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びーどろの団欒  作者: 小路雪生
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第三十話

 絵里が夜も明けきらない早朝帰宅すると、幸い義母は起床前だった。

 足音を立てぬよう寝室へ上がりベッドへ仰向けになると、一晩中夫を待ち伏せた疲労と睡眠不足からか、最近寝付きの悪かった絵里の瞼は危うく閉じそうなる。

「今寝ちゃダメ…」

 独り言を呟きながら、子供たちを幼稚園へ送り届けたら昼寝をしよう…徹夜明けの気だる頭で思った。


 いつもと同じ一日が過ぎようとするその日の夜、絵里は隠し撮りした写真を寝室のパソコンで読み込み、新規フォルダに保存していた。

 このデータを万一夫に見られてはいけないと考えた絵里は、パソコンにパスワードを設定し、管理する事にした。専用のノートパソコンを使っている夫が寝室のパソコンをいじる事など滅多に無いが、念には念を入れようと、絵里は最新の注意を払うことにしたのだ。

 夫が不在の深夜の寝室でパソコンに向かいながら、隠し撮りした夫の画像を暗い、恨みがましい瞳で睨みつけた絵里は、先回して二人が一緒にマンションに入る姿を写すべきだったと、激しい嫉妬に駆られながら思った。



 数日後、どうしても参観日の都合がつかないという夫の返事を聞いた絵里は、仕事を口実にする夫の言葉を以前のように信じる事が出来ないながらも

「そう…雄太、がっかりね」

 朝の食卓で、悲しそうに俯く雄太に絵里は何気ない素振りで呟きながら

「ママ、雄太の教室にも行くから、大丈夫!」

 夫を無視し、雄太の気を引き立てるように言って聞かせた。

 絵里は明るく言いながらも、これまで「仕事」という言い訳に騙され続けてきた事による不信感から、夫の言葉を真に受けていなかった。そこにサオリの影がある事を知ってしまった今、雄太や颯太という息子との交流さえも、サオリが阻 害しているように思え、湧き上がる怒りを抑えるのに必死だ。

「ごめんな、雄太」

 そんな絵里の心など、夫は知らぬように何食わぬ顔で言った。

 仕事というのが事実であっても、そこにサオリがいるという事実も変わらない。どこまでが仕事でどこまでがプライベートなのか分かったものではない…絵里は、思わず夫に問いただしたくなる気持ちを堪えるように早々に食事を終えると、席を立ち幼稚園へ持たせるお弁当を包み始めた。


 その日、絵里はこどもを幼稚園へ送り届けると、その足でホームセンターに立ち寄った。絵里が購入したのは赤い塗料のスプレー缶だった。

 車を石橋電停方向へ向かわせた絵里は、深夜に訪ねた道順を辿り、レンガ色のマンションの手前で車を停めた。

 平日のこの時間なら居ないはず…絵里は、サオリの留守を狙ってサオリの部屋へ向かおうとしていたのだ。

 助手席に置いたホームセンターの買い物袋を開けると、中からスプレー缶を取り出した。包装用のビニールを剥がしながら

「…このくらい、いいのよ」

 絵里は、今朝の食卓で雄太に詫びる夫の顔を思い浮かべながら、言い訳のように独り言を呟くと、スプレー缶をバッグに押し込んだ。

 覚悟を決めたように真直ぐに正面を睨んだ絵里は、バックミラーを見ながらセミロングの髪を束ね、捻り上げるとバレッタで止めた。髪をアップにし、伊達眼鏡をかけ、バッグを手に颯爽と車を降りた絵里の表情は、やや緊張したように強張っている。

 足早にマンションへ向かいながら不意に上を見上げ、待ち伏せをした夜、人影が現れた窓の位置を確認した。三階の角部屋だった…夫が手を振っていたその時の光景を思い出した絵里は、忌わしい記憶を振り払うように一目散にエントランスへ飛び込んだ。力を込めてエレベーターのボタンを押した絵里に迷いはなかった。

 この時間ならサオリは留守…確認するように腕時計に目をやると、暗い目を上げエレベーターの扉を睨んだ。

 三階でエレベーターを降りると、しっかりした足どりで通路を右へ曲がり、角部屋の玄関ドアの前に立った。

「…許さない」

 憎々しげに呟いた途端、絵里はバッグに偲ばせていたスプレー缶を取り出すと、ドアに向かって一心不乱に二回、素早く腕を振り下ろした。

 ほんの一瞬の出来事だった。微塵の躊躇いも無く、絵里は、サオリの部屋のドアに赤い塗料で大きな×印を吹き付けたのだった。それは天井に届きそうなほど高い位置から床まで描かれ、イヤでも目につく、異様な印だった。

 絵里はドアから目を背けるとその場を立ち去ろうと、今来たばかりのエレベーターに足早に飛び乗った。絵里の人目をしのぶ犯行は、ものの30秒もかかっていないだろう。人の目につかぬよう、絵里は素早く事を終えると俯き加減のまま、やや小走りに車へ戻った。

 スプレー缶の入ったバッグを助手席に放り投げると、高揚した様子の絵里は慌てたようにエンジンをかけようとした。が、興奮しているのだろうか、巧くエンジンがかからない。

 絵里は急く心を鎮める余裕もないままアクセルを踏むと車を急発進しさせ、広い海岸通りへ走り出した。

 心臓の鼓動が早まり、自らの耳に脈打つ音が聞こえるようだった。絵里は一刻も早くサオリのマンションから離れようと、紅潮した顔つきで赤に変わりかける信号を無視し、交差点へ突っ込んだ。そんな逸る気持ちとは裏腹に、午前中にも関わらず、繁華街の手前で道路は混雑しており、絵里は思わず舌打ちをした。捕まってしまうのではないか…と、心細さに胸に震わせる絵里は、追っ手から逃れるように落ち着かない気持ちでハンドルを左へ切ると裏道へ入り、家路を急いだ。

「ただいま帰りました」

 絵里は帰宅の挨拶もそこそこに、義母の視線を避けるように寝室へ入るとベッドへ座り込んでしまった。

『監視カメラなんて無かったわよね…』

 スプレー缶を降りかざした後、絵里は夢中でその場から離れた。周りに人はいなかったはず…絵里はそう思いながらも、なんて事をしてしまったのだろう…自らの大胆な行動を思い出すと、治まりかけていた体の震えが再び始まり、自分のした事が急に怖くなったいた。

 ドア一面に赤い塗料でつけられた×印は、通路を通る人の目には必ず止まるだろうし、帰宅したサオリの目にも真っ先に飛び込むはずだ。その時、サオリはどんな顔をするのだろうか…絵里はこれまで落書きをした事など無く、軽犯罪にあたるであろう自身の行為に呆然としていた。

『あの女のせいで私は犯罪者になってしまった…』マンションを出る時から始まった震えが容易に止まらない絵里は、自分は被害者なのだと自らに言い聞かせる事で、この行動をも正当化しようとしていたのだ。『悪いのはサオリなのよ』しかし、両手を眺めるとその手はカタカタと小刻みに震え続けていた。

 絵里は体を横たえ、天井を見つめると深呼吸をしながら、この出来事を知った夫はどんな顔をするだろうか…犯罪を犯してしまったという恐れを抱きながらも、二人の驚愕する様子を想像すると、絵里は我知らず笑いが込み上げてくるのだった。

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