第十五話
明け方の諍いをきっかけに、夫は絵里と別寝をするようになった。
「このほうが絵里もゆっくり休めるだろう」
夫はそう言って、帰宅すると二階へは上がらずに客間で就寝するようになっていた。以降、絵里は不満やる方なく、こどもに当たり散らす事が多くなっていた。
「そんな所に落書きしないで!!」
絵里は、クレヨンで壁に悪戯書きをするこども達を苛立った声で叱り飛ばした。
「絵里さん…。そんなに大声出して…いつもいつも怒ってるとかえって言う事を聞かなくなるわよ。見なさい、全然堪えてないじゃない」
見かねた義母が絵里と幼い孫の仲裁に入った。雄太と颯太は絵里の怒りを無視するように母親に背を向けると絵や文字を描き続けている。
「ねぇ、絵里さん。…最近、なにかあったの? …遼と」
「なにかって…?…」
この頃夫が一階で休んでいることに義母も気づいているらしく、遂に黙っていられなくなったのか、いきり立つ絵里に耳打ちするように尋ねた。絵里は、内心ドキリとしながらとぼけたように答えた。
「最近、あの子、客間で寝てるでしょ? …この間ね、聞こえたのよ。…女の人がどうとかって…喧嘩してたでしょ」
「……」
義母は孫達に気づかれないように小声で言うと
「ちょっと来て」
義母の部屋へ絵里を誘った。義母に手招きされ、渋々従う絵里は
「落書きするのは壁だけにしてねっ。ソファーとか、家具はダメよ」
一心不乱に遊び続けるこども達の背中を見つめ、言い置くと俯き加減でキッチンの隣、廊下の突き当たりに位置する義母の部屋へ向かった。義母は、パソコンのある文机の前に正座すると、絵里にも座るよう目で合図をした。
「…夫婦の事だから私が口を出す事ではないけど…この頃、あなた変よ。いつも苛々してるみたい。さっきだって…」
義母の前に正座した絵里は項垂れたように顔を俯けたまま黙り込んでいた。
「遼、最近、下で寝てるでしょ…?…ただの喧嘩ならいいんだけど…」
何も言わない絵里を気遣ったのか、義母は優しい声で呟いた。しかし、その物言いには含みも感じられる。
「…何があったの?」
義母は労るような表情で訊いた。息子夫婦の異変を察している義母に嘘をついても始まらない…絵里は観念したように重い口を開いた。
「…よく分からないんです…ただ、朝帰りも頻繁だし…それを問いただしたら怒ってしまって…」
義母は力なく答える絵里に
「…絵里さん、こどもの前でそういう話はしないほうがいいわ。父親としての立場もあるんだし…」
別寝をするようになってから、絵里は朝、こども達の前で「パパは夜はお泊まりだから」などと嫌みっぽく言うことがあった。
「……」
その事を義母に注意された絵里が再び黙り込んでいると
「…遼の事は構わない方がいいわ。うるさく言うとかえって逆効果よ。…あの子の好きなおかずでも作って、しばらく黙って見ていたほうがいいわ」
義母は絵里を諭すように言った。そんな義母の言葉に絵里が顔を上げると
「遅くても、一応、ちゃんと毎晩帰ってきてるんだし、めくじら立てないで今は大目に見てあげて頂戴、ね」
義母は頭を下げるように絵里に言った。
「私も、亡くなった主人には随分泣かされてきたわ」
小さく微笑むと絵里の手をポン、と叩き
「あなたが黙ってこの家を守っていれば、あの子もそのうち目が覚めるわよ」
慰めるように言った。
亡き義父には長年連れ添った愛人がいた。義父はそちらに居ることが多く、義母との夫婦関係は形骸化していたと、結婚した後、絵里は義母から聞かされていた。今は夫の代になった先代の会社に絵里が勤めていた頃、先代の女性関係について噂を聞いた事はあったものの、その詳細まで知る事はなかった。やがて夫と結婚し、その後にかつて取締役であった夫の父親に別の家庭があったという実態を改めて知り、絵里は軽いショックを受けた事を覚えている。
夫は女性関係を認めようとはせず、むしろ「女がいる」と絵里が決めつけた事に怒ってるようだった。亡き義父は別宅で過ごすことが多く、夫や義母の居る本宅にも帰らなかったと聞いていた絵里は、義母の言うとおり別寝になったとは言え、真面目に帰ってくる夫の様子を思うと、むやみに騒ぎ立てるのは夫を追い詰める結果になりかねない…そう思った。
絵里は、義母にたしなめられてからというもの、不快感をあからさまに出さぬよう夫への振る舞いに注意を払っていた。
が、絵里は自分に落ち度があるように思えない。おとなしくしていると自分が卑屈に感じられ、夫や義母になんとも言えない抵抗を感じてしまうのだった。しかしこれまでと同様、家事をこなし、夫に嫌味を言わなければいいのだ…自らにそう言い聞かせると、絵里はこの局面を乗り切ろうと努めるのだった。
それにしても望美からもたらされた目撃談が、こうも夫婦仲を険悪にしてしまうなどと当初考えていなかっただけに、絵里は望美にも無性に腹が立つのだった。
幼稚園で望美に会っても絵里は挨拶もそこそこに切り上げ、望美との接触を避けるようになっていた。
望美に怒るなど八つ当たりにも見えるが、口数の多い女友達が絵里には無責任に思えて仕方なかった。「うちの家庭が壊れたら望美は責任とれるのかしらね…」憎々しげに独り言を呟きながら愛車でこどもを迎えに行く道すがら、絵里はふと妙案が浮かんだ。
『…こうして暇をもてあましているとつい、余計な事を考えてしまうわ…望美はパートか……私もうちの会社、手伝おうかしら…そうすれば、会社の人事だって把握出来るし…』
絵里は、夫が仕事に口を出されるのを嫌っていたこともあって、結婚して以来、夫の仕事や会社にはノータッチを貫いてきた。しかし、夫の女性関係に疑いを抱く絵里としては夫を取り巻く環視に目を光らせたいところである。社長夫人に収まった今の絵里であれば、社員も妻である絵里に一目置くだろう。そうなれば、使われていた契約社員時代とは違い、思うままに振る舞う事が出来るのだ。絵里の目があれば夫だって好き勝手には出来まい。仮に会社に女が居たとしても、追い出してしまえばいい……絵里は冷えた夫婦関係を修復する為に、こども達が成長し生じつつある余暇を仕事に活用するのはとても良い事に思えた。
自分が夫の会社で働けば今の問題は全て解決する…しかし絵里のそんな考えを現状のままで夫に納得させるのにはやや無理がありそうだ。
絵里は、何か良い手段はないか…車を走らせながら思案を巡らすうち…たまには会社へ顔を出してみよう…勝手にそう決めると、幼稚園の門の手前で車を停めた。