第五話
義母から聞いた話では、夫が実家に戻って間もなく自らこのカーテンに替えた、との事だった。それを聞いた絵里は最初、夫がこのカーテンが気に入ってるのだ、くらいにしか思っていなかった。しかし、この頃絵里は思う。気に入っているという単純な理由以外に、もっと深い思い入れや、拘りを持っているのではないか、と。夫は、このカーテンを使っていた頃の暮らしを懐かしみ、未だに引きずっている気がした。
絵里は、その時の夫の表情を思い出すと、夫が座っていたソファーに座り、同じようにカーテンを眺めてみた。
午後の陽射しを浴びたカーテンは白地の部分からうっすらと陽を通している。夫が見ていた世界を自分も見てみようと思うが、絵里にはいつもの柄しか目に入らない。
彼には何が見えているのだろう…絵里は、自分の知らない夫を見た思いがして、そんな夫の様子に気がつかないフリをしていた。深く考えるのは善くない…絵里は、それを知る事を避けていたのだ。
ソファーの背にもたれるように深く腰を掛け、考えるともなく考えていると、不意に望美の言葉が脳裏をかすめた。
「女の人と居るのを見た」
その声が聞こえてきた途端、それを打ち消すように絵里はソファーから勢い良く立ち上がると
「ただのカーテンよ!」
自分を励ますように言うが早いか、庭で遊んでいる息子達に
「おやつにホットケーキ焼こうか?」
明るく声を掛けた。
「ママ! オレンジのジャム!」
「僕も!」
一瞬遊びの手を止めると、こども達は大声でホットケーキのトッピングに注文をつけた。
「え〜、メープルシロップじゃないのぉ? せっかく買ってきたのに〜」
絵里はわざと拗ねたように言い、おやつの準備を始めた。
絵里の夫は従業員二十五名ほどの会社を経営していた。
東京の大学を卒業するとそのまま大手商社へ入社したが、急逝した父親の会社を継ぐ事になったのだ。最初は抵抗していたようだったが、周囲の説得もあり後継者となると、夫は先代の息子という不遜な様子も見せずに、周りを立てながら熱心に慣れない仕事に取り組んでいた。
当時、契約社員として事務職に従事していた絵里から夫にひと目惚れしたと言ってもいいかもしれない。先代からの信頼が篤い年配者が多くを占めていた職場で、絵里は婚期を逸しつつあった。年齢、外見、経歴、全てにおいて夫は絵里にとって理想通りといってもいいほどの存在だった。
絵里はルーチンワークをこなし、定時には退社するというスタイルで勤務をしていたが、夫が後継者になって以降、自ら進んで残業を行うようになっていた。夫との接触する機会を少しでも増やす為だ。それまでは気付かぬフリをしていた雑用も積極的に行うよう心がけ、夫の歓心を得ようとしていた。絵里は仕事をダシに、夫の気を惹こうと懸命だったのだ。周囲もそんな絵里の変化に気が付いていたようだったが、肝心の夫は絵里に関心を示そうとしなかった。
「出来たよー 手、洗ってきてー!」
絵里はホットケーキを皿に盛りつけると、こども達がお気に入りのジャムを出しながら、ダイニングから大声で呼んだ。
夫が代表取締役に就任してから、絵里の朝は社長室の机を拭く事から始まった。一日中、夫の一挙手一投足に注目しては、絵里は自分が気の利くところ見せようと努力してきたのだ。なんとしても夫に気に入ってほしかった。夫のワイシャツ同じ色の開衿シャツを着て出勤し、夫が読んだ本を必ず買って夫に追従するような感想を述べ、とにかく真似をするのだ。端から見るとストーカーのごときつきまといだが、巧妙にそれを行うのが絵里のやりかただった。
夫が部屋から出て行くと、絵里も仕事の手を休めて後を追いかけ、一緒に出て行くフリをしては二人きりになるチャンスを窺うのだ。夫が自分でお茶を入れようと給湯室へ行くとすかさず追いかけ
「私がお持ちします」
他の社員には決してそんな事を言わない絵里だったが、夫には特別だった。それを知ってか知らずか最初はにこやかだった夫も次第に
「僕の事はいいので、仕事して下さい、ね!」
などと、やんわりと注意をするのだった。そんな時、絵里が黙って夫を見つめると怯む事なく見つめ返し
「なんですか?」
夫は毅然と言い返すのだった。そのまま絵里が息を詰めるように黙って見つめていると
「僕の事はいいです。戻って仕事をして下さい」
聞き分けのない絵里に噛んで含めるように言うのだった。
それでも尚、絵里は狭い給湯室へ夫が立つ度に意地になったように追いかけると、夫は苦笑いをしていた。
絵里は周りがどう思おうと、夫に注意をされようと『なんとかしたいっ どうしても、どんな手段を使ってでもこの人を思う通りにしたい!』と、念じるように日々を送っていたのだ。
夫を振り向かせたい一心だった絵里は、夫に煩わしいと思われてもお構いなしだった。
社内でのミーティングでは夫の真正面に陣取ると、ミーティングの間中、夫を見つめるのだ。社内の者は執拗に夫に執心する絵里に呆れたのか、見て見ぬフリをするようになり、夫も、絶えず視線を注ぐ絵里を疎ましく感じ、その視線を避けるように居心地悪そうな様子でわざと背を向けたりする事もあった。それでも絵里は怯み、退かない。どうしても諦めきれなかったのだ。
容易に届かないもどかしさを抱えた絵里は、ある時、社長室へ書類を届けに行くと無防備な様子の夫に近づくと、思いあまっ絵里は書棚の前で自分からキスをした。絵里の不意を突いた行動に夫は驚いたように目を見開くと立ち尽くす絵里を見つめ、黙り込んでしまった。絵里の心は恥ずかしさと沸き立つような高揚感に包まれ、訳も分からず逃げるように社長室を飛出した。周囲の目にはあからさまに映るほど絵里は夫に夢中だったが、そんな絵里に関心を示さない夫にどうしても自分の気持ちを伝えたかったのだ。
その後、ようやく絵里を意識するようになったのか、時々、夫からの視線を感じるようになっていた。が、それでも夫から絵里に近づいて来る事はなかった。
当時の絵里は夫に逢う為に会社に行っていたと言っても言い過ぎではなかったが、そんな絵里の体当たりの告白をもってしても、夫は、簡単になびく男ではなかった。