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びーどろの団欒  作者: 小路雪生
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第二十八話

 数日後の深夜、絵里はリビングの壁掛け時計に目を向けた。

「今夜はお泊まりだわね…」

 夫が夜半過ぎても帰らない事を確かめ、自分の車で家を出ると、夫の行動を見透かしたように海岸通りへハンドルを切った。絵里は、先日タクシーで乗り着けた時の道順でサオリのマンションへ向かおうとしていたのだ。


 表通りから一本外れた路地に面したレンガ色のマンションの前を用心深く通り過ぎた絵里は、一つ先の曲がり角に車を停めた。マンションの前の通りに夫の車が路上駐車されている事に気付いた絵里は、既に夫はここへ来ているようだ…そう思いながらエンジンを切った。予想していた事とはいえ、仕事帰りに寄り道をしている夫を目の当たりにするとやはり動揺を覚える。絵里は、思わず夫の車から目を背けた。

 マンションの入口付近が見渡せるその場所で夫の行動を見張ろうと、絵里は運転席から体をよじり、スモークを貼った後ろの窓から仄かに明るいエントラスに目を向けた。

 今夜はここで待ち伏せだ…今夜も家族が寝静まるのを待って家を出た絵里は、夫が現れるのを固唾を飲んで待つ間、出来る事なら間違いであって欲しい…自然とそう願っていた。この期に及んで今更ながら、夫を信じていたいと思う絵里は『これ以上、知って何になるのだろう…』真実を暴こうと思いつつも、いざ、その時になると迷いを感じていたのだ。自らの行為を愚かしいと思いながら尚も夫の行動を探るのは、怖いもの見たさなのだろうか…絵里は少々自虐的になっているのかもしれない。

 夫の行動に不信感を抱くようになってからの絵里は、以前のように就寝できなくなっていた。一人で寝室に居ると夫とサオリの事が気にかかり、落ち着かないからだ。

 まんじりともしない夜を過ごす辛さを味わっていた絵里は、こうして夫の疑惑を探っている間だけは不安から解放されるのだった。『暇つぶしなの?』…夫を監視する自分自身に問いかけてみるが、絵里にもよく分からない。

 この頃の絵里は苛々する機会が増え、気分も沈みがちだった。寝付きも悪い。それらの原因が夫の行動にあるならば、現実から目をそらさず、事実をしっかりと受け止める意外に絵里の心が晴れやかになる術はないように思われたのだ。

 

 絵里がつらつらと考えていると、いつの間にか時間が経過していた。朝まで中にいるのだろうか…絵里がため息をついたその直後、エントランスに黒い人影が現れた。慌てた絵里は身を乗り出すように注視すると、マンションから出てきた人物のシルエットで夫と分かった。その途端、絵里は心臓を鷲掴みにされたような心地になり、思わず目を見張った。時計は午前二時を回っていた。

 先日のように部屋へ寄らずに帰るなら「送っただけだ」と言い訳も出来るが、深夜に女性宅に入ったあげくに数時間滞在したとなると、どのように疑われても反論の余地はないように思われる。


 絵里が離れた場所に停めた車内から凝視しているのを知らない夫は、車に乗り込む直前、マンションを見上げた。

 窓に向かって手を振る夫の姿を認めた絵里がそのまま夫の視線を辿ると、後部座席の窓の縁ギリギリ、三階のベランダに黒い人影を見る事が出来た。その光景を見た絵里は雷に打たれたような衝撃を覚え、忽ち頭が真っ白になった。夫をその場で問いつめよう…車中で待つ間、そう計画していた絵里だったが、目の前で繰り広げられる光景に浅はかな目論みは脆くも崩れ去っていた。

 真夜中に別れを惜しむ夫と女の姿をぼんやりと眺めていた絵里は、夫が車に乗り込み走り去ったであろうタイミングで前へ向き直り、項垂れた。暗がりではベランダの人物の顔や姿は一切見えない。しかし、先日送り届けた女である事に間違いないだろう。

 ハンドルに置いた絵里の手からは力が抜け、腕はいつの間にか麻痺したようにだらりと垂れ下がり、力が入らなくなっていた。ショックを受けているのだろうか…絵里は分かっていたつもりだったが、実際に夫がこの様な形で姿を現すと呆然としてしまい、考えもまとまらなくなるのだった。


