第二十六話
実家からそのままこども達を迎えに行った後、帰宅した絵里は
「遅かったじゃない」
義母に言われ
「…すいません…ちょっと、具合が悪かったので病院へ行ったんですけど混んでて…」
思わず実家へ向かった事を伏せた。
「どこが悪いの?」
「疲れとか…風邪だと思うんですけど…」
絵里は曖昧に答えた。隠す必要はないと思いつつも、予め実家へ行くと断って出なかった事が絵里を躊躇わせた。
真夜中の夫との大喧嘩は記憶に新しいが、義母はその後、その晩の出来事を忘れたように振る舞っていたのだった。にもかかわらず、妻である絵里が今だに動揺しているという事を義母に見透かされると「あなたがしっかりしなければ…」そうプレッシャーをかけられる事を危惧したのだった。絵里は自分に向けられるであろう、そんな言葉を苦痛と受けて止めてしまうのだ。
取り繕うような笑顔で誤摩化した絵里は、こども達を促すとスイミング教室への支度を急き立てた。
夕飯を済ませこども達を寝かしつけた絵里に
「おやすみ」
義母が声をかけたのは十時を回る前だった。
「おやみすなさい…」
リビングに一人残った絵里は、点いているだけのテレビの映像を目で追いながら、ぼんやりしたまま考えて込んでいた。
『…信じるとは騙される事なのだろうか…騙されいてもそれでも信じるという事なのだろうか…騙していてもその嘘を信じて欲しい、という事なのだろうか…』
絵里は、最近まで長い夢を見ていたようだと感じていた。夫にかけられた催眠術が突然解けたように数年に渡って夫が密かに抱えていた現実を知り、晴天の霹靂とばかりに絵里だけが今頃になって慌てている…そんな気分だったのだ。
『私は除け者じゃない…信じられない…女が居たなんて…』
絵里は激しく取り乱した後、その夜の事を忘れたように淡々と日々を過ごしていた。夫も義母も雄太でさえも、その話題に触れる事無く過ごすうちに段々と、大喧嘩さえも夢の中の出来事のように思えてくるのだった。
『ずっと騙されていたなんて…嘘よ…嘘だわ。仕事なのよ、きっと、そうだわ…』
絵里は心の中で何度も呪文のように繰り返すが、すぐに
『…いいえ、違う! 騙されてはいけない! 仕事なんて嘘よ!』
絵里の思考と感情は迷宮に迷い込んでしまったように、その出口を見いだす事が出来ないまま自問自答を繰り返し続けた。
ふと壁の時計に目を向けると既に十二時を過ぎている。しかし、今夜も夫が帰る気配はなかった。
絵里は携帯電話を握りしめると、また電話を架けて泣きじゃくろうか…一瞬そんな考えが浮かんだ。が、それをしたからいって先日のように夫が素直に帰って来るとは思えない。
絵里は時計を見つめると、明日の夜、事実を確かめよう…そう決めたのだった。
迷ったあげく、結局絵里は数日後の夜、十時過ぎに家を出る事にした。既に義母は自室に入り、トイレ以外出てくる事はなく、こども達も寝入った時刻だった。
これより遅い時間に行っても夫は既に会社を出た後かもしれない…先日の深夜、衝動的に会社まで車を走らせた絵里は、夫が会社に居る間に家を出ようと、家族に気付かれぬよう、静かに家を抜け出した。
絵里の車は大きい為目立つ。車両の台数が減少する時刻では、夫に気付かれてしまう可能性がある事から、絵里はタクシーを大通りで拾い夫の会社へ向かった。
夫のオフィスがあるビルの手前、駐車場を見渡せる位置にタクシーを着けると窓から夫のオフィスを見上げた。
六階はまだ灯が点いており人の居る気配がする。ブラインドが閉ざされた中の様子を知る事は出来なかったが、そのまま目を凝らしていると十一時になる前に一人の女が駐車場へ現れた。それを後から追うように夫が近づくと、二人は夫の車に乗り込んだ。
絵里は、そんな二人の姿を凝視すると胸に焔が揺らめくのを感じ
「あの車を追って下さい」
低いドスの利いた声で運転手に告げた。運転手は驚いたように絵里は振り返り
「…つけるんですか…?」
困惑した表情で尋ねた。
「早く!」
見失っては元も子もない…絵里が急かせると、バックミラー越しに運転手は怪訝な顔で絵里は見た。睨むように発車を促す絵里を認めると、運転手は首を傾げながら気の進まぬ様子でアクセルを踏む。
「気付かれないように車間距離を取って!」
後ろから注意すると、運転手のしかめっ面がミラーに映るのを見た絵里は、渋々と車を走らせる様子など無視したように一台前を走る夫の車に目を向けた。はぐれないよう意識を集中しながら『絶対突き止めてやる…』絵里は夫の言い分と自分の予感の整合性を取るべく、事実を確かめようとしていたのだ。