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びーどろの団欒  作者: 小路雪生
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第十八話

 一触即発の雰囲気を回避した事に安堵したのか、或はその場の空気を変えようとしたのか、取って付けたようなわざとらしい笑顔を絵里に向けた芦崎は

「これ、皆で戴きます。本当にわざわざご足労いただいのに…ごめんなさいね」

 申し訳なさそうに、まるで自分がミスをしたかのように頭を下げた。

「そこに、テーブルあるから…」

 囁くと、ホールへと促した。夫から猛然と叱責され打ちのめされていた絵里は、言われるまま、呆然とした様子で出口へ向かった。

  断り無しの訪問とは言え、絵里はれっきとした妻だ。その絵里を見知らぬ勧誘でも追い払うような態度で、しかも人前で怒鳴るなどとは絵里も予想外だった。

 しかし、絵里は社員の前で恥をかかされた事だけを怒り悲しんでいるのではなかった。夫の心の中に妻である絵里の存在が既に無いように感じられるほど、絵里を見る顔が冷ややかだった事が、何よりも絵里の心を凍てつかせた。

 芦崎がホールへ続くドアを開けると絵里は背中に視線を感じた。一瞬立ち止まったものの、黒いスーツの女が自分を見ているような気がした絵里は、それを振り切るようにやや俯き加減で、部屋を後にした。


「今日は機嫌が悪かったんですよ。気にしないで」

 見送ろうとする芦崎は、玄関ホールの来客用テーブルの辺りまで来ると慰めるように声を掛けた。

「…お騒がせしました」

 絵里が殊勝な表情で述べると

「とんでもない…また、いらしてね」

 芦崎は笑顔で言った。そんな芦崎の様子に安らぎを感じた絵里は、甘えるように伏し目がちに言った。

「……一度、ゆっくりお話したいんですけど…お時間いただけませんか?」

 仕事の事なら直接夫に言えば良かった。しかし、あの様子ではこの会社で働く事を反対されるだろう…そう感じた絵里は、芦崎を抱き込もうと企んだのだ。

 勤めている頃、芦崎のような古参の社員を疎ましく感じていた絵里だったが、夫は社内事情に精通し文句も言わずに実直に勤務する萩原や芦崎を頼りにしている。そんな芦崎なら最近の夫の変化についても事情を知っているかもしれない…芦崎が現在の滝貿易のお家事情について易々と口を割るとも思えないが、知らぬ間に会社が随分と変化している事を肌で感じ取った絵里は、強い危機感を覚えたのだった。

「…ええ…でも…どんなお話かしら…」

 芦崎は、戸惑うように口ごもった。

「…いろいろ……こどもも手がかからなくなって働こうかと思うんですけど、家庭と両立している先輩として、いろいろ教えていただけたら、と思って…」

 絵里は、突然の誘いに警戒心を抱かれないよう、言葉を選びながら慎重に言った。

「先輩なんて…」

 謙遜する芦崎に

「お夕食、いかがですか?」

 やはり、先の夫の態度が効いているのか、芦崎は躊躇いがちに言葉を濁した。しかし、仮にも絵里は社長夫人だ。その誘いを断るとは…絵里は自分が軽んじられているように感じると、悔しくてたまらない。雇われている芦崎が絵里を軽んじるとしたら、とりもなおさず、社長である夫が絵里を軽視ししているからに他ならない。先のような態度が周囲にも影響しているからだと感じたのだ。絵里は夫に歯ぎしりたいほどの苛立を覚えた。

 焦れた絵里は煮え切らない芦崎に有無を言わせぬように目に力を込めると

「今日の夜、カフェでお待ちしてます。その後、ご招待させていただきます」

 口調は静かだったが、絵里は芦崎の目をじっと見つめると命じるように言った。

「…すみません、今日は…」

 視線をずらしながら当たり障り無く断ろうとする芦崎に

「では、明日」

 絵里は有無を言わせぬよう、畳み掛けるように言った。芦崎は少し考えるように間を開けると、半ば業務命令と受け取ったように

「…はい」

 絵里の申し出を受け入れた。

 絵里は明日の夜六時半に商店街のカフェで待ち合わせる事を確認すると、会社を後にした。


 むしゃくしゃした気分を鎮めようと、港近くのコーヒーショップへ入るとカフェラテを注文し、いつもより甘めにしてゆっくりと流し込んだ。

 幼稚園のお迎えには少し早いのが幸いしたようだと思いつつ、ひと心地ついた絵里は携帯を取り出すと丸山の老舗料亭に電話を架けた。急だったが、古くから懇意にしている料亭で、親戚との会食をや、夫が社用で利用する事もある為、瀧蔵の名前を出すと明日の夜の予約を二つ返事で受けてくれたのだ。

 芦崎は何をどこまで知ってるだろうか…予約を取り安心したのも束の間、絵里は先ほどの女は一体誰なのか…ひどくに気になっていた。

 絵里から少し離れていた為に細かな顔の造作は分からないが、髪の長い綺麗な女だった。絵里は、夫の携帯にメールを送ろうと電話を開いたが、先の様子を思い出すと到底返事が来るとは思えない。ほとぼりが冷めるまで放っておこう…絵里は先の澄ました様子の女を思い出すと、乱暴に携帯を閉じ、ジャケットのポケットに押し込んだ。

 夫の怒鳴り声に慌てた様子もなく、我関せずといった落ち着き払った態度が他の社員とは違い、威厳さえ漂っていた。ただ者ではない、絵里は直感した。

 これまで職場において夫に女が居るなどと考えた事はなかった。しかし、すっかりリニューアルされたオフィスには、洗練された雰囲気の女がおり、しかも特別な扱いである事を伺わせた。彼女の席が、雰囲気が、それを物語っていた。

 夫がああまで辛くあたるのはあの女が居たからかもしれない…絵里はそう考えると暗く渦巻くような嫉妬を覚えた。もし、そうであるならば、灯台もと暗しもいいところだ…絵里は深いため息をつくと、肩を落とした。


 時計に目を移すと幼稚園へ迎えに行く時刻になっていた。しかし、体が重たく感じられ、立ち上がる気力さえ出てこない。絵里はのろのろとした動作で帰り自宅を始めながら、望美の言葉を思い出していた。

「黒いスーツの女」

 小さく呟いてみると、以前、望美は夫が連れていたのは黒い服の女だと言っていた事を思い出した。

 望美が見たのはあの女に違いない…絵里は確信に近いものを感じると、否定し続けてきた望美の目撃談がここへきて一気に信憑性を増した事に気が付いた。望美の話を認めなければいけないのかもしれない…絵里の心は沈んでいた。

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