八王子空襲
消燈ラッパは悲しげである。
メロディの擬音に
「シンニューセイハ カワイソウダナー マタネテナクノカヨー」
がある。
電燈が消され、窓から月が眺められると、あちこちから嗚咽を我慢する様子が伝わってくる。
何といっても十四、五才だ。
ホームシックにかからないものはない。
四月に入学してから、夏季休暇の話題でいっぱいだった。
七月末、それがとうとうやってきた。
私は二泊の帰郷で汽車に乗った。
母は顔を被って泣いた。
私も母に抱きついて泣いた。
誇り高き将校生徒もまだ十五才の少年、四ヶ月ぶりの帰郷である。
家は少しも変わりなかった。
翌日、父は私を連れて親戚回りをした。
諏訪から岡谷、そして実家まで足を伸ばし泊まった。
ウォルサム時計をくれた五味さんは
「目が澄んでいる」と私を評した。
別れの日、友人が大勢来て、私が帰るのを待っていてくれた。
皆一様に、黒糖の塊を一づつ持って…。
彼らは学校へ行っていなかった。
学徒動員で、黒糖工場で働いていた。
ちょろまかすのは容易でない、大変な糖分を持ってきてくれた。
母は水筒にいっぱい甘酒を詰めてくれた。
中央線の煙たい汽車の中で、私は甘酒を少しずつ飲み、
黒糖を少しずつ舐めた。
夏季休暇から帰ったその晩、空襲警報が鳴って、いつものように防空壕に入った。
長いこと入っていて、警報が解除され、寝室に戻って寝込んだ頃、
「起きろ!!」
「早く外へ出ろ!!」
等の声で目が覚めると、周辺がメラメラと明るいではないか。
「空襲だ!」
と服だけは着て、靴だけは履いて外へ出た。
回りは炎に包まれ、昼間のようだ。
「ザザー!!」と雨が降るような音に続いて、パラパラと焼夷弾が落ちてきた。
と思えば、落ちた焼夷弾が火を吹く。
「壕に入るな!」
「遠くへ逃げろ!」
その声に私は校内を通り、街中を抜けて、南の山の麓まで逃げた。
「ザザー!」の音をかわすように、左右に蛇行しながら逃げるのだ。
あちこちでドラム缶が爆発。
「兵隊さーん!助けて!!」
そんな声も無視して……。
これが、八月一日の八王子の空襲である。
空襲が終わり、夜が明けて街中をほぼ焼き尽くし、
あちこちでまだ火が残っている頃、私は学校に戻った。
他の生徒達も次々と帰ってきた。
生徒舎は全て焼け落ち、本部も廃墟と化した。
それにしても残念なことに、そして今でも残念に思っていることは、
外して棚に置いたウォルサムの腕時計を焼いてしまったことだ。
水筒も甘酒も、雑のうに入れておいた黒糖も焼いてしまったことだ。
だから、今でも私は、腕時計を外して寝たことはない。
まだ全員の確認ができていない頃、廃墟の中で待機していた私を、下士官が呼びに来た。
「お前、面会者だぞ…こんな時に何てことだ」
不審に思いながら面会所へ行くと、焼け跡に、
我が叔父、池上海軍少尉が軍刀を杖に立っていた。
叔父は、横須賀海軍基地に勤務する現役の士官だ。
八王子がやられているという情報を得て、お前の骨を拾おうとやってきた、と言う。
叔父は、子供のころから私を可愛がってくれ、小学六年のとき、
巡洋艦「あたご」の内部を見学させてくれたり、千葉の海岸へ一泊旅行に連れて行ってくれた。
何より、小学三年のとき、川田正子の綴方教室を買ってくれて、それをボロボロになるまで使った私としては、
うれしいことだった。
私は叔父につかまって泣いてしまった。
後のことだが、叔父は死ぬまでこの話を何度もした。
時には、海軍につかまって泣くような陸軍だから、戦争に勝てるわけがない、という冗談も交えて……。
厨房要員は焼死した鶏、焼け残りの材木等を利用して食事を作ってくれた。
しかし、五名(生徒四名、下士官一名)の遺体を発見した。
皆、焼夷弾の直撃である。
焼夷弾は直径3~4cmの、リレー走のバトンに似たもので、六角柱になっている。
何十個、何百個纏めた形でザザーっと雨が降るように音が聞こえたのは、
これが空中で拡散されたものと思われる。
五名に直撃し、私達は交替制で戦死者の遺体を焼いた。
焼け残りの柱等を、背の高さくらいまで積み上げ、その上にトタンを敷き、遺体を置いた。
更にその上に木材を積み上げ、火をつけた。
交替で火を見守り、朝までかかった。
焼夷弾は全部校庭に集められ、深さ四、五十糎の長い溝を掘り、この中に詰めて火をつけると、
仕掛け花火のように炎が上がった。
あとで聞けば、敷地面積から計算すると、坪当り一発の不発弾があったことから、
仮に50%の発火精度でも、一疂に一発は落としたのだと思う。
いかに絨緞爆弾だったかが判るというものだ。
次回は終戦、祖父の手記も終わります。




