東京陸軍幼年学校~入学式~
入学の日が近づくと、父は、校長、教頭、それに担任の荒木先生を自宅に呼び、
どこから仕入れたか酒を振舞って、感謝の意を表した。
当時は酒も入手が困難になっていた。
母親は遠い親戚の五味ミシン店に私を連れて行き、
米国産ウォルサムの腕時計を、祝としてせしめてきた。
相当高価なものだったろう。
私はこの腕時計をはめ、友人達に胴上げされて、父と一緒に上諏訪駅を出た。
入学式には父親も呼ばれていた。
浅川駅近くの旅館に泊まった。
一緒に泊まったもう一組、あとで同寝室になる静岡の鈴木君親子だった。
父親達は碁が好きで、朝方まで打っていた。
翌日は入学式。
私達の生徒監(担当教官、親代わり)になった柴田少佐が、
終戦後に、当時の日記を披露してくださったので、
この日記を直接読んで頂いた方が、
私が書くよりよっぽどうまく理解していただけると思う。
【柴田日記】 昭和二十年四月一日
(※カタカナ記載だったので、読みやすいように編集致します)
諸準備を点検し、本部前に木の香りも新しい建武台碑を右に控え、受付開始。
遅参加者あり 中々揃い終わらず、やっと班別を示し舎内に入し服装の着替え。
父兄は、映画見学、校内案内、二年生鈴木、校内生活の一日、行事、三年生年中行事の説明を行う。
校長以下の挨拶、柴田の説明、後各寝室に到り父兄は生徒と最期の面接。
各所に、喜びの声、驚きの声、御礼。
「頼みます」との声が入り混じる。
基の後食堂に案内、父兄共は会食、森口の小さき体にダブダブの服には、
衆人等しく吹き出す。
終わって剣道場に引卆、長谷川校長より
「西谷清以下360名、四月一日東京陸軍幼年学校に入校を命ず」
と示達せらる。
勅諭奉読後、道場前にて上級生との対面、挨拶交換あり。
次で一先ず休憩、服の合わぬ者の取替え後、雄健神社参拝。
入浴:始めての顔合わせに拘らず大騒ぎなれば、矢張り子供だなと驚かされる。
就寝:夜半空襲警報発令、寒き夜半に、西も東も分からぬ者が
服装のつけ方も分からぬままに退避する憐れさよ
これ亦戦時下の幼年学校生徒なる哉。
東の方に火の手揚るを見る。
大いなる国の苦難を晴らさむと
桜は咲きぬ建武の台に
新たなる希望に燃えて若人は
数多咲きけり桜の如く
(柴田日記より)
以上にて入学式は終わった。
後で聞けば、父は帰ってから母に
「軍隊とはあんなに暖かいものか、
俺はもう、死んでも良いと思った」
と感想を漏らしたそうだ。
さて、ここで幼年学校全体について俯瞮してみよう。
ロシアにカジェットという学校があり、このあたりが原点らしい。
幼い頃から教育して、将来の陸軍の幹部を養成しようとしたに違いない。
幼年学校を卒業して、士官学校にて、中学四、五年から来た同級生といっしょになるのだが、
後に陸軍の要所々々で頭角を顕すのは、幼年学校の卆業生だそうだ。
東条英機総理大臣もその一人である。
全国に六校(仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本)あり、
合わせて1765名が入学した(後で発行された名簿による)
後に入学する陸軍士官学校生徒と共に「将校生徒」と呼ばれ、
その時の自分は兵の上位に付けられる。
大将\
/ 中将 →歩兵連隊の基
少将/
将
大佐\
=連隊長→3ヶ大隊と3中隊
中佐/ (2500~3000名)
少佐\
=大隊長→4ヶ中隊と2小隊
校 大尉/\ (800~1000名)
/ =中隊長→4ヶ小隊と1弾薬小隊
中尉/ (200~250名)
\ 少尉\
=小隊長→4ヶ分隊
准尉/ (40~48名)
下― 曹長\
士 分隊長(10~12名)
官 軍曹/
― 伍長
←将校生徒の位置
/ 兵長
兵 上等兵
\ 一等兵
二等兵
陸軍軍人の階級の図が見づらくなってしまいましたね。
この当時祖父は、神童とも呼ばれていたと、後に自慢げに語っておりました。