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びーどろの団欒  作者: 小路雪生
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第十九話

 幼稚園にこどもを迎えに行った帰り道、スーパーに立ち寄った絵里は献立を考えながら今夜は夫の好物を作らない事に決めた。以前義母から

「毎晩、必ず一品くらいはあの子の好きなおかずでも作って黙って待っていれば帰ってくる」

 そう諭されていた。しかし、昼の様子から夫は今夜外泊するかもしれない…絵里は思った。

「今夜何がいい?」

 悶々とした気持ちでカートを押す絵里は、気の抜けた声で雄太と颯太に訊いた。

「ハンバーグ!」

「ハンバーグ!」

 絵里の気持ちなど知らぬこどもらは、元気のいい声で合わせたように答えた。雄太と颯太は買い物中もじっとしていられずに通路でふざけ合っており他の客が避けて通るが、絵里は注意もせずにぼんやりと会社での出来事を思い出していた。

 絵里は比較的長身で勝ち気に見られやすい。しかし、先ほどの女は張りのある大きな瞳に白い肌と華奢な雰囲気で女性らしく、絵里とは対照的だった。夫の好みについて考えていると、ふと、あの女をどこかで見た気がした。


 そんな絵里が会計で気が付くと、いつの間にかカゴにお菓子が増えている。

「また、余計な物買ってぇ」

 既に会計済みのカゴに移された菓子を見ながら雄太と颯太に嘆いて見せたが、二人とも知らぬ顔だ。いつもの絵里なら途中で気付いて棚に戻すところだが、夫から受けた激しい非難がショックで、それを引きずっているのか、絵里はこども達の様子にも気を配れずにいた。

 怒ろうともせず黙り込む母親を心配したのか

「ママ、お腹痛いの?」

 駐車場へ向かう途中で不意に雄太が訊いた。

「お腹?」

「うん」

「痛くないよ」

 絵里は無表情で答えると雄太は沈み込んでいる絵里の様子に異変を感じ取ったのか、カットソーの裾を握って放そうとしなかった。こどもは敏感だ。いつもの絵里と何か違うと幼心に伝わっているのかもしれなかった。

 そんな雄太の様子に絵里は、知らずのうちに涙が込み上げてきた。助手席にスーパーの袋をしまい込みながら思わず手を止めた絵里の目からは、はらはらと涙がこぼれ落ちてきた。後部座席に乗り込んでいた雄太が座席の間から顔を出し

「ママ? ママ? どーしたのぉ…ママァ…」

 心配そうに絵里の顔を覗きながら言った。

「…なんでもない」

 鼻をすすりながら答える絵里の頭を雄太は小さな手で

「よしよし…痛いの痛いの飛んでけー!」

 母親はお腹が痛いのだと思い込んでいるらしく、絵里が教えたおまじないを唱えると絵里の頭を撫でた。絵里は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。こんな時、産まれたばかりの小さかった赤ん坊がいつの間に成長し、他者を思いやれるまでに成長した事をしみじみと実感する。絵里はそんな我が子を見ると、嬉しいのか悲しいのか分からないまま、一層こぼれる涙を止めようもなかった。

「マーマ! 痛いの飛んでけー」

 颯太も真似をすると二人で絵里を心配し始めた。長男の雄太などは目が潤み出し、今にも泣き出しそうな悲しげな目をしていた。その顔を見た絵里はしっかりしなければ…と自らに言い聞かせた。

「飛んでったよ!…ごめんね…」

 手の甲で涙を拭いながら泣き笑いの顔で明るく言ってみせた。

 雄太と颯太に慰められた絵里は車に乗り込むと、こども達の前で泣くまいと決め、エンジンをかけた。


 その日、絵里は夜半になると明日の朝出すゴミをまとめていた。

 ゴミを片付けていた絵里は、昼間の女を思い浮かべていた。あの女をどこで見た気がし、何度も思い出そうと試みたがどうにも思い当たらない。狭い街のどこかで会っているのかもしれない…絵里はそんな風に考えてみるが、妙に気になって仕方なかった。新婚当時に見た写真の女に似ている気もするが、まさかその人が長崎に居るはずはない…ああいうのが夫の好みらしい…絵里は、つらつらと考えながら落ち着かない気分で新しいゴミ袋を広げていると、思いがけず、夫が帰宅した。午前十二時を回っていたが、今夜は帰らないだろうと予想していた絵里には意外な事だった。

 背後に夫の気配を感じて振り向くと、夫は無言のまま絵里を見ていた。「ただいま」「おかえり」の挨拶もせずにしばし見つめ合っていると、やがて夫が口火を切った。

「今日のは何なんだ?」

 憮然とした顔で絵里に尋ねた。その言葉を聞いた絵里は無視したようにポリ容器にゴミ袋セットした。

「どうして断りも無しに会社へ来たりするんだ!」

 夫は業を煮やしたように声を荒げた。絵里は空になったゴミ箱を乱暴に床に置くと、腰に手をあてて振り向き様に夫に言った。

「今日は珍しくお早いお帰りだけど、最近、顔合わせる暇無いんだもの。顔くらい見に行ってもいいんじゃない?」

 絵里は嫌味を言った。家族が寝静まった頃に帰宅し、客間で休む夫とは、朝のひと時しか顔を合わせる事がなくなっていた。義母は

「一応、毎日帰ってきてるんだか…」

 と、息子である夫をかばうが、果たしてこんな生活で一緒に暮らす家族と言えるのだろうか…絵里は、急速に冷えた夫婦関係の原因は夫にあると思っていた。怒りたいのは絵里の方だった。

 それでも黙って堪える妻を当然としか思わない夫の様子に加えて、会社に顔を出した事までこんな風に責められるとは…絵里は悲しみと怒りから表情を歪ませた。

「あなたは、私にどこまで我慢しろって言うの? 妻が社員を労って何が悪いの?」

 世の中には妻が夫の右腕として夫婦二人三脚で会社経営するケースも珍しくない。にも関わらず、自分は挨拶に行っただけでこの言われようだ…絵里は、自分がないがしろにされているようにしか思えなかった。

「改装の事だってそうよ。あんな風に綺麗にするには引っ越しだって必要だったんじゃない? あれ程大がかりな改装だって知ってたら工事中に陣中見舞いぐらいするのが本当だわ。妻としての立場はどうなるの? 私はあなたの何? 夫の会社を訪ねて何がいけないの? 私の会社でもあるのよ!」

 くってかかる絵里に夫は薄笑いを浮かべた。

「私の会社、ね…君は辞めた人だよ」

 夫はキッパリとした口調で言った。

「陣中見舞いね…そんな事はしなくていいよ」

 冷めた表情で言う夫を絵里は睨みつけた。

「会社は君のものじゃない。…君には君の役割があるだろう」

「…役割?」

「そうだ。…とにかく、今後はもう来ないでくれ。君を知らない人も居るんだ…仕事中に家族が用も無く来るなんて…あり得ないよ。そのくらいの事は弁えてる思ったけどね」

 夫は呆れたように嫌味を言うと身を翻し、部屋を出て行こうとしていた。絵里は

「私、お手伝いさんじゃないのよ!?」

 大声で言ったものの、夫はそれを聞かずにリビングのドアを乱暴に開けると、廊下を隔てた客間の襖をピシャ!と、音を立てて閉めた。

 絵里は握りしめていた台布巾をダイニングのテーブルに叩き付けた。そのまま力なく椅子に腰掛けると、頬杖をつき両手で顔を覆った。

 ふとした思いつきがまたもや夫との間に諍いをもたらしてしまった。この頃、顔を合わせると喧嘩ばかりである事に絵里は疲れを感じていた。

 絵里に悪気はなく、落ち度もないはずだ、絵里はそう思っていた。ただ、夫との距離を縮めたい一心でした事に過ぎない。夫に女がいると疑いだし、それを探ろうとするのは、とりもなおさず夫を愛してるからに他ならない。しかし、そんな思いからの嫉妬さえも疎ましいとなじられたら夫婦ですらいられない…絵里はそんな事まで考えるようになっていた。

 絵里は、客間に居る夫の元へ行こうかと顔を上げたが、きっと言い争いになるだけ、と、思い直した。

 とにかく、明日の夜、芦崎に会って会社の様子をそれとなく訊いてみよう…絵里はそう考えると、波立つ気持ちを抑えるように真夜中にも関わらずシンク周りの掃除を始めた。

 こびりついた蛇口の汚れを無心に落としながら気持ちを落ち着かせようとするのだが、今夜は眠れそうになかった。

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