第二十四話
夫は絵里の取り乱した様子に驚いたのだろうか、はたまた、母親に言われた事が堪えたのか…大喧嘩をした後、夫は十一時か、遅くても十二時前には帰宅するようになった。
しかし、その間も夫は客間で休み、別寝を改める事はなかった。それでも絵里は幾分落ち着きを取り戻し、義母もその晩の事は忘れたようにいつもと変わりなく振る舞っていた。
が、それは一時的なもので、家族が落ち着きを取り戻すと夫はほとぼりが冷めたと思ったのか、数週間落ち着いていた帰宅が再び不規則になり出した。
以前の暮らしに逆戻りした観のある夫に、絵里は再び苛立を募らせていた。
憂鬱な気分でこども達を幼稚園へ送り届けた朝
「おはよう!」
望美から朗らかな声をかけられた絵里だったが、答える元気を失っており辛うじて小声で
「…おはよう」
一言だけ呟くように言うと、逃げるように車に向かった。いつになく追いかけてきた望美が更に言った。
「どうしたのよぉ?」
絵里は沈んだ表情のまま無言でポケットから鍵を取り出した。
「…この頃、元気ないね。具合でも悪いの?」
今朝は挨拶さえも出来なくなっていた絵里に望美はただならぬものを感じたのか、やや踏み込んだ感じで尋ねた。絵里が思わず望美を見ると
「…絵里、ヘンだね。…私、送ってこうか?」
その顔は真剣だった。笑顔が消え、声に力はなく、虚ろな目をした絵里に異変を感じ取ったようだ。加えてこの日は望美の問いかけにすら答えない事から、望美は見過ごす事が出来ないようだった。
「…大丈夫……最近ちょっと疲れてて…」
俯いたまま小声で言う絵里の顔を見つめていた望美が
「…病院行った?」
「…」
意外な問いかけに絵里は思わず望美の顔に視線をあてた。体調が優れないと見えるのだろうか…絵里は運転席の窓ガラスに映った自分の顔に目を向けると、望美とランチに行ってから一ヶ月経つか経たないかの間に、体重が四キロも減っている事を思い出した。
「…無理しない方がいいよ、絵里。…雄ちゃん達、私が送り届けようか?」
案じた様子で望美が言った。
「…大丈夫」
「…そう?…無理はしないで、何かあったら声かけてよね。出来る事があったらするから…ね!」
「…」
望美は労るように言った。
「ありがと…」
絵里は無理に笑顔を見せると望美の視線を避けるように車に乗った。
絵里は義母の居る家へ真直ぐに帰る気になれなかった。甘えたかったのだろうか、夫との生活に自信を失っていた絵里は、そのまま長崎自動車道に乗ると諫早の実家へ向かっていた。
四十分ほどで到着すると絵里は実家の前に車を停め、俯き加減で玄関のチャイムを鳴らした。間もなく奥から母親の声がした。
「どちら様ですか?」
「…絵里です」
内側から開いたドアの前には
「どうしたの?」
急な訪問に驚き顔の母が立っていた。絵里は質問に答えずに居間へ向かうと畳に座り込んだ。前触れも無く来た娘に
「雄ちゃんと颯ちゃんは?」
尋ねた。
「…幼稚園」
「いいの? こんな時間に。あちらのお義母さんは?」
「…」
絵里は無言で写真立てに飾られた雄太と颯太の写真を眺めていた。
ぼんやりしている娘に母は構わず庭へ出ると、家事の途中だったらしく干しかけの布団を干し始めた。
「……お父さんは?」
「釣り! 来る時間が遅ければお父さんが釣ってきた魚、持って帰れるのに」
母は明るくそう言いながら布団を干し終えると部屋へ入り、掃き出し窓を閉めた。母は台所へ向かうとお茶を入れながら絵里に訊いた。
「こんな時間にめずらしい。何かあったの?」
考え込むような表情で黙り込む絵里は、母の質問には答えず黙したままだ。すると、母は絵里の前に湯飲みを置き、テレビのリモコンを手にすると、ザッピング ― チャンネルをあちこち変え
「…いいのやってないね…」
のんびりと呟いた。その様を浮かない顔でぼんやりと眺めていた絵里は、不意に尋ねた。
「………お母さん、お父さんと離婚しようと思った事ある?」
湯飲みに手を伸ばした母は
「あるある。数えきれない。…なんで?」
笑いながら答える。
「どんな時に?」
「…しょっちゅうだもの。いちいち覚えてないわよ」
真剣な面持ちで訊く絵里に母は怪訝な顔を見せつつ答えたが、絵里は、きっと些細なことに違いない…そう思い、すぐに黙り込んだ。
「何かあったの?」
「……」
簡単には話せないほど深刻な話を母にしていいものか、絵里は視線を落し躊躇った。