第二十二話
絵里は足音で目を覚ました。寝姿勢のまま目を開けると誰かが扉を閉めた後だった。窓からは朝陽が射し込んでいる。
絵里は両目を開けると寝違えたのか、右の首筋が痛んでいる事に気が付きながらそろそろと起き上がった。周りには深夜に散らかした夫の衣類や装飾品が散乱していた。
起き抜けの頭でそれらを眺めると、なんともきまり悪い心地になった絵里は、昨夜の取り乱し様を思い出すと、散らばる夫の衣類等から目を背けた。
『今の、誰かしら…』
絵里は慌てて着替えると階下へ向かった。
「おはようございます」
「おはよう」
既に起きていた義母が庭の植物に水まきをしていたが、早朝に義母が夫婦の寝室を訪ねる事などあり得ない。
絵里は昨夜の事など忘れた顔で朝食とこどもたちのお弁当を作り始めた。
「起きなさーい」
絵里は雄太と颯太を起こすと、朝食時間になってから現れた夫がダイニングで新聞を広げている姿を認めた。見ると、昨夜絵里が真っ先に引っ張り出した、白地のウィンドーペンチェックのワイシャツを着ている。
やはり今朝の足音は夫の様だ…絵里は思った。しかし、部屋の様子を見たはずなのに咎める様子もなく、素知らぬ顔で夫は朝の食卓に着いた。
「パパ、動物園行きたい!」
颯太が無邪気に言った。
「動物園?」
「カピパラぁ」
「キリン!」
雄太と颯太は口々に動物の名前を言い合った。
「うー…すぐには無理だなぁ…」
義母に合わせ、毎朝ご飯と決まっていた。夫は卵焼きに手を伸ばしながらあやふやな、はぐらかすような口調で言った。
「えー!」
「行きたーい!」
雄太と颯太は代わる代わる言い募った。
「今度なっ!」
面倒なのか誤摩化そうとする夫に
「今度って?」
雄太はややふてくされた顔で訊いた。
「…そうだな…休みになったら」
そんな雄太の顔を見た夫は、面白そうに笑いながら目を細めて答えた。
「いつの休みぃ?」
アニメの口調を真似た雄太がふざけた口調でまたも訊いた。夫は声をたてて笑いながら
「…じゃあ、連休か…冬休みか、どっちか」
「ホント? ホントにぃ〜? 約束だよぉ!」
「……ああ…男の約束、な!」
夫は噛み締めるようにゆっくりとした口調で明るく言った。
「男の約束ぅ?」
今度は颯太が訊いた。
「…颯太にも、そのうち、分かるよ」
夫は颯太の目を覗き込むように言うと
「早く食えっ!」
食事を促した。
約束を取りつけ、はしゃぐ雄太と颯太それぞれと指きりを交わす夫の顔は優しかった。
「早くお休みにならないかなぁ〜」
颯太は体をよじって呟いた。
「もう…箸持ってる時はふざけないのっ」
絵里はジッとしていない颯太をたしなめた。
嬉々とした様子のこども達とは対照的に、雄太や颯太の相手をする以外は絵里も夫も義母も、無言のままだった。
それから、連日のように絵里は夜半になると、夫がサオリの元へ行っているのではないか…そう考え、寝つけない日々が続いた。真っ暗な部屋に一人でいると静かな夜の中で夫がサオリと抱き合っている姿が目に浮かぶのだ。打ち消そうとしても、脳裏に焼き付いたように消える事はなく、絵里は苦しさの余り寝室を抜け出し、台所で蛇口を捻った。
何杯も水を飲み、気持ちを落ち着かせようと試みるが、胸の鼓動が早くなるのだ。絵里はキッチンもリビングも煌煌と灯を点けて歩いた。
「暗いからいけないのよっ」
絵里は独り言を呟きながら真夜中に部屋中の灯をつけると、ソファに崩れるように座り込み、遠くを見つめていた。
夫とサオリの絡み合う姿は錯覚や妄想などではなく、今この瞬間、確かに行われているに違いない…絵里はその思いをかき消す事が出来ずに、頭を抱えてうずくまった。息苦しくてたまらない…業火に焼き尽くされるような苦しさに絵里は呻くと涙を流し続けた。
ひとしきり苦しみ抜いた絵里は、ふらふらと力なく立ち上がった。フリースのジャケットをパジャマの上から羽織ると幽霊が漂うなような様子で車に乗り込んだ。
どこをどう走ってるの定かでないほど、絵里の心は今夜夫が一緒にいるであろう、サオリと言う女の事で頭が一杯だった。
信号を曲がった絵里は、夫の会社の近くに車を停めた。十分とかからない場所に居るのに、帰ろうとしない夫の言葉を信じて待つ事が絵里には限界になっていた。