、あたしが『最低な応え』を出したら、軽蔑してくれて構わないから」
駅に向かい、蓮華が歩き出した。
その後を優が追いかけるが、わずか数十センチメートルほどの距離で、それ以上進むのを踏みとどまった。
「蓮ちゃん!」
蓮華が、振り向いた。
「……信じてるから! どんな判断をしようと、蓮ちゃんは間違ってないから! 軽蔑なんかしないから!」
自分がどのような顔でそれを言っているのか、優にはわからなかった。
ただ、じっと見つめていた蓮華は、一瞬泣きそうな顔になった。
思わず伸ばしかけた優の手は、それ以上、近付けずに止まった。
踵を返した蓮華の背は、何者をも寄せ付けない空気をまとっていた。
蓮華は、もう振り返らなかった。




