終戦 ~エピローグ~
裏山に荷物を疎開しするために、小屋がたくさん出来ていた。
私達は、その小屋を改造して、ここで生活をした。
一疂当り四人という超過密な寝室だ。
顔の前と後に、他人の足が来て臭くて参ったが、それでも寝ることができた。
学科も無く、教練もなかった。
作業が主な日課で、割と暇な時が流れた。
兵も下士官も、生徒と車座になって話すような機会が多くできた。
彼らは我々に、軍隊小唄を教えた。
嫌じゃありませんか軍隊は
かねの茶碗にかねの箸
佛様でもあるまいに
一膳めしとは情けない
腰の軍刀にすがりつき
連れて行かんせどこまでも
女は乗せない潜水艦(戦車隊…)
これらの歌は、この時覚えたものである。
八月十五日……。
正午から、陛下御自ら重大な放送があるというので、全員本部跡に集まり、これを待った。
始まって、始めの内はよく判らなかったが、
聞いている内に、どうも負けたらしい。
皆泣き出したが、
私は内心、「うちに帰れそうだ」とほくそえんだ。
「うちに帰れそうだ」はだんだん強くなって、
それが帰れるということになって、
それからの私達は帰心矢の如し、その事のみが目標になってしまった。
下士官たちは、持って帰れるようにと、倉庫からどんどん米を運んできた。
被服等も、「こんなものアメリカにやることはない」とありったけ持ち出してきた。
背嚢いっぱいにそれらを詰め込み、帰る日の準備をしていた。
下士官は、各人の郵便貯金通帳をみんなに配った。
毎月、私達にもわずかだが給料が出ていたのだ。
外出とか、帰郷の交通費の明細が入っていた。
一人一人、その都度、西八王子駅まで行って、切符を買ってきてくれ、管理していてくれたのだ。
空襲のとき、一番先に持ち出したのが、これだったのだ。
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突然だが、私の青春の記は、ここで終わる。
このあと、物凄い混雑の汽車での帰郷を書こうと思ったのだが、
これは戦後の始まりだと思い、ここまでとした。
拙い文章で、しかも脳梗塞の後遺症の麻痺の残る手書きで読みにくい中、御精読を感謝する。
(PCにて文字起こしをしたので心配御無用でございます)
平成二十二年四月二十九日
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最後まで祖父の手記を読んでいただき、感謝申し上げます。
祖父の体験は、あの時代のごく一部に過ぎませんが、あの歴史のひとかけらとして、
そして今後もこの日本について考える中で、私の心の中に居続けるでしょう。
さて、余談ですが、祖父は戦後、早稲田大学に通うも中退。
その後は、元陸軍少尉の羽山昇さんの下、家庭用簡易孔版印刷機、あの「プリントゴッコ」の開発メンバーとして、またひと時代の物語を築きました。
羽山昇さんは昭和後期の経営者であります。
戦時中、陸軍士官学校を卒業し、本土決戦に備え任務についていましたが、戦わずして日本は敗戦。
仲間の多くはサイパンで玉砕し、死に場所を求めていた羽山さんは、
教師への道を志すも、GHQから公職追放令という理不尽な仕打ちを受けます。
しかし、それでも世の中の役に立とうと、印刷業界への道へ進み、
大ヒットプリントゴッコ時代を築きました。
ハイテク孔版印刷機の開発に至るまで、またしてもアメリカという大国の輸入品に苦しめられるわけではありますが、その奮闘記もまた、物語として書けそうですね(書けないけど)
余談になってしまいましたが、ここでこの連載も終了させていただきます。
短い連載ではありましたが、ありがとうございました。