 日頃、家の事を夫に相談すると

「絵里の好きにしたらいいよ」

 決まってそう言い、家や育児を絵里任せにする夫を頼りなく感じていた。休日の夫は、ふ抜けた雰囲気でまるで活気もなく、絵里は掃除機をかけながら

「どいてっ」

 その脚を掃除機の柄で邪険に払う事もあった。そんな時も夫は怒るでもなく言われたままに絵里に従っていた。

「たまには遊んであげてよっ!」

 休日にだらだらと過ごす夫にこどもと遊ぶよう促すと

「…はい、はい」

 夫は言われるままにこども達を引き連れて近所の公園に向かうのだった。

 そんなささいな積み重ねの中で家の主は絵里だと思い込んでいたし、絵里はそれが当然だと思うようになっていた。しかし、その陰で夫は確実に妻を出し抜き、絵里がその事に気が付いた時には容易に後戻りが出来そうも無いほどに事態は深刻化していたのだ。

 この現実を知ったからと言って絵里に何が出来るのだろうか…ここまでの結婚生活を無かった事に出来るのだろうか…絵里は考えを廻らすが、裏切りを知ってしまった今は涙も出ないほど絵里の心は冷え冷えとしていた。


 ショッックのあまり、しばらく動く事も出来ないままぼんやりとしていた絵里は、我に返ったようにおもむろに車を降りると、マンションへ向かって一直線に歩きだした。

 『せっかくここまで来たのに、黙って帰る訳にはいかない』絵里は意地になっていた。夫の嘘を信じ、安穏と暮らす妻を欺きながらその陰で着々と既成事実を積み上げてきた夫の腹黒さを今になってまざまざと見せつけられた思いだ。絵里は、悔しくてたまらずに唇を噛み締めた。

 一階エントランスの扉を乱暴に開けた絵里は、整然と並ぶ郵便受けを見渡した。サオリの部屋がどこなのか確かめようと思ったのだが、どのポストにも表札はなく、部屋を特定する事は出来そうにない。しかし、ここにあのサオリが住んでいる事は確実だ…今しがた帰った夫は、絵里がサオリの住まいを突き止めたと知ったらどんな顔をするだろうか…絵里は悔しさの滲む表情でポストを一つ一つ覗きながら、取り残した郵便物の宛名から部屋を割り出そうとした。

 夢中で各家庭のポストを覗いていた絵里だったが、そんな自分の姿にふと寒々しさを覚えた。『また踊らされているわ…』不意にポストを小窓を押し開ける手を止めた絵里は、初冬の肌寒い夜気の中に立ち尽くした。

『こんな真夜中にこんな事をして…』静まり返る深夜の気配に自身の心を同化させようと深呼吸をすると、絵里は皮肉な笑顔を浮かべ、諦めたように車に戻りエンジンをかけた。『バカバカしい…』深いため息をつきながらエンジンを吹かすと、絵里は力いっぱいクラクションを鳴らした。けたたましいその音はサオリにも届いているに違いない…絵里は、何度も乱暴にクラクションを鳴らすと勢いよくその場を離れ、夫が帰宅しているであろう家に向かって車を走らせた。


 絵里が帰宅しリビングの扉を開けると、風呂上がりの夫はソファーに腰掛けコーヒーを飲んでいた。絵里が外出していた事に気付かないのだろうか…背後に立つ絵里に目を向けようともしなかった。車庫に車が無かった事を夫は知っているはずだ。にも関わらず、深夜に帰った妻に何も言おうとしない夫へ

「…帰ってたんだ」

「…」

 絵里が静かに呟いた。

「どこへ行っていたのか訊かないの?」

 何も言わない夫に絵里は軽い失望を覚えながら重ねて尋ねた。ソファーに座ったまま

「………どこに行ってたの?」

 夫は振り向きもせずに淡々と訊き返すだけだ。絵里は夫の無関心な声の調子に思わず目を閉じた。『言われたから訊くだけなのね…』絵里は込み上げる寂しさを抑えると、問いかけを無視したように黙し階段を上がった。寝室へ入るとベッドに仰向けになった絵里は我知らず、溢れてくる涙を止めようもなかった。

 何が悲しいのか分からない…枕に顔を埋めつつ絵里は思った。ここで喧嘩をすればまた義母に叱られるだろう…何もかもがイヤになり全てを放り出したいほどやるせない気分になっていた。怒りを露にする事も許されないのか…絵里は怒りや悲しみに塞がれたように泣き声を立てる事も出来ずに、ただ涙を流し続けていた。

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