第六話
庭から賑やかな笑い声が聞こえてきた。こども達を呼ぶ絵里の声は聞こえないようだ。ダイニングの掃き出し窓から外を見ると、息子達にせがまれたのか、いつの間にか夫が庭で雄太とバドミントンをしていた。
「雄太、下がれ!」
羽を打ち上げた夫が長男に指示を出していた。
絵里は、地元の大学を卒業すると長崎に支社のある大手機器メーカーに就職した。その会社で付き合っていた男性と別れた後会社を辞め、夫の会社が先代の頃に契約社員になったのだ。
勤務態度は真面目だったが、就業時間までにゆっくりとそつなく仕事をこなすという絵里の仕事ぶりは、誉められることもない代わりに大きなミをする事もない。
小さな会社の為、やる気がありさえすれば仕事はどんどん任される。が、絵里は仕事に興味はなかった。実家に居た手前、家でぶらぶらしている訳にもいかず働いていただけで、小遣い稼ぎが出来ればそれでよかったのだ。愚鈍とも思える仕事ぶりだったが、退屈な仕事を無難にこなす事だけが絵里にとっては重要だったのだ。
そんなやる気の無さを悟られないよう日々終始していた絵里が、夫を見た途端に突然、仕事熱心に早変わりした。
絵里は日が経つにつれて、増々夫の事しか考えられないほど想いを募らせていった。
就任直後の夫は社長室に籠もることを嫌い、他の役付きの社員や絵里などと同じ部屋で机を並べて仕事をしていたが、絵里の思い切った告白以降は、社長室で業務にあたる機会が増えていた。絵里が書類を届けに行っても顔さえ見ようともせず、警戒しているのか、返事さえしようとしなかった。
付け入る隙を与えない夫の様子は絵里を避けているようにも見えた。しかし、絵里は諦めるどころか、ここで攻めなければチャンスはない…そう感じていたのだ。この時既に三十歳になっていた絵里は、おっとりと構えていられない切実なものがあったのかもしれない。
給湯室へ追いかけるのが習慣になっていた頃だった。
「ご相談あるんです…」
諦めることなく距離を縮めようと機会を狙っていた絵里は夫に切り出した。
「…何?」
絵里の突然の行為の後、夫はガードを緩めることは無く、この時も少し険しい表情を見せた。
「…ここでは…」
夫と二人きりになりたかった絵里は、その場で話すことを躊躇った。そんな絵里の心を見透かしたのか、夫は少し考えてから
「手短かに、ここで話してもらえないかな」
絵里を見据えるように言った。絵里は黙り込んだ。好意を知っているはずだが、情で絡め取られるのを嫌ったのか、社長室での一件を忘れたように毅然とした態度を崩そうとしなかった。
「仕事の事なら僕ではなくて、他の人に相談した方がいいと思うよ」
夫は絵里を見つめると、感情のこもらない明瞭な声音で冷淡に言った。
「…だめなんです」
そんな邪険ともとれる夫の態度を気にかける素振りすら見せずに言うと、夫は次の言葉を待つように何も言おうとしない。
「……」
「社長じゃないと…だめなんです」
絵里は夫の瞳をまっすぐに見つめると昂ぶる感情を抑えきれない様子で、思い詰めたように言った。夫は押し黙ったまま考え込むと
「…じゃあ、手紙に書いてください」
「手紙?」
メールならばアドレスが訊けるかもしれない…そう思った絵里は
「メールなら…」
そう呟くと
「手紙にしてくださいっ」
夫は絵里の言葉を遮るように語気を強め、少し怒ったように言った。
「…はい」
攻める絵里とそれに侵食されまいと防戦する夫と、まるで攻防戦のようなやりとりが続いていた。絵里がつけ上がるのを抑えこもうとするかのように、とつくしまのない夫の様子に仕方なく従ったフリをした
「お義母さん、ホットケーキ焼いたんですけど」
奥の自室に居る義母に声をかけた。
「いいわ。お腹いっぱいだから」
まだ七十前の義母は、夫から買ってもらったパソコンに夢中だった。絵里は、ダイニングの窓を開けると庭で遊ぶ三人に声をかけた。
「ホットケーキ焼けたから、そろそろ終わりにしたら」
絵里は、ラブレターとも仕事の悩みともつかぬ内容の手紙を書くと給湯室で夫に手渡した。仕事の悩みについては、他の従業員への悪口ととられると夫の心象が悪くなってしまう。が、夫を味方につけ、周囲を思うとおりにせねば気が済まぬ絵里は「私が気が利かないので…私のせいなんです…」などと、悩んでいる風を装ってしたためることにした。
が、返事がこないまま数日が過ぎた。
この頃はペットボトルを持ち込んで給湯室にもなかなか現れなくなっていた夫の様子に気を揉んでいたある日
「すいません、今日はこれで」
夫は珍しく先に退社しようとした。
日頃、絵里のような女性事務職が残っている時間帯に帰ることのない夫にしては珍しい事だった。絵里はこの日も残業を買って出ていたが、慌てて自分の仕事を片付けると後を追うように会社を出た。
車に乗って帰ろうする夫を捉まえると
「あの…この間の手紙、読んでいただけましたか?…」
夫は思い出したような顔をして
「ああ……すいませんが、僕が対処できる内容ではないと思う」
会社を継いで半年も経っていなかった夫は、社内で特定の人間に肩入れをしないよう慎重に構えている様子だった。
「…他の人には言えないんです」
暗い顔で呟き、車の前から動く気配の無い絵里に手を焼いたのか、夫は腕時計の時刻を確かめると
「…今、帰りですか?」
「はい」
「じゃあ、途中まで乗っていきますか?」
困ったような厳しい表情のまま絵里に訊いた。思いがけない夫の言葉に頷くと絵里は助手席に乗り込んだ。車内で二人きりになると
「こういう言い方は冷たいかもしれないけど…あなたのは悩みと言うより…こどもの我が儘や小学生の告げ口みたいだ」
夫は冷たく言い放った。
「そんなつもりじゃ…」
夫の容赦ない鋭い言葉に思わず絵里は口ごもってしまった。好かれていないようだ…絵里は薄々気づいていたが、必死な思いから出た大胆な告白でさえ効き目がないとは…この時、絵里は自分が哀れに思えた。
「…あなたは会社へ何をしに来てるの?」
夫は運転をしながら冷静な口調で尋ねた。絵里はうつむいて黙り込んだままだった。
「……この間の事もそうだ」
夫は少し声を落とすと、少し難しい顔で前を向いたまま言った。
「……すいません…でも、好きなんです」
運転する夫の横顔をじっと見つめる絵里の声は真剣だ。
「…どこが?」
そう訊かれても絵里には答えられない。
「…全部です」
「あなたは僕の何を知ってるんですか?」
夫は何が気に障ったのか、一瞬険しい表情で言い放った。
思わず絵里は夫をじっと見つめた。その瞬間、夫が急に憎らしく思えたのだ。どんなに必死に想いを訴えても跳ね返されてしまう…どうにも組みしけない難攻不落な男を前に絵里の心は一層激しく燃え上がった。「絶対に逃がしたくない」と、競争意識のような思いが芽生えていたのだろう。絵里を挫こうとするかのような夫の態度に挑発された絵里は、必ず振り向かせてみせると決意をしたのだ。
二人はそれから間もなく付き合う事になった。テコでも動く様子のない絵里に夫が根負けしたのかもしれない。
「俺は、君が思ってるような男じゃないかもしれないよ」
夫はそう言いながら、執念にも似た想いを寄せるを絵里を受け入れたのだった。