第七話
「ごめん、ごめん、今の強かったな」
雄太が羽根を拾えなかった様子を見た夫は、今度はふんわりと、弱々しいサーブをした。雄太は真剣な眼差しで弧を描いて落下する羽根を見つめている。のどかな休日だった。
家にいる事が少ない夫だけに遊んでもらえると、こども達も嬉しそうで、絵里は、その光景を眺めているうちに、カーテンの事などすっかり忘れ、先ほどまでの暗い気持ちは消え失せていた。
たまの休日を一家水入らずで過ごし夕食を外で済ませたその晩、絵里はいつもより早めに床についた夫のベッドに潜り込んだ。
「ねぇ…」
起きていると思いきや、絵里がそっと夫の体に手を這わせるが微動だにしない。
仕方なく
「…起きてるんでしょ?」
耳元で囁いてみるが反応はない。寝たフリなのだろうか…絵里は疑いつつ夫の顔に頬を寄せた。既に寝息を立ているのを確認すると、軽い失望を感じながら自分のベッドへ戻った。
次男を妊娠した頃から急速に夫との関係が減っていた。それが顕著になったのは次男を出産した後だった。産後は本調子でない事もあり、夫が求めない事にホッとしている面もあったが、それ以降、絵里が催促しない限り夫から求める事はなくなった。夫は日頃、帰宅が遅い事からいつも先に寝ていたし、昼間は子育てで疲れていた絵里は、そんな変化も得に不都合を感じる事はなかった。
この数年間、年に二〜三回あるかどうか、という程にその回数が減っていたのだ。
セックスレスとは私達の事だろうか…絵里は考えてみるが、一つ屋根の下で暮らして七年。今更ときめきがある訳もなく、また、いつでも夫がいると思うと安心しきっていたのだった。
翌朝、夫の顔を見たがいつもと変わった様子はなく、昨夜の事も気が付いていないようだ。
この日、夫は福岡へ出張する為、いつもより気持ち早く家を出ようとしていた。
「行ってくるよ」
いつものようにそう言いおいて玄関へ向かった。絵里はこども達の持ち物を点検しながら
「行ってらっしゃーい」
惰性のように口先だけで言い、夫を見送ろうともしない。
「颯ちゃん、靴下履いて」
こども達に気を取られ、絵里も昨夜の事を思い出す暇もなかった。
慌ただしく朝の支度を済ませ、こども達を幼稚園へ送り届けた帰り道、望美が言っていた割烹とはどの店だろうか…絵里は興味を覚えた。件の割烹を捜しながら帰ろうと思いついき、ハンドルを右へ切ると繁華街へ向かった。寄り道をしてから帰宅するつもりだったが、崇福寺付近の通りは料理屋も多く、朝のうちである事から店は軒並み閉まっており、一見しただけでは望美の言った店がどこなのか見当もつかなかった。
しかし、家族が暮らす家からさほど遠くもないこんな所へ女を伴って訪れるのだろうか…絵里は、朝、幼稚園で望美に会った時、望美は先日の発言を忘れたように振る舞っていた様子を思い浮かべた。
言い出した本人が忘れていているのに、気にするなんて…おもしろ半分とはいえ、その店を捜す自分が滑稽に思えた。
その日もいつもと同じ日常が過ぎようとしていた。が、夜半になってから長男雄太が
「ママ、…ママ!」
眠る絵里を起こしにきた。
「…どうしたの?」
寝入りばなを起こされた絵里は、寝ぼけた声で目を閉じたまま答えた。
「颯太がっ」
「颯ちゃん…?」
「ママ、来て!」
絵里の体を必死で揺すりながら懸命に何かを訴える。
「なーに」
眠い絵里は意識が朦朧としたまま起き上がると
「んー、んー言ってる!」
雄太は身振り手振りで健気に説明するが要領を得ない。絵里のパジャマを必死で引っ張る雄太とこども部屋へ向かった。
二段ベッドの下に寝ている颯太を見ると、体を突っ張り、目を見開いたまま唸っていた。
「颯太!」
真夜中に引きつけを起こした次男颯太の様子に絵里は狼狽した。絵里には初めての経験だ。気が動転して名前を呼ぶと軽く颯太の頬を叩いた。
「颯ちゃん! しっかりして」
舌を噛むと大事だと聞いていた絵里は、頭を撫でながら何か噛ませねばと思い巡らしたが何がいいのか分からない上、颯太の顔を見る限りでは食いしばる口に異物を入れる事など困難に思われた。
「雄ちゃん、おばあちゃん呼んできて!」
慌てた絵里は、義母の助けを借りようと思いつき、雄太に言った。
雄太は真剣な顔で頷くと急いでこども部屋を出ていき、間もなく階下で休んでいた義母を伴って現れた。
「ひきつけね…大丈夫と思うけど…長引くようならお医者に連れて行った方がいいかもしれないわ…」
真夜中に叩き起こされた義母も眠そうな顔をしていたが、可愛い孫の急病とあって心配顔だ。
「颯ちゃん」
静かな声で呼びかけた。
「舌を噛むって…」
絵里が動揺した様子で義母に尋ねると
「大丈夫よ。あんまり触らない方がいいわ。そっとしておいたほうがいいのよ」
義母は冷静に言うと、颯太の手を撫でながらジッと様子を見守っていた。
「……ちょっと、長いわね…」
そう言うと
「念のために救急車を呼びましょう」
絵里に言った。
絵里は慌てて自分の寝室に戻ると子機から119番に連絡を入れた。
真夜中の突然の事態に気もそぞろの絵里は電話を片手に颯太の元へ戻ると、救急車を呼ぶ前よりも落ち着いた様子だった。
「…治まったんでしょうか…」
絵里が恐る恐る呟くと
「みたいね…」
義母が安心したように言い、二人は顔を見合わせると胸を撫で下ろした。
「私、看てますから、お義母さん休んで下さい」
何も知らずに無邪気に眠る颯太の顔を見ながら義母に礼を言うと、救急車を断り、雄太にも寝るよう声を掛けた。
「颯ちゃん、どうしたの?」
雄太は訳が分からない様子だったが心配そうに尋ねた。
「うん? ちょっとね、具合悪かったみたい。でも、もう大丈夫だから、雄ちゃんも寝なさい。ママここにいるから」
異変を知らせた雄太に優しく言うと、絵里は床に座り込み、ベッドの囲いにもたれながら颯太に付き添った。