第二十三話
車道の端に停めた車の中からオフィスを見上げると、既に灯は消えており、人の気配は感じられない。絵里は駐車場に車を向かわせたが、そこにも夫の車はなかった。
この街は夜になるととても静かで、深夜になると走る車は数えるほどに激減してしまう。もし、夫が家へ帰ったならどこかですれ違うはずだが…それとも、ぼんやりしていて夫の車は見過ごしたのだろうか…絵里は携帯を取り出した。
しかし、すぐに留守番電話になってしまう夫の電話に、絵里は項垂れた。悔しさのあまりハンドルを思い切り叩いた絵里は、その痛みはまるで今の自分の心のようだと感じた。
息苦しいほどの嫉妬と苛立に支配された絵里は、何度も何度も意地になったように電話を架け続けた。しかし、夫が出る気配はなかった。絵里は携帯電話を足もとの床に投げつけた。
「家で何かあったって思わないの!?」
車の中で絵里は怒鳴り散らすとハンドルに突っ伏し、頭を抱えて泣きじゃくった。やがて二十分くらいした頃、足もとに落ちた絵里の携帯電話が鳴り、着信のランプが点滅し出した。転がっている電話を急いで取り上げると
「……もしもし?」
夫の番号が表示されたディスプレイを見た絵里は涙声のまま応答した。その声を聞いた夫は黙り込んでいた。
「…お願い…帰ってきて…」
絵里の声は悲壮だった。電話口の向こうで夫が息をのむ気配が伝わってくる。
「…何があったんだ」
低い、くぐもった、潜めるような声だった。
「帰ってきて…」
泣きじゃくる絵里の様子に夫は困り果てた様に押し黙ったままだ。
「帰ってきてー!」
やがて、絵里は泣きながら絶叫すると、嗚咽を漏らして泣き始めた。
「…どうしたんだ?…こども達に何かあったの?」
しかし、絵里の声は言葉にならならかった。ひたすら泣き続ける絵里の尋常ではない様子に、夫は困惑した声で
「…三十分くらいで帰る」
躊躇いがちに答えると電話を切った。
握りしめた携帯電話を耳から離した絵里が目を上げると、暗闇の中に街の灯が見えた。涙でかすむ視界の中に、うっすらと女の影が浮かんだ。絵里は険しい表情で『あんな女の好きにさせるもんですか…』呪うような目つきで一点を凝視すると、絵里は車を家の方向にユータンさせた。
絵里が帰宅しても夫の車はなかった。絵里は、そのままリビングで夫の帰宅を待つと、やがて車庫から夫の車のエンジン音が聞こえてきた。
やがて、玄関から入って来る夫の気配がした。そのままリビングのドアが開くと、入口辺りで立ち尽くした夫は絵里に
「…雄太と颯太に何かあったのか?」
低い声で尋ねた。しかし、絵里はソファーに腰掛け俯いたまま答えようとしなかった。
「絵里!」
夫は強い口調で絵里を促した。
「………どうして帰ってきてくれないの?」
涙に濡れた虚ろな瞳で絵里は、声を絞り出すように尋ねた。
「……仕事ですよ…」
そんな絵里から目を背けた夫は、ため息まじりに『またか』と言いたげな口調で答えた。
「嘘よ!」
忽ち絵里の胸には煮えたぎるような怒りが湧き上がってきた。力任せに怒鳴る絵里に夫は
「嘘じゃない!」
険しい、真剣な表情で言い返した。
『もう、だめだ…』秘書を名乗る女がサオリである事を絵里は既に知っていた。にも関わらず、夫は尚も嘘を突き通そうというのか…絵里は、目の前に立つ夫を恨みがましい目で見上げると、立ち上がった。
「嘘つきーっ!!」
絵里は激しく泣きじゃくりながら大声でそう言うと、置き時計や電話の子機、ティッシュ、新聞…見境なく次々夫に投げつけた。
「止めろ!!」
夫は抗戦するつもりなのか、はたまた取り乱す絵里を制止するつもりなのか、絵里の腕を押さえつけようと必死だった。
「いい加減にしなさい! こんな時間になんなの!?」
突然の大声に絵里の動きが止まった。見ると、奥の和室で休んでいた義母が階段の辺りで立ち尽くしていた。絵里の振り上げた腕は力なく垂れ下がると、そのまま床に座り込んでしまった。真夜中の激しい諍いに目を覚ました義母の顔を見た夫は、バツが悪そうに俯いたままだった。
時刻は午前二時を過ぎていた。
「……遼、あなた、今頃、帰ってきたの?」
義母は困り果てた顔でため息をつきながら夫に訊いた。
「…………さっきね」
夫は顔を背けたまま沈んだ声で言った。
「…もう少し何とかならないの? …こんなところ、こども達に見られたら…なんて説明する気? …家の中が落ち着かないなんて…」
義母は情けなそうな深いため息をついた。
「…すいません」
夫は項垂れ、母親に頭を下げた。
「あんまり言いたくないんだけどね……遼」
一呼吸置いてから
「……あなたは分かってると思ったわ」
義母は悲しそうな顔でポツリと呟いた。
「…あなたには随分と寂しい思いをさせてしまって申し訳なかったって思ってきた。けど…まさかね…あなたまで……」
義母は諦めたような冷めたような表情で呟くと、そこで言葉を切ってしまった。
「雄太…!」
夫は壁に隠れるような姿で恐る恐る覗いてる雄太を見つけた。
「ごめんな、起こして…」
夫は眠そうに目をこする雄太に歩み寄ると伏し目がちに無理矢理、笑顔を作り雄太に言った。
「ママはぁ?」
夫は心配そうに訊く雄太を抱きかかえると
「うん?…ん…大丈夫だよ。……今夜はパパと寝ような」
夫はそう言いい聞かせると、そそくさと二階へ消えてしまった。その後ろ姿見つめながら絵里はしゃくり上げていた。そんな絵里の背中を撫でる義母は、もう何も言おうとしなかった。