第二十七話
夫の運転する車が着いた先は、石橋電停の近くだった。表の通りから外れた裏通り、コンビニの並びに建つレンガ色のマンションの前で女が降りるのを見た絵里は、夫の車を追い越し、すぐ先の角を曲がると
「停めて!」
運転手に鋭い声で指示を出した。タクシーに乗ったまま、後ろの窓ガラスから夫の車を見つめた絵里が更に目を凝らすと、女がエントランスに入るのを確認できた。シルエットしか見えないが絵里の目にはサオリにしか見えない。それから間もなく夫の車が走り去ると、息を殺したように女が消えたマンションのエントラスを見つめた。
どうやら、ここがサオリの家らしい…絵里は自宅と反対方向に車を走らせ《サオリ》を送り届ける夫の行動を目の当たりにした事で、黒い服の女がただの秘書でない事を確信した。
「普通、逆よね」
絵里が思わず独り言を呟くと
「え? 何ですか? 降りますか?」
「いいえっ」
運転手に訊かれた絵里は慌てて否定した。
絵里は、夫が車をどこかに停めた後、マンションにもどってくるのではないか…そのまましばらく待つ事にした。
「煙草、いいですかね?」
やがて運転手が絵里に声を掛けた。
マンションを見つめていた絵里が時計に目を向けると、既に三十分が経過している。
絵里はため息をつきながら思案した。これほど待って戻らないという事は、今夜は真直ぐ帰宅したのかもしれない…
「………車、出してちょうだい」
ここでこれ以上待っても無駄かもしれない…そう判断した絵里が言うと
「いいんですか?…どちらまで?」
運転手は煙草を吸いたいのか、少し、億劫そうに行き先を尋ねる。
「…」
夫が帰宅したとなると、今絵里が帰ればかち合う可能性がある…これまで絵里を欺いてきた夫の顔を今夜は見たくなかった。少し考えた後、
「…賑やかな所に行って下さい」
運転手に適当に注文をつけた。
「賑やかな所?」
「……ドライブしたいのよ。時間を潰したいの。その辺、適当に回って」
「…はい」
絵里の注文に運転手は怪訝な表情のまま車を発進させた。事情のありそうな絵里の様子に、運転手は呆れたような、深く関わりたくないというような様子をにじませながら、極めてビジネスライクな応対をするのだった。
秘書がボスを送るのは聞いた事があってもボスが秘書を送り届ける話など聞いた事がなかった。絵里は今夜の光景に半ば呆れると笑いが込み上げてきた。なんて自分は滑稽なのだろうか…騙されていたとも知らずに夫の嘘を鵜呑みにしてきたとは…絵里は自分が哀れに思えた上、尾行までする姿が道化師のように思えてならない。悲しいを通り越し、踊らされている自分が可笑しく思えるほどだ。
絵里は、街を走り出すタクシーの窓から暗闇に目を向けつつ、翻弄される自分を冷めた思いで眺めていた。
少し遠回りをした後、家の手前の路地でタクシーを降りた絵里は、車庫に夫の車があるのを確かめると静かに玄関のドアを開けた。リビングまで進むと夫が風呂に入ってる音が聞こえる。
妻が外出していると気付いてないのかもしれない…絵里は夫に気付かれぬようそっと寝室へ上がると深いため息をついた。
今夜の絵里は冷静だった。というよりも、もっと確かな証拠を掴むまでは夫に今夜の事を悟られてはならない…尾行されたと知らずに呑気に風呂に入る夫に薄笑いを浮かべると、憎悪すら覚えた。
家族とはなんて脆いものなのだろうか…深夜に妻が帰宅しても夫は気付きもしない…これならば絵里も不倫が出来そうだ…しかし、夫はそれにさえ気が付かない気がする。
顔は見えなかったが、夫が会社から一人の女性を送り届けたという現実は変わらないのだ。今の絵里に「時間が遅いので送り届けた」などという言い訳は通用しない。あの女はサオリに違いないのだから…絵里は、夫の裏切りを突き止めてこの先どうしたいのか自分でも分からなかった。しかし、騙されているのはイヤだった。
夫の嘘を必ず暴いてみせる…絵里はパジャマに着替えベッドへ入りながら決意をすると、夫とサオリを追いつめていく自らの姿に快感すら覚えた。静まり返る寝室のベッドに横たわると、今夜の出来事を知らない階下の夫の気配に耳を澄ませるのだった。