第十六話
数日後、絵里は駅ビルでクッキーとチョコレートの詰め合わせを買うと、近くにあるかつての職場、現在は夫が代表取締役を務める会社へと向かった。
この後こども達を迎えに行こうと考えていた絵里は、時計に目をやると昼が終わりかけた頃である事を確認した。昼食も終わり、そろろそ午後の仕事に取りかかろうとする前の休憩タイムといった時間帯だ。雑居ビルの駐車場に空きがあるのを確かめると、自分が運転する車を滑り込ませ、菓子折りを手に車を降りた。
オフィスを構えるこのビルは滝貿易の所有だ。初代はここで商売を始めたと聞いている。次第に会社は大きくなり、先代の頃にピークを迎えていた。以前は一階に不動産部門があったようだが、絵里が入社した頃には既に無く、美容院がテナントとして入居していた。
エレベーターで六階の最上階まで上がり、オフィスの扉の前に立った。絵里はドアを開ける直前、以前と様子が違う事に気付き、思わずガラス張りの扉に書かれた社名を確かめたが間違いなく《滝貿易》と記されている。少し躊躇っていると、絵里は一瞬だけ当時の事を思い返した。結婚直後に一度だけ披露宴に列席していただいたお礼を兼ね、挨拶に来て以来七年ぶりの訪問だ。今日、絵里が訪ねる事は夫に知らせていなかった事もあり、やや緊張を覚えたものの『私は社長夫人なのよ』自らにそう呟くと背筋を伸ばしてドアを開けた。
入口がパーテンションで仕切らている為、中の様子が外からは見えない造りに変わっていた。小さなテーブルの上には電話が置かれ、その横には《ご用の方は5番をプッシュをして下さい》と案内が書かれている。絵里が勤めていた頃とは大分、様変わりしていた。以前はこのような玄関のしつらえはなく、机の並ぶオフィスが広がっているだけだった。
電話で呼び出そうか…絵里はそう考えながら衝立ての脇から中を覗くと、ブルーベージュのカーペットが広がるホールの片隅にガラス板のスタイリッシュな応接セットが置かれているだけで、人の気配はなかった。整然とした雰囲気や、レイアウトの変わりように戸惑いを覚えた。
二年ほど前に夫から
「会社の内装を変えてるんだ」
と聞いた事を思い出した。予想外の変化に、見知らぬ会社を初めて訪ねた気分になっていた絵里はしばし足を止め迷った。が『自分の会社じゃない』胸の内で呟くと、そのまま思い切って中へ入ることにした。
新しくなったオフィスをしげしげと眺めながら奥へ歩を進めると、ホールの片隅に置かれた来客用の応接セットの隣に位置した、低いパーテーションの中にも同じ椅子とテーブルがセッティングされているのをみつけた。各テーブルの上には呼び鈴と小さな生花まで飾られ、ホールの片隅には観葉植物まで置かれている。掃除の行き届いた清潔で機能的な様子に、以前の雑然とした社内しか知らなかった絵里は、疎外感を覚えた。同時にかつての職場にはなかった女性らしい心配りが行き届いた様子に、絵里は妙な胸騒ぎを覚えた。
突き当たりの扉の先がオフィスのようだ。話し声が漏れてくる様子から中に人がいる事を確かめると、絵里は一呼吸置いてからドアをノックした。
しばらく待ってみたがノックの音に気が付かないのか、人が出てくる気配がしない。絵里は静かにドアを押し開けた。