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びーどろの団欒  作者: 小路雪生
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第二十九話

 何故、あの夜サオリの部屋を直接訪ねなかったのだろう…絵里は、ベランダの位置からその部屋を割り出す事が出来たはずだった。しかし、絵里はそれをせずに郵便ポストからサオリの部屋を特定しようとしたのだ。

 絵里の心には迷いがあったのかもしれない。それは恐怖心なのだろうか…絵里は、現実を受け入れるだけの勇気がなかったのかもしれないと、その時の光景を思い返していた。

 どうせ訪ねるのなら夫を伴うなど、他の方法を取りたかったのかもしれない。夫がサオリの部屋から消えた直後に絵里が単独で乗り込むと、さも見張っていました、と言わんばかりだ。あまりにも必死な感じがし、見苦しい。

 今更格好をつけてどうなるのだ・・・絵里は自身にハッパをかけるが、焦っても仕方がないと、ひとまず帰る事を選んだのだ。見方によっては絵里の行動はいかにようにも説明がつくだろう。しかし、絵里にとっては最も弱みを見せたくない女がサオリなのだ。

 妻としての自信だけが今の絵里には拠り所であり、サオリより有利に立てるとしたらそれが最たる条件である気がしていた。やはり、妻としての威厳を保ちたい…そんな絵里の見栄っ張りな性分が、深夜に押し掛けるという暴挙を抑えたと言ってもいいのかもしれない。しかし、あそこまで現場を押えていながら何も出来なかったという事が、絵里には失態に思え、悔しさを掻き立てていた。


「来週、参観日なの」

 絵里は朝食のテーブルに着いている夫に告げた。夫は新聞をたたみながら訊いた。

「……いつ?」

「土曜日」

 絵里は、サオリの住まいを突き止めた後、その事をおくびにも出さずに過ごしていた。淡々と答える絵里に

「参観日?」

 夫が訊き直した。

「そう。参観日」

 颯太があどけない顔を絵里に向けて呟いた。

「参観日って?」

「ママとパパが幼稚園で雄太と颯太が、ちゃーんと先生の言う事を聞いてるか見に行くの。ほら、春に颯ちゃんが入園してすぐ後、ママ達行って、教室の後ろで見てたでしょ?」

 颯太が入園した直後、雄太のクラスと掛け持ちで参観した時の様子について説明した。

「ママとパパ来るの?」

 雄太が訊いた。

「そう」

 絵里が答えると雄太は嬉しそうに言った。

「わーい!  ママとパパ、一緒に幼稚園行くのぉ?」

「…そうよ。…パパは分からないけど」

 絵里は素っ気ない口調で言った。

「パパも!」

「パパ、また僕の所に来て!」

 雄太と颯太の教室を見て回らなければならない為、春は主に絵里が颯太の教室を、夫が雄太の教室をと、分担をしていたのだ。颯太が初めての幼稚園生活だった事もあり、絵里はどうしても幼い颯太が気がかりで颯太の教室に詰める事になってしまった。その事を考えると、雄太が寂しい思いをしない為には夫の手が必要だと思う。

「…土曜か。…会合があるかもしれない…」

「来られないの!?」

 夫はややくぐもった声で呟くと、味噌汁を口へ運んだ。絵里が素っ頓狂な声で尋ねると

「もっと早く分からなかったのか?」

「あなたがいつもいないからよっ。参観日なのよ。調整してちょうだい!」

 夫は昨夜のおかずだった煮物に箸を伸ばしながら言った。

 絵里は、このところサオリと夫の関係に気を取られていた。その上、二人の関係をかぎ回っている事を今は未だ悟られたくない絵里は、誤摩化すように強い口調で反論した。

「いるだろ! 分かった時点で言わない方が悪いんだよ。直前になって言われてもね…」

 夫も負けじと言い返した。

「朝から…やめなさい!」

 口論になりかけた息子夫婦に義母が顔をしかめて、たしなめた。雄太は上目遣いで

「…パパぁ?」

 夫に呼びかけた。

「……」

 夫は困ったような顔で雄太を見ると目を伏せ、ため息をつくと

「…行ってくるよ」

 そう言いおき、寂しそうな顔をした雄太らの視線を避けるように素早く席を立った。

 「早く食べなさい」

 絵里は雄太と颯太を促しながら、不意にサオリの顔が頭に浮かんだ。『仕事ね…』まるで、サオリが自分の都合で参観日を妨害しているかのように憎々しく思い、朝から忌々しい気分になった絵里は

「大丈夫! ママがパパに言っておくから!」

 その気分を振り払うように明るく言った。 


 絵里はその後も深夜になる度、サオリのマンションへ行こうか…そう思いつつ時計を見つめた。『今なら、主人がいるかもしれない…現行犯なら逃げられないものね』絵里は、胸の内で何度も思った。

 しかし、絵里は逡巡を繰り返した。そこから先の事が絵里には想像がつかないからだ。

 二人が逢瀬を重ねる部屋へ乗り込めば修羅場になる事は確実だ。夫との関係に今以上に大きな亀裂が入るだろう事は容易に想像出来る。夫はあの女と別れるだろうか、それとも、絵里と別れると言い出すのだろうか…絵里は現段階で強行突入を試みたところで夫に絵里への敵対心を抱かせ、家からその足を遠のかせるだけなのではないか、そう思った。

 夫を組敷き、二人を別れさせる事は無理かもしれない…絵里は弱気になっていた。

 これが一時の浮気なら絵里も強く出られそうだが、相手は絵里よりも古い付き合いのある女だ。しかも現在では、妻である絵里以上に夫と過ごす時間が多い。今、夫にとって一番近しい存在かもしれないからだ。

 この先どうなるのか…即離婚、と思えない絵里には乗り込んでから先の事が読めない。


 せっかく待ち伏せまでしながら何も出来なかった事を後悔していた絵里はある晩、一計を案じ、サオリのマンションへ向かうことにした。全身黒ずくめの服装に着替えると、絵里は夜にもかかわらず黒いニット帽を被った。

 マンションから少し離れた場所に車を停めた絵里の手にはデジタルカメラが握られている。サオリの部屋から死角になる建物の間に身を潜め、夫が現れるのを待った。

『このままでは済まさない』絵里は、動かぬ証拠を掴んでおけばいかようにも使えるだろう・・・そう、考えたのだ。

 しかし、その日は明け方近くになっても夫は姿を見せようとしなかった。通りに車は停まっている事から、サオリを訪ねているのは間違いない。長時間外で待ち続けた疲労からか、絵里はいつも以上に切ない気分だった。が、ここまで来たら引き返せない・・・腕時計を見た絵里は、帰ろうという思いを打ち消し、佇んだ。

 何時間経っても姿を見せない夫を待つ間、絵里は何度も部屋へ乗り込んでしまおう…という誘惑に駆られた。その都度心の声に抗いながら、これから自分がしようとしている事と、直情的に呼び鈴をならす事と、どちらがいいのか判断しかねていた。『東の空が明るくなっても出てこなかったから部屋へ行ってみよう』絵里は、立ち続けている気だるさから思わずしゃがみこんだ。

 カメラのモード設定を確認しながらも睡魔に襲われていた絵里の目が覚めたのは、午前四時頃だった。

 ノーネクタイで上着を手にした夫を認めると、夫がエントラスの灯に照らされ、姿を浮かび上がらせた瞬間シャッターを切った。離れた場所から何枚か撮影した絵里は、その場で夫が立ち去るのを待ち続けた。

 写真の用途は絵里にも分からない。しかし、どうしても二人を許せない絵里は、見ないフリを出来ない。そんな絵里の言葉に出来ない思いが、明け方まで夫を待ち伏せ、シャッターを押させたのだろう。

『前回来た時に写真を撮っておけば良かった』絵里は、気が動転していたのだろうと自らを慰めると、車に戻り、帰宅途中にある海岸通りのファミレスに足を運んだ。


『お義母さんが起きるまでに帰らなければ・・・』絵里はそう思いつつ、係に案内された席に着くと熱いコーヒーをすすった。初冬の夜気は肌寒く、コーヒーの温もりに癒される思いだ。

 何度も深夜に外出を繰り返しては夫の行動を知るにつれ、サオリという女は既に夫の生活の一部なのかもしれない…そんな風に強く思わされるのだった。

『サオリは、私の知らないうちに私の生活に踏み込んでいる…』夫にとってどんな存在であろうと絵里には容認出来ないのだ。二人の関係を知らずに過ごしてきた日々を振り返ると、縄張りを侵されたライオンのごとく、サオリに噛みついてやりたいほどの怒りを覚えた。

 ため息まじりにデジカメの電源を入れ、撮影した写真の出来映えを確認した絵里は、苛々した様子で伝票を手に取り席を立った。

いつも読んでいただきましてありがとうございます。

御無沙汰しております。すっかり涼しくなり過ごしやすい毎日ですね。

新しい小説を執筆中の為、更新が滞っておりますが、長い目で見て下さいね ^ ^ ;




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