第二十一話
芦崎は、絵里の驚く様子は先刻承知とばかりに落ち着き払っていた。淡々と魚を頬張る芦崎にとっては日常の事で今更驚くはずもなく、絵里はここでも自分が蚊帳の外だった事を思い知らせたのだった。
黙りこむ絵里を無視したように芦崎は一人、魚に舌鼓を打っていた。しかし、絵里の箸はピタリと止まったままだ。
次の料理が運ばれてきても容易に箸をつけようとしなほいど落ち込んでいた絵里に
「美味しいわよ、絵里さんも…」
芦崎が項垂れる絵里に明るく声を掛けると、ようやく顔を上げた絵里は真剣な眼差しで尋ねた。
「…秘書って、どんな事するんですか?」
ひた向きな視線を向けられた芦崎は、静かに箸を置くと
「………いろいろです」
背筋を伸ばし、落ち着いた口調でゆっくりと、しかしはっきりとした声で答えた。
「いろいろって…」
「社長の補佐というか…」
「補佐?」
そこまで答えた芦崎は
「…優秀な人だから、いろいろよ」
低い声で呟くように言うと視線を落した。
「名前は…」
「…」
口が重たくなった芦崎を促すように絵里の眼光は鋭くなった。目を上げた芦崎がそんな絵里を見ると、観念したように、かなりの間を置いてから低い声で言った。
「………辻さんです」
「辻?」
絵里は、そのまま黙り込む芦崎を更に促すように表情を険しくすると
「…沙織さん」
芦崎は絵里の前に置かれた更の辺りを見つめながら答えた。
それを聞いた絵里はその名前を心の中で反芻した。サオリ?……サオリ…やがて、その名前はどこかで聞いた名前だと思い至った。
「…奥の席にいたけど」
ぼんやりした口調の絵里は、聞き覚えのある名前の記憶を手繰ろうとするが、容易に思い出す事が出来ない。すると芦崎が
「……社長のスケジュール管理ですとかお世話とか…社長付きのお仕事ですよ。後は通訳というか、海外とのお取り引きとか…」
秘書なんて前は居なかった…最近やたらと出張が多い…絵里は最近の夫の変化を思い浮かべつつ呟くように訊いた。
「……まさか、出張も一緒、とか?」
「……」
「そうなんですか?」
「…仕事ですから…」
芦崎は澄ました顔で答えると何事も無かったような表情で料理を口に運んだ。それを聞いた絵里は信じられないというような表情で呟いた。
「秘書なんて前は居なかったのに…」
「…」
「必要なんでしょうか? 経営が厳しいと聞いてますけど」
一人淡々と食事を進める芦崎に絵里は尋ねた。
「…以前は総務が中心になって、複数の人が手分けして社長のお仕事をカバーしてましけど、この頃は辻さんが全てなさるので、私達はラクさせていただいてます」
芦崎は涼しげな顔で答えた。そんな芦崎を見つめているうちに絵里は、ひらめくように記憶が甦るのを感じた。
「……もしかして、前に横浜のデパートに勤めてた人?」
芦崎の顔を覗き込むと、確かめるような口調で絵里が尋ねると
「知ってるんですか?」
芦崎は意外そうな顔をした。
「……」
絵里は返事をする代わりに黙り込んでしまった。
「そうですか…」
芦崎は絵里がサオリを知っていた事に一瞬、安堵した表情になりながらも、浮かない絵里の顔を見ると再び表情を引き締めた。芦崎は、絵里の胸中を探るような目つきをしていたが、それ以上何も言おうとしない絵里を認めると、再び黙々と食事を続けた。
『きっとあの サオリ だ…』絵里は、新婚時代に偶然見つけた写真を思い出していた。絵里に問われるままに夫が答えた女の名前は“サオリ”だったのだ。
絵里は呆然としていた。力なく膝に置いた手が微かに震えていた。
帰り際、芦崎は
「絵里さん。今日はお話し過ぎたかもしれませんね…何か気に障る事があったらごめんなさい」
丁寧に詫びた。
「そんな事……私こそ、根掘りは掘り訊いてたって主人に言わないで下さいね」
絵里はそう言うと芦崎と顔を見合わせて作り笑顔を浮かべた。
しかし、芦崎と穏やかに別れたその晩の絵里の心は鉛を抱えたように重たく、全身から力が抜けたようにぼんやりとしていた。夫は午前一時を回っても帰って来なかった。こんな日は大抵朝帰りだ。
以前なら絵里は気にもとめずに休んでいたが、この頃の絵里は以前のように眠れる心境ではなくなっていた。サオリの存在を芦崎の話から知った今、黙って見過ごしていいのだろうか…絵里の心は乱れていた。
『何故、サオリがここに居るのだろう…二人はとっくに別れたはずなのに…横浜にいるんじゃないの? とうに別れているのではないの?』考えれば考えるほど、絵里は混乱した。
夫がかつての恋人をどのような理由で自分の会社で働かせているのか、いくら考えても分かるはずもないが、絵里は女の正体を知ると、その事で頭が一杯になっていた。
女が追いかけてきたのかもしれない…絵里は、夫が今夜も女と一緒に違いないと、憎悪すら抱いていた。
絵里の心は薄気味悪いほど静かだった。しかし、それは活き活きとした感情を失った状態であり、決して普段どおりという訳ではない。抑鬱とも思えるほど絵里の心は塞がれており、最悪ともいえそうだ。
そんな絵里の目は冴え、眠る事など出来そうになかった。たまらずにベッドから起き出すと、寝室のクローゼットや箪笥を次々に開け、一心不乱に夫の衣類を片っ端から引きずり出した。どこかに証拠はないか…絵里は何かに取り憑かれたような形相でポケット一つ一つに手を突っ込み探った。それが終ると、今度はパソコンの電源を入れた。休日に時々パソコンを開いていた夫は何か残しているかもしれない…絵里はムキになってファイルを開いてみるが、そのほとんどが絵里のものだった。夫宛のメールも銀行や絵里が使ったクレジットカード会社のものばかりだ。
最後には小物入れの引出しをひっくり返してみるが、やはり二人の関係を明示する物は何も出てこない。
夫の物をほぼ出し尽くすと、放心したように床に座り込んだ絵里は、脚の踏み場もないほどに散乱した衣類や装飾品、文具などに囲まれて薄暗い部屋で空を見つめていた。