第二十話
翌日、絵里は早めに夕飯の仕度を済ませると芦崎と待ち合わせた商店街のカフェへと急いだ。少し遅れてカフェに到着した絵里だったが、芦崎は約束の時間には来ていたようだ。
「すいません、お持たせして」
芦崎は勤続二十余年になるベテランだ。
先代の頃から仕え、絵里のような若い女性社員らにはやや厳しくとっつきにくかったものだが、完璧な仕事ぶりが評価される、実直な人物だった。
そんな芦崎が絵里に胸襟を開くとは考え難かったが、芦崎を味方に付けられれば社内事情の把握も容易のはずだった。
歩いてもさほどの距離ではないが、予約の時間もある為、商店街を出て交差点からからタクシーを拾うと、1メーターほどの場所にある料亭へ向かった。
「無理にお誘いしたみたいで…」
部屋に案内された後、絵里が改めて詫びると
「いいえ、そんな事…」
芦崎は作り笑いを浮かべて言った。
「こちらこそ、こんなご招待いただいて…」
芦崎は笑顔で礼を述べた。
絵里が芦崎と共に働いていた頃、芦崎は絵里にやや厳しかった。真面目で仕事熱心な芦崎は、腰かけでそつなく仕事をこなす絵里の仕事ぶりに期待していなかったようだ。使えない後輩、そんな風に思っていた節がある。しかし、社長夫人に収まった絵里への気遣いなのか、はたまた久しぶりに顔を合わせたからなのか、当時と立場が変わった現在の芦崎は、物腰柔らかに絵里に接していた。
二人は七年間の変化や、家庭や仕事の話を交えつつ当たり障りない会話に終始していた。
やがて絵里から
「昨日は、お見苦しいところをお見せして…」
職場での夫の態度を詫びた。
「たまたまよ。気になさらないで」
芦崎は目で合図をしながら声を落とすと笑顔を見せた。社交的な芦崎の人あしらいの良さに絵里は気を良くした。やはり、社長夫人だからだろうか、芦崎が昔よりも絵里に打ち解けているように感じられた。
「主人は、会社であんな風に怒鳴る事あるんでしょうか?」
「…どうかしらね…まぁ、いろいろあるんでしょう」
芦崎は絵里から視線をそらすと言葉を濁して料理を褒め、話題を変えようとしていた。普段はあんな風に声を荒げないのかもしれない…芦崎は絵里に気を遣ったのかもしれないと感じた。
ふと、黒いスーツの女の事が思い出された。絵里はその事も訊いてみたくて今夜、芦崎を誘ったのだった。
働く女性の先輩などというのは呼び出す為の口実に過ぎなかった。
「人も大分変わったんですね…少し、増えたみたい」
先代の頃は支社もあり、最盛期には従業員百数十名という時期もあったようだが、夫の代になって以降、支社を閉鎖したり、赤字の部門を閉鎖した結果、自ずと人員も減っていた。
「増えたというほどではありませんけど…時々、バイトやパートさんの入れ替えはありますね」
芦崎は言った。
「あの人だれですか? 髪の長い…」
訊いた途端、芦崎の表情が固くなった。が、すぐにいつもの笑顔に戻ると
「新しく入ったのよ」
「いつ頃?」
「…二〜三年…三年は経ってませんね」
言葉少なに答えると
「そう言えば、お子さんも大きなったでしょう」
芦崎は話題を変えた。
「…ええ、お陰様で」
「上の息子さん、来年は小学校だったかしら」
芦崎は指を折りながら言った。
「ええ、上が六歳で下が四歳です」
「男の子ってやんちゃんのよね」
芦崎はころころと鈴を転がすような声音で笑った。絵里は、芦崎の息子の話を訊きながら芦崎の言葉が心を擦るのを感じていた。あの女が入社したのは二〜三年前という事は颯太が産まれた後になる。絵里は夫との夫婦関係が間遠になった時期を思い返し符合するの気付いた。
「絵里さん、どうしたの?」
「え?」
「冷めちゃうわ。召し上がってみて」
絵里は箸を止めてボンヤリしていた。考え事をしている絵里に向かって芦崎は目を覗き込むように食事を勧めた。
「ああ…はい…」
慌てて愛想笑いをするものの、しばし見つめていた芦崎は素知らぬ顔で料理を口へ運んだ。
「主人、忙しいっていつも言ってるんですけど…そのせいかしら。新しい戦力が必要になったのでしょうね…新しく入った方、みなさん、優秀なんでしょうね」
絵里は女を思い浮かべながら呟いた。
「…そうですね…パートの方も契約社員の方も、皆さんとても熱心で真面目ですね」
芦崎は模範的な受け答えをするだけで特定の誰かについて語っているようには聞こえない。思いあまった絵里は
「何やってるんですか? あの人」
「……あの人って?」
少し間を置いて芦崎が答えた。
「…黒いスーツの…」
「…」
芦崎は俯き加減で焼き物として運ばれてきた魚の骨を取りながら聞こえないように黙り込んでいた。絵里もそのまま黙っていたが芦崎が顔をあげると何かを言いかけた。が、絵里の真剣な眼差しと行き会うとそのまま口を閉じてしまった。しばらく見つめ合った二人だったがやがて芦崎が目を伏せ、魚の身を箸で切り分けながら静かな声で言った。
「………秘書です」
「秘書?…誰の?」
「……社長秘書です」
思わず絵里は絶句した。初めて聞く話だった。
秘書を雇ったからと言ってどうと言う事もない、むしろ当然かもしれない…絵里はそう自らに言い聞かせた。が、芦崎の思いがけない発言に、絵里は愕然とした。
あの女が夫の秘書であるという事が、穏やかならざる未来を宣告されたようで、絵里の頭は忽ち真っ白になり、次に発する言葉を失っていた。
楽しみにして下さってる方には簡単に事情を説明させていただきたいと思います。
先月末頃、脳梗塞様の症状がでてしまい、執筆出来ずに更新が遅れております。お医者は頭痛との事ですが、服用の薬も梗塞の後遺症用の軽いものを飲んで療養中です。一時は半身を動かす事も困難でしたが、今はピアノを弾くという細かい動きを除き、以前と同じように暮らせるまでに回復しました。パソコンもやっと使えようになりました(;;) 正常の範囲内でも細かい血管が詰まる事がもあるようなので、個人的には『軽い脳梗塞だったんだ』と思ってます(––;)
現在「忘れ得ぬ人」を連載中ですので、時々更新が送れる事もあるかと思います。「びーどろ」は随時更新しますので、お待ち頂けると嬉しいです(⌒0⌒) 小路