太平洋戦争突入から陸軍幼年学校受験
父は二年近く満州に居て、まさに劇的な帰還をした。
朝早く上諏訪駅に迎えに行き、家に帰ってすぐに風呂に行き、
風呂から上がったらラジオが鳴った。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。
大本営陸海軍部午前六時発表。
帝国陸海軍部隊は、本八日未明、西太平洋において、
アメリカ、イギリス軍と戦斗状態に入れり」
と。
その後、真珠湾奇数攻撃の成功、マレー半島への上陸と南下等、
日本軍の活躍が報じられ、聴き乍らの朝食となった。
父といっしょに行って、その後帰らなかった人は、
後日、全員戦死したとの事だ。
まことショッキングな瞬間だった。
しかし我々子供達にとっては、血湧き肉踊る事件であった。
世の中は完全な戦時になった。
この戦時は、昭和十六年十二月に始まり、
昭和二十年八月までの四年間となった。
日本軍の様子は、大本営発表のラジオ放送で遂一知らされ、
戦勝に次ぐ戦勝で、国民は熱况した。
女性はモンペ、エプロン姿になり、男性は国防服に巻脚絆、
それに防空頭中を背負っていた。
父は帰還してから、岡谷工事局諏訪駐在主任技師となり、
諏訪の電話局に居た。
父親は休日に、私に蜂追い(地蜂の巣取り)や山菜取り、バラズミ焼き、
藁草履作りなど、一緒にやりながら教えた。
私にとっては、戦争に関係なく、楽しい時間であった。
東条英機が内閣総理大臣になり、得意げな演説盛んだった頃、
私は昭和十八年、諏訪の中学校に入学した。
大本営発表は無かったものの、実はミッドウェー海戦で敗れ、
ガダルカナル島で撤退し、日本の敗色が、だんだん濃くなりつつあった頃である。
中学では、軍事教育が戦時に入って強化されていた。
教練(軍事教育)は重要科目となって、軍から派遣された配属将校が指導に当たっていた。
数人の予備役将校が配属将校を補佐して、教練を行った。
当時の学制では、中等学校は五年まであり、一年生の徒手訓練(整列、行進、匍匐前進等)から始まり、
隊の指揮、銃剣術、射撃戦闘訓練など次第に高度になるが、下級生は木銃を、
上級生になると三八式歩兵銃と銃剣が渡された。
銃器は兵器庫に納められており、各自担当銃器の手入れも重要な責務であった。
学校には、陸海軍の色々な募集があった。
映画を見たりして、熱况した。
一番人気は、海軍兵学校であった。
短い上着に長いズボン、短剣をつってかっこよかった。
予科練もよかった。
陸軍は、なにかボテボテとしてかっこ悪かった。
陸軍幼年学校は、巻きやはんをしていないで、何か可愛げがあった。
海軍兵学校、陸軍士官学校は中学四年、五年が受験資格があり、
予科練は三年生に資格があった。
陸軍幼年学校は、中学一、二年生に資格があり、
我々中学に入ったばかりの者には、陸軍幼年学校が目先の標的であった。
「陸軍幼年学校受験講習会」というのがあった。
各中学から生徒を集め、講習を行う業者であろう。
面白おかしく講義をした。
今でも覚えている。
「マリルド、ガンコクド」というのは、この講習会で覚えたものだ。
「纏、纒」まとめるという字は、
(广だれ、里ル土、厂だれ、黒、土)
どちらでもよいということだ。
私は陸軍幼年学校を受験することに決めた。
父も母も賛成してくれた。
受験は二日がかりで行われたのではなかろうか。
松本駅前と長野市の旅館に泊まったことを覚えている。
長野市では、同じ部屋に五~六人詰め込まれ、部屋で何か食べていると、
隣の部屋から覗き込む子供たちがいた。
集団疎開した子供たちだった。
家から持ってきたおにぎり等は、みんなこの子供たちにあげた。
食糧難も始まっていたのである。
自分達が腹が減って、夜外に出ると「みついも」が屋台で売られていた。
私は生まれてはじめてみついもを食べ、物凄くうまく、感激したことを覚えている。
長野の試験は今の長野西高校だった。
女子高だったので、小便用のこえ桶がいくつも並べられていた。
私は、国語、漢文は得意だったが、数学が弱かった。
しかし、どんな問題だったのか全然覚えていない。
作文は「行軍」という題だったと覚えているが、何を書いたかは覚えていない。
合格通知は電報で、学校宛に来た。
一、二年の受験生約200人の待つ所で披露された。
私ともう一人、合格は二名だけだった。
頭をこずかれ祝福されたが、これが大勢なもんだから、頭が痛くて大変だった。
父は電報係からこのことを知り、学校へやってきた。
校長室に入り、各先生から祝福された。
開戦の詔勅が前文書き下されていましたが、長いためカットしました。
祖父の数学の不得意さを受け継いだ私であります。
しかし昔のことをここまで事細かく覚えているというのは、やはりそれほどの時代なのでしょうね。
南信は蜂の子文化の土地でございます
次回は陸軍幼年学校編からになります。