最終話
義母に慰められながらも、絵里の憂鬱は晴れない。
夫が出張から戻った翌日の朝、絵里が朝食を作っている間に、客室で休んでいた夫が着替えを取るべく寝室へ向かう気配を感じた。夫の後を追う、二階にある夫婦の寝室へ入るなり
「……ねぇ。外泊だけはやめてもらえない?」
懇願する様に夫に言った。
「…」
「夜はなるべく早く帰って、夕食ぐらい、こども達と食べてあげてほしいの」
絵里は夫の背中を見つめると、噛み締める様に低く静かな声音で言った。
「…君の話を聞いてると俺が遊んでるみたいだな」
「……」
クローゼットから衣類を取り出しながら太々しく言う夫に、腹の底から込み上げるものを感じた絵里は、思わず皮肉まじりに呟いた。
「…サオリ、とね」
「…沙織さん、だろ」
絵里を振り返った夫は絵里に強い視線を当てると、蔑む様な口調で呼び捨てにする絵里を咎めた。サオリをかばう夫の姿にをショックを受けた絵里はそれでも尚、悲しみを堪え、感情的にならぬよう注意を払いながら言葉を続ける。
「…そうね、沙織さんだったわね。…今夜も沙織さんの家にお泊まりですか?」
抑えようと思いながらも、絵里の言葉にはチクリとした棘が含まれていた。些細な言葉尻に反応する夫の入れこみようを目の当たりにした絵里は、シラケた気分で夫を見つめた。
「俺が沙織の所に入り浸ってるみたいな口ぶりだな」
夫は、絵里につられたのかいつの間に“ 沙織 ”と言っている。
「…違うの?」
「はいはいはいはいはい…」
夫は茶化すように言うと、着替えを手にドアへ向かった。どこか投げやりに見える夫だが、ドアノブに手をかけ呟いた。
「…何も分かってないな」
「…」
振り向いた夫は、絵里を真直ぐに見つめると、今度は真面目な様子で言った。
「…好きな男と結婚して家庭を持った君には、家もあるしこどもだって居る。お袋だって、君の味方だろう。こども達もそうだ。…俺が不出来な亭主だと泣いて帰れば迎えてくれる実家もあるし、友達だっているだろ」
「…」
夫が何を言おうとしているのか分からずに絵里は黙って見つめていた。少し考えた後、夫は言った。
「……………でも、沙織には俺しかいないんだ」
絵里から目をそらす事無くそう言いきった夫に迷いは感じられない。それは決意なのか覚悟なのだろか、決して後戻り出来ないという事を、自ら宣言するようだった。絵里は思わず目を見開き何かを言おうとするのだが、適当な言葉が見つからない。
非難するように睨みつける絵里に
「君は幸せなんだよ。君はなんでも持ってるじゃないか。仕事辞めたかったんだろ? 君に不自由させてるとは思わない。………余計な事考えてないで、しっかり主婦をやれよ」
「…」
夫の言葉に絵里は絶句していた。ジッと見つめ返す絵里の反応にまるで関心を示さない夫は
「ああ…それからあのカーテン。……リビングの、替えていいよ。…君の好きなのを選んでくるといい」
そう言い残すと、瞬く間に部屋を出て行った。
一人寝室に取り残された絵里は、その場に立ち尽くし夫の言葉を思い返した。
考えてみると、夫は動物園でも沙織の存在を否定した訳ではない。疑う絵里に「妄想だ」と言わんばかりの口ぶりで絵里自身を否定していたが、一度たりとも「沙織なんて知らない」や「沙織とは付き合っていない」等、具体的にその関係を否定した訳ではなかった。絵里はこの事に気がついた瞬間、自分の指摘は夫の急所を突いている…だからこそ、絵里の心は晴れやかではなかったのだと思い至った。
『違うなら違うと言ってほしい。たとえ会社に居るのが沙織でも、もっと懸命に否定してくれれば…』絵里は、一縷の望みにすがるような心持ちだったのだろう。誰よりも自分が愛され、夫にとって自分が一番近い存在である事を感じられたなら、絵里の心の傷みは幾分かはラクになったのではないだろうか。しかし、夫から繰り出される答えは「尾行するなんて悪趣味」や「説明する必要はない」「何故サオリだと思うんだ?」など、いずれも絵里への批判ばかりだ。絵里は、存在さえも否定されているような居心地の悪さを覚えていたのだ。
夫は、二人の関係を暗に〈認めた〉のだろう。そこまで考えた絵里は、激しい感情を抑えきれなくなった。
悔しさのあまり無意識に拳を握りしめると、階段を駆け下りた。絵里は衝動的にリビングのキャビネットから鋏を取り出すと、躊躇いもなくカーテンに突き刺す。リビングの掃き出し窓にかかった白とグリーンのグラデーションのカーテンは見る間に無惨な形に変わっていった。
サオリの化身のようなそのカーテンを、憑かれたような形相で切り刻む絵里を見つけた義母は
「危ないっ!! 絵里さん!! 何してるのっ!?」
背後から悲鳴のような声を浴びせた。しかし、一心不乱に鋏を突き立てる絵里の耳には、義母が必死で静止するのも聞こえない。止めに入った義母と半狂乱になりながら揉み合った拍子に、鋏の刃が義母の腕に当たった。見ると、一筋の鮮血が滲んでいる。それを見た瞬間、絵里は我に返り、ぼんやりと立ち尽くした。
騒ぎを聞きつけた夫が洗面室から現れたが、その光景を前に棒立ちだ。正気を失った様に見える絵里の手から、義母はひったくる様に鋏を取り上げると
「こども達が起きて来る前にカーテン、外しましょう」
気丈に言いながら、慌てた様子でボロボロに切り裂かれたカーテンを窓から取り外そうとしていた。
背後からそれを見ていた夫の姿を絵里が視界の片隅に捉えたのは、夫がリビングのドアからで出て行く時だった。間もなく玄関の扉が閉まる音が聞こえてきた。絵里は夫が朝食もとらずに家を出た事に意識の遠くのほうで気付きながらも、現実感がない。
自らの暴挙に信じられない思いで立ち尽くしていた絵里は、力なく座り込んだ。
哀れな姿を晒したカーテンは、経年の色褪せから鮮やかな色彩を失い、薄らと煤けてさえ見える。
ボロ布同然に変わり果てたカーテンは、絵里の目の前で紙袋に押し込まれていた。
こども達に心配をかけまいと、急ぐ義母を傍らに、絵里は急に肩の荷が下りたように、心が軽くなるのを感じていた。
『あの女が、やっと、この家から消えた……』絵里はずっと以前から、このカーテンが疎ましくて仕方なかった。その謎が解けた時、このカーテンはその役割を終えた様に無惨な姿に変わり果て、絵里の手によって捨てられ様としている…絵里は、満足だった。
義母に丸められ、窮屈そうに紙袋に収まった古ぼけたカーテンは、二度と絵里の心に憂鬱をもたらす事はないだろう。
「ママぁ…」
珍しく自分から起きてきた雄太が目をこすりながら現れた。
『こうしていられないわ…ご飯、作らないと…』
ふと窓を見上げると、東の空から白い朝日が差しんでいた。
〈了〉
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
最終話は書き込み過ぎ、やや長くなってしまいました。
『びーどろの団欒』は、フランス映画のような内容にしたいと思い、書き始めました。フランス映画というと抑揚が少なく、心のひだを1枚1枚めくるような丹念さを感じます。華蓋を「めくるめく嵐のように」とするならば、びーどろは「淡々とした日々を綴る日記のように」をテーマに書き進めて参りました。静と動、という表現もありますが、この場合、どちらも決して静と動には分けられない複雑さを含んでいるように思います。
巧く表現出来たか定かではありませんが、なんとか、最終回を迎える事が出来ました。
読んで下さった方々には心より御礼申し上げます。
小路
*尚、無断でコピー・転載されないよう、書き添えさせていただきます*