第十七話
改装後の室内を初めて見る絵里は、明るく清潔感溢れるオフィスを見回し、二年前の内装工事とはかなり大がかりなものだったに違いないと思った。それを知っていれば差し入れくらしたのに…絵里は、夫とのすきま風が吹き始めたのは昨日今日の事では無いようだと悟った。今更ながら、夫から何も知らされていなかった事に軽いショックを覚えた。
フロアには向かい合わせに四〜六席の机が並べられたシマが複数配置されており、部門ごとに分けられている。この辺りは当時と変わっていない。しかし、壁一面に造り付けられたキャビネットも机も初めて見る物ばかりだった。玄関から床一面に敷き詰められたカーペットに靴音は吸収され、足音さえもしない。どこもかしこも絵里が勤めていた頃とは大きく変わっていた。
「まぁ!」
すっかり現代的なオフィスに変貌を遂げた室内を見回す絵里は、総務の芦崎と目が合った。フロアの中央よりやや奥の席に居た芦崎は隣席の西田とおしゃべりに興じていたが、入口から入ってきた絵里に気が付くと目を丸くして驚いたように立ち上がった。
絵里と芦崎は互いに歩み寄りながら
「お久しぶり! 元気だった?」
芦崎が絵里に言った。
「おかげさまで…」
二人が挨拶を交わしていると
「おやっ」
先代からの信頼が篤く、現在は常務となった荻原が社長室らしき部屋から出てきて絵里に声を掛けた。
「珍しいねぇ…こんな所へ来るなんて…どうしたの?」
萩原と芦崎は顔を見合わせながら、不意に訪ねた絵里に心底驚いているようだった。
「ご無沙汰しています。突然すみません。いつも主人がお世話になっているものですから、たまには御挨拶にでもと思いまして…」
絵里は穏やかな落ち着いた口調で急な訪問を詫びると、携えてきた菓子折りを差し出した。
「これ、皆さんで召し上がって下さい」
「まぁ……そんなお気遣いいただかなくてもいいのに…」
芦崎は大仰に言いながらも、ふと、声を潜めた。思わず声が高くなる勤続二十年の芦崎をたしなめるように見る萩原に気が付いたからだった。芦崎は、そのまま伏し目がちに口をつぐんだ。
次の瞬間、絵里が目を上げオフィスに目を向けると、一番奥に見慣れぬ女が居る事に気付いた。他にも何人か見知らぬ顔ぶれが増えていたが、その女は光彩を放ったように目立ち、絵里の目を惹いた。
まだ休憩中で席を外しているのか、オフィスはやや人少なの雰囲気だ。その中で、黒いスーツに身を包んだ女を見つけた絵里は『あれは、誰…?』食い入るように見つめた。そんな絵里の視線に気付いたのか、萩原は絵里の視界を遮るようにさりげなく立ち位置を変えると
「しかし、まぁ、全然変わらんじゃないか。相変わらず美人さんだ」
お世辞を言った。絵里は思わず笑いながら
「相変わらずお上手ですね」
軽口を叩いた。
萩原の背後にチラチラと見え隠れする黒いスーツが似合う色白の女に一瞥くれた絵里は『ふんっ』と見下すような表情で顔を背けた。
絵里はその女にも聞こえるように声を張ると
「主人はおりますでしょうか?」
萩原と芦崎に向かって誇示するように言った。
「…ああ。…社長呼んできて」
萩原は芦崎に言いつけると、何やら目配せをした。芦崎は黒いスーツの女の視線を避けるように、俯き加減で足早に社長室へ消えた。
女は目の前を通り過ぎる芦崎を一瞬見ながら、書棚からファイルを抜き取ると奥にある席に座った。社長室のドアの真横に一つだけ置かれた机が女の席らしい。
他の机とは離れた場所に女の席がある事に絵里は引っかかりを覚えた。
間もなく社長室の扉が開くと、夫が姿を現した。女は夫に視線を向けると二人は僅かの間顔を見合わせたが、夫の視線はすぐに絵里に向けられた。夫は険しい表情のまま、絵里に歩み寄った。女はそんな夫の様子に何かを感じ取ったのか、夫の背中を見遣ると、絵里にも視線を向けた。しかし、凝視する絵里に気が付くと、素知らぬ顔で先ほどのファイルに顔を戻した。
芦崎の机の傍に立つ絵里に向かって一直線に大またで歩いてきた夫は
「会社には来るな!」
フロア中に響くような怒声をあげた。夫のその様子に驚き、呼吸が止まりそうになった絵里の顔は、見る見る引きつった。目を見開いた瞬間、夫や萩原の肩越しにその女が顔を上げ、絵里達を見つめる様を視界の端に捉えた。
しかし、絵里は厳しい態度で怒鳴りつける夫を睨みつけるように見つめ返すと、反射的に口ごたえをしそうになりながらもそれを抑えた。萩原らが居る手前、家で夫と口論する時のようには言い返せるはずはない。じっと夫の目をねめつけるように真正面から見つめ返すだけだった。
「何しに来たんだっ、帰ってくれ」
絵里に立ちはだかるように仁王立ちで夫は言った。恨みがましいほどの強い光をたたえた瞳をそらす事ない絵里にむかって
「会社には来るなっ」
再び強い口調で命じた。その時、絵里の背後のドアが開き数人の社員が戻って来ると、不思議そうな顔で絵里と対峙する夫を盗み見ていた。
絵里は、戸惑いと同時に激しい然りを感じた。が、夫は、まるで通せんぼするように絵里の前に立ち動こうとしなかった。行く手を遮るかのように絵里を睨みつけるその目は、群れを守ろうとする獅子の姿に似ていた。
「社長、お電話です…」
西田は遠慮がちに声を掛けると絵里に会釈した。二人の様子は見る者に緊迫感を与えていたのか、萩原はやや離れ、見ぬフリをしながらも二人が対峙する様に固唾を飲んでいるのが伝わってくる。
夫は西田に
「今替わる」
そう伝えると
「忙しいんだ。帰ってくれ」
念を押すように言い、素早い身のこなしで絵里の前から立ち去った。
社員の前で怒鳴られた絵里は、プライドが激しくに傷ついているのを感じていた。
社長室へ姿を消そうとしている夫の後ろ姿を目で追うと、その入口に先ほどの女が座っていた。絵里はその女と一瞬目が合ったように感じたが、女は顔色を変える事も無くさりげなく絵里から視線を外すと、何事もなかったような淡々とした顔つきでパソコンのキーボードを打ち続けた。