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びーどろの団欒  作者: 小路雪生
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第八話

 颯太が再び眠りについたのを確かめると、絵里は急に疲れを覚えた。

 ひきつけという初めての出来事を無事乗り越えた絵里は、すっかり目が覚めてしまったが、当の本人、颯太は何も知らずに穏やかな表情で寝息を立てていた。颯太の頭や体を撫でていると絵里はふと、夫と話をしたくなった。

 幼い息子の真夜中の異変に急に心細さを感じた絵里は、こんな日に限って留守なんて…出張だ、付き合いだと留守がちな夫に無性に腹がたった。しんと静まりかえる時刻のせいだろうか、絵里の心には虚しさや寂しさがひたひたと押し寄せてきた。絵里はこんこんと眠る颯太からそっと手を離すと、先ほど持ってきた子機で夫の携帯に電話を架けた。

「…電波の届かない場所にいるか、電源が入っていない為、かかりません」

 絵里はその音声案内を耳にすると、思わず子機を見つめた。繋がらないとはどういう事なのか…絵里が戸惑っているとその時背後で颯太が寝言を言った。絵里は再び引きつけを始めるのではないかとドキッとしながら寝ている颯太の顔を怖々と覗き込むと、絵里の心配をよそにすやすやと眠っている。安堵した絵里は寝室へ自分の携帯電話を取りに行くと眠る颯太の傍らで夫にメールを送った。

「颯太が引きつけを起こしたの。大変だったわ」

 しばらく待ってみたが返信がこない。絵里の胸に急速に不安が広がった。

こんな時、一緒に居てくれるのが夫婦ではないか?…せめて携帯くらい繋げておいてくれるべきではないのか?……夫が家族を忘れ羽を伸ばしているのではないか、そう考えた途端、夫がひどく身勝手に思えた。


 先ほどまで動揺していた絵里は、時間が経ち颯太の容態が安定するとすっかり落ち着きを取り戻していた。その反動か、緊張感から解放された絵里の関心の矛先は夫に向かい、定宿にしている福岡のビジネスホテルに電話を架ける事にした。

「瀧蔵遼、お願いできますでしょうか」

 こどもを起こさぬよう、小声で取り次ぎを依頼すると

「申し訳ございません。あいにく、本日瀧蔵さまとおっしゃるお客様は宿泊されておりません」

 丁寧に答えるフロント係の返答を聞いた絵里は衝撃を受けた。適当な挨拶をして電話を切ったが、絵里は事態が飲み込めず、途端に心もとない気分に陥った。

 夫が今夜どこに居るか分からない…ホテルが満室だったのだろうか…絵里はあれこれと考えを巡らすが、とにかく連絡がつかないのだと思い至ると全身から力が抜けていくのを感じた。怒りよりも衝撃が強く、福岡中のホテルに片っ端から電話を架けて夫を捜そうか…絵里は一瞬そうも思った。が、すぐにそうするほどの緊急事態ではないと気がつき思い留まった。

 しばらく思案をしていたものの、真夜中では会社に連絡したところで誰も出ないだろう。専務に電話をするにも真夜中では躊躇われた。朝まで待とう…絵里はそう思い直したが、どうにも落ち着かない気分だ。夫の身に何かあったのではないか…事故に巻き込まれたのではないか…そんな不安まで過るのだった。

 予想もしていなかった展開に愕然としながら、明日には戻る…自分に言い聞かせ平常心を保とうと努めるが、心に突風が吹き込んだような衝撃と、寒々しい気持ちは収まりそうにない。

 事故でないとしたら…絵里はそこまで考えると、まるで夫に裏切られた気分になった。突然湧き上がってきた種々の不安をかき消すように颯太の頭を撫でながら、またも、望美の言葉を思い出していた。

「割烹から女の人と出てくるの、見たわ」

 絵里はその時のことを

「女と居た…って…」

 あるかなきかの声で呟くと、その胸を忽ち嫉妬心が支配していた。


 毎晩深夜に帰宅する夫は「付き合いで飲んでた」そう言いながら、時に明け方頃に帰る事もあった。そんな時夫は「会社に泊まった」と説明するのだった。

 怪訝に思った絵里が

「なんで会社なんかに泊まるの?」

 責めるように言うと

「急ぎの仕事で夜通し資料を作ってたんだ。明け方までかかったから、そのまま会社に泊まった」

 夫は絵里を説き伏せるように言い訳をした。そんな夫の様子に絵里は浮気を疑った事もある。外泊や出張も多く、疑い始めればキリがない。しかし、付き合っていた頃から今に至るまで、夫の携帯を盗み見てもそれらしい痕跡はなく、現在夫が毎日使っている車の中をそれとなくチェックをしても確たる証拠は出てこなかった。

 貿易の仕事をしている夫は時折、数日間海外へ出張する事もあったが、それらを一つ一つ気にしていたのでは絵里も身が持たない。望美の言うように考えるならば疑わしい点は尽きないが、だからこそ、絵里は今日まで夫の話を信じてきたのだ。それが嘘だったとしたら……考え込む絵里は何かに取り憑かれたような目で真っ暗な部屋の一点を見つめていた。疑心暗鬼に包まれた絵里は不意に女といる夫の姿が目に浮かび、その妄想を消し去ることが出来なかった。


 颯太に添い寝をしながら迎えた翌朝、夫からメールが届いた。

「颯太、大丈夫?」

 絵里は、夫からのメールを受けると携帯に電話を架けた。

「どこにいるの?」

 絵里が淡々と尋ねると

「どこって?」

 屈託の無い返事が聞こえた。

「…どこに泊まっているの?」

 昨夜、定宿のホテルに連絡をした事を伏せたまま、とぼけた声で訊いてみた。

「……いつものホテルだよ」

 夫は少し間を置くと、穏やかな声で答えた。

「いつもって?」

「……福岡だよ」

 絵里に宿泊先を訊かれた夫は、絵里の声に耳を澄ませると低い声で答えた。

「…ホテルの名前は?」

 絵里は夫がいつものホテルに泊まっていなかった事を知っている。夫はそれを知らないが、いつになく拘る妻の様子に 居心地が悪くなったのか

「颯太、大丈夫なんだろ? 朝一でお得意さんと約束があるから切るよ」

 夫は感情を抑えた声で呟くと絵里の返事を待たずに早々に切電してしまった。絵里の思いを知らない夫への不信感は朝になり、こうして連絡がついた後も消えることはなかった。

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