第三十一話
「おはよう」
翌朝、食卓に着こうとする夫の顔を見ると、いつもと変わらぬ表情だった。前日サオリのマンションに立ち寄った絵里は、その晩、早々に床につき、二人は仕事帰りに部屋のドアを見てオロオロしているに違いない…仕掛け人である絵里は得意な気分に浸りつつ、眠りに落ちたのだった。
『いい気になってるからよ。天罰だわ』自分が支配者のような優越感に浸りながらベッドへ潜り込んだ絵里は、自分を欺き続けてきた夫やサオリを懲らしめる事が憂さ晴らしになったのか、愉快でたまらない。
『あの女の勝手になんてさせるもんですか。私だって思う通りにしたいわ』そんな思いを抱いていた絵里は、いつもより柔和な表情で
「はい、どうぞ」
前夜も帰宅が遅く、手つかずのまま残っていた夫の分の昨夜の総菜をテーブルへ並べた。
「…」
無言のまま箸を伸ばす夫の横顔からはこれといった異変は感じられない。一瞬、夫は何も知らないのだろうか…絵里がそう思ってしまうほどだ。しかし、ここで誤摩化されてはならない…絵里は、ご飯をよそいながら思った。
夫が落書きの件を知らないとは思えなかった。その淡々とした表情からは昨日の犯人が絵里自身でない限り、さぞ驚愕したであろう出来事について気付く事は難しいほどだ。この顔で家族を信用させた夫は、裏で家族にひた隠しにしてきた生活があり、愛人サオリとの関係を守り貫いてきたという厳然たる事実があるのだ。
常と変わらぬ夫の冷静な態度から、つい最近まで、妻である絵里は夫の女性関係を疑おうとさえしなかった…目の前に座る夫の顔をそっと盗み見た絵里は、ポーカーフェイスを崩さない姿が得体の知れない生物のように感じられ、薄気味悪さを覚えた。
「おかわりは?」
絵里は素知らぬ顔で食卓に着くと、そっと夫から目を背けた。
愛憎を抱える夫婦とその愛人との関係をどこか他人事のように感じながら、絵里がぼんやりとご飯を口へ運んでいると
「パパぁ、土曜日ぃ、どうしてもダメ?」
雄太が夫にねだる声が耳に飛び込んできた。
「え?…ああ…参観日? …昨日も言っただろ」
夫は上の空で答えた。
「…でもぉ、タカちゃんも、コウスケ君も、みんなパパ来るって…」
昨日の朝は納得したかに見えていた雄太だったが、幼稚園で自慢し合う友達の姿を見て羨ましくなったらしく、諦めきれない様に言った。
「昨日も言っただろう? ママが行ってくれるって。ママの言う事、聞けよ」
夫は素っ気なく答えた。
「いやだよ〜」
駄々をこねる雄太を眺めていた絵里は、視線を夫へ移した。夫は朝から必死にせがむ雄太の問いかけが聞こえない風に、黙々と食事を続けている。
「パパ!」
真剣に取り合おうとしない夫の様子に、雄太は怒ったように呼びかけるが、夫は顔を上げただけで答えようとしない。見かねた絵里が
「…何か言ってあげたら? 雄太、とっても、楽しみにしてたんだから」
“とっても”を強調しながらため息まじりに促すと
「おばあちゃんが行こうか?」
義母が割って入った。横から口を挟もうとする義母の問いかけを聞いた絵里は慌てて
「お義母さん、お気遣い無く」
断ると
「ねっ!」
わざとらしく雄太に同意を求めた。
義母に幼稚園の事まで口出しされたのでは絵里はやり難い。そうでなくても、義母は孫を甘やかせ過ぎる、と日頃から思っていたのだ。産まれたときから絵里の子育てに口を出し、絵里は自分のやり方を曲げられず、衝突した事もあった。この頃やっと、以前ほど育児に口出しをしなくなったと思っていた矢先に幼稚園に来られたのでは居心地が悪い。これ以上、いたる所で大きな顔をされたのでは絵里は息を抜く間がなくなってしまいそうだった。
雄太のつぶらな瞳は夫の顔にピタリと止まったままだ。絵里にも嫌味を言われた夫はやっと
「………ごめんな」
雄太に詫びた。
「ヤダ、ヤダ、ヤダ、ヤダ!!」
弟の颯太まで雄太の真似を始めると、二人して椅子の上で体をよじらせながら首を振った。困った顔で暫し見つめていた夫は
「ゴメン!」
再び強く詫びると、首をコクリと下げた。
「やーだ! みんなパパ来るって言ってるもん!」
泣きそうな顔で雄太が言うと、夫は雄太を真似た様に悲しそうな面持ちで茶碗を置きながら
「雄太、どうしても、今度の土曜は休めないんだ。……そうだ! 動物園、前に約束したよなっ。動物園は行けるようにするから、な、分かってくれよぉ」
目を見つめ、噛んで含めるように言った。
「……動物園?」
「ああ。キリン、見たいって言ってただろ?」
「うん!!」
早くも機嫌を直したのか、忽ち笑顔になる雄太を見ると安心したのか
「再来週、行こう!」
夫は動物園へ行く日をその場で決めた。
「颯太! 再来週、動物園だって!」
参観日の事などすっかり忘れたようにはしゃぎ始めた雄太と颯太は、夫と固い約束を交わした。
「良かったわね。パパとお出かけなんて久しぶりだもんね」
絵里は笑顔でこども達に話しかけると
「あんまり、無理しないでね」
朝から夫を労った。
このところ刺々しかった絵里が打って変わった様な笑顔を見せると夫は怪訝に思ったのか、絵里を横目で見遣り、無言のままお茶をすすると、忙しい(せわしい)様子で椅子から立ち上がった。絵里は珍しく夫を見送ろうと、後を追うように椅子から立ち上がるが
「……いいよ」
そんな妻を制するように言う。五月蝿そうに言う夫を無視した様に絵里は玄関まで見送りに出ると笑顔で
「いってらっしゃい」
言った。
「………ああ」
夫は幾分憮然とした面持ちでそう相槌を打つと、素早く靴べらを下駄箱の脇に戻し、妻の顔を見ようともせずに家を出て行ってしまった。
端から見れば理想的に見られがちな絵里の家庭だが、夫には愛人が居り、妻である絵里はその愛人に嫌がらせをしているという現実がある。その罪滅ぼしなのか、いつになく上機嫌で接する絵里は、そんな影の部分から目をそらすように、サオリの部屋の玄関ドアに×印をつけた事を忘れようとしていたのだった